季節はずれのインテルメッツォ(続)

音楽、文学、絵画、スポーツ、シェパード等々についての雑記帖。

感覚

2008年08月07日 | Weblog
人間の感覚なぞ、当てにならないものですよ。僕は所謂途中帰国というものをしなかったから、9年強ぶりにふたたび日本の土を踏んだ。成田から実家(そこで22年ばかり過ごした)までタクシーを使ったのだが、なかなかたどり着けなくて往生した。僕は日本語をすっかり忘れていたのだ。というわけではない。一度そんな気障なことを言ってみたいね。そうだったら格好がつくねえ。

実家は川崎市にあるのだが、多摩川を渡るとまもなく、右手に大きな総合病院が見え、すぐに、駅から伸びてきている細い道路が来る。そこを目安に数百メートル先の交差点を右折すればよかった。

総合病院が建て替わっていたのが、しかも90°向きが変わっていたのが大誤算だった。それでも20年以上通った、駅からの細い道を見逃すはずは無かった。

僕の目はそれを認めようとしたが、気がついたら駅を2つばかり先まで来てしまっているではないか。あとで気がついたのだが、最寄り駅からの細い道は、ドイツの広い道にすっかり馴染んでしまった僕の目には、道ではなく、街中の溝にしか映らなかったのだ。もっと正確に言えば隙間かな。

あれには驚いたなあ、まさか自分の家を探し当てられないとはね。そうそう、序でに書いておけば、ようやく家の方向へ入る道を見つけたのもつかの間、今度は消防署の火の見やぐらを目標にしたのに、火の見やぐらなぞ、ものの役に立たない時代になって取り壊されていて、ここでも右往左往した。

今僕は都心から1時間ほどの町に住んでいるが、いつの間にか「渋谷に近い」と感じるようになっている。人の順応能力の高さに感心する。

そういえば、たま(初代のシェパード)は初めのうち、日本の家屋の狭さになれず、僕の家の狭さというべきかな、振り向くと必ず頭を壁だの柱だのにぶつけていた。それでもしばらく経ったらすり抜けていくようになった。

広い、狭い、という言葉も、どこの国でも概念としては等しく使えるけれど、実際の感じ方はずいぶん違うものだ。200坪の家に住んでいるといったら、日本だったら大変な豪邸だと言いたいね。

猫の額のような庭を眺めながら住んでいる僕は、せめて人間がノミのように小さかったら、僕の家もとんでもなく広大な屋敷だろうに、と思う。僕だけが小さいのはいやだよ、悪い奴にひねられてしまうから。

でも、トルストイの作中の一人物ともなると、神様が人間をこんなにちっぽけに創ったのはなぜだ、と悲嘆する。他の人影ひとつなくて寂しい、というわけだ。そんな嘆きもあるのだな。

そういえば、エルベ川まで散歩に行き(車で10分くらいだったかな)360度ぜんぶ空、その上いつも雲が低く垂れ込めている様を目にすると、空は広いのだとため息が出たな。わずかに見えるのは、向こう岸の堤防からちょこんと頭を出している教会の尖塔だけでね。日本のように必ず山影が視界に入る国で育ったものには、どういえばよいか、突き放されたような感じで、たまに南へ旅行する機会に恵まれると、馴染み深い、つまり視界に山の姿が入るようになり、ホッとしたものだ。

ドイツロマン派の画家フリードリッヒの絵を僕は好きになれない。あまりに観念的で甘ったるく感じるのであるが、彼の描く空をよくよく見ると、丹念に実際にある空を写し取っている。それは僕が見た北ドイツの空そのものでもある。エルベ川のことを書いたら急に思い出した。

帰国したのは3月だったかなあ。次の日横浜の税関にピアノのことで行く用事があり、家内と出かけた。暑く感じてふたりとも半そで姿だった。電車の中でふと気づいたら、半そでを着ているのは他に誰もいない。きっとハイテンションな夫婦だ、と思われただろう。