季節はずれのインテルメッツォ(続)

音楽、文学、絵画、スポーツ、シェパード等々についての雑記帖。

コンクール雑感

2008年08月29日 | 音楽
最近、立て続けにコンクールを聴いた。自身で聴いていないものでも、話を聴いたりした。それについて書いておきたい。

僕はそもそもコンクールというものが好きではない。演奏に点数を付ける行為は、人そのものに点数をつけるようで、審査して楽しいものではない。

まあ、受ける人はコンクールを上手に利用して上達すればよい。受かったら人並みに喜ぶ、落ちたらちょっぴり残念がる、その程度がいちばん健康だな。

この夏聴いたもののうち(これはすべて審査員としてではなく、野次馬として)いくつかのコンクールにおいて、今日的な特徴が出ていて問題だと感じたので、記しておく。

ひとつは僕の生徒が二人本選会まで進んだもの。二人とも大学を数年前に出て、一般のカテゴリーで出た。課題曲は自由。一人はブラームスのスケルッツォ、一人はシューマンの3番のソナタを弾いた。

レッスン室でおよその見当は付くけれど、その他大勢の中でいったいどのように響くか、それを確認するために、機会があればこうして聴きにいくのである。結果が気になるのではない。いわば、僕の「勘」を再確認するためである。

評論家各氏は間近で聴くことも絶対に必要なのだ、と書いたことがある。ホールも楽器も演奏も何でもありという有様の時代だ。そうやって感覚を再構成しなければ、耳は育たない。もう何度か書いたように、勝手な解釈を演奏に対して繰り広げるばかりだ。そんなわけで、出ていない生徒も同伴することが多い。

生徒は非常に立派に弾いた。ただ、入賞はしなかった。入賞した人は皆、近現代の作品を選曲していた。全員聴いたわけではないが、曲はつまらぬ、易しいものが多く、ピアニスティックな面でも不備なところが目立つ演奏が多かった。そもそも、エントリーした人の大部分が近現代から選んでいた。

結果発表の際、審査委員長から、ロマン派や古典派から選ぶ人がほとんどいないのは遺憾であると苦言があったという。

その言葉はそっくりその審査委員に返してあげよう。「あなた達が聴く耳を持たずに、まんまと騙されて入賞者全員を近現代から選ぶ以上、どんなとんまでも近現代から選ぶさ」とね。当然ではないか。

僕の生徒は本当によく弾いた。結果にクレームをつけているのではない。ただ、それでも入賞しないのであれば、誰も弾かないに決まっているのだ。ショパンにいたっては、ピアノの最重要レパートリーであるにもかかわらず、ほとんど弾かれていないのではないだろうか。

これが、選曲自由なコンクールで昨今めだつ傾向である。簡単に言えば、審査員が曲りなりにでも知っている曲を避けているのである。その傾向は音大の卒業試験でもみられる。

ちょっと前にはディティユーのソナタがあちこちで聴かれた。卒業演奏に残ったり、入賞するひとが続いて、審査員の耳が少し慣れてきたら、ぱったりと弾かれなくなった。正直なものだ。

さらに驚くべき手段を弄するものも現れる。現存する海外の作曲家の譜面を、その地に住む知人を通して手に入れ演奏する。たしかに反則ではないが、政治家顔負けだなあ。

それもこれも、審査する側が、確固とした耳を持っていないからだ。知らない曲を、いかにもそれらしく演技されると、おずおず点数を与えてしまう。それに反して、知っている(メロディーとハーモニーくらいね)曲だと、少しの不備も安心して減点する。審査員たちの願望と裏腹に、近現代ものばかり選に入って、ロマン派、古典派、バロックはほとんど入らないのは、こんなに単純な理由によるのである、と言っても信じない人は多いだろうね。

実際に弾いてみれば分かる。現代ものが難しく思われるのは、読譜が困難だということに尽きる。その後は何も困難なものは残っていない。もちろん、秀作もあれば労作もある。掃いて捨てるほどの数の駄作も。

しかし、いずれの場合も、同じ時代の空気を吸っているのだもの、分からないと決めてかからなければ、分かりやすいのだ。当然のことだが、時代が遡ればそれだけ、理解することは難しい。

選曲次第で結果が決まること自体は、それでも問題はないといえようか。問題は、演奏者が必ずしもその曲に愛着を持っているとは限らないこと、そしてもっとはるかに重大なのは、そういう選曲ばかりで結果を追い続けると、しまいにはロマン派以前の曲に対し、まるで子供のような演奏しか出来なくなるということだ。

仔細は省くが、簡単に言えば、化粧を厚くして人前に出てばかりいて、スッピンに戻れないようなものだ。