先日、批評家たちがいかにでたらめを言っているか、恰好の見本でもしめそう、と書いた。そこで少し過去の音楽評論を漁ってみたが、朝日新聞にあった記事に白羽の矢を立てた。時事的関心はまったくないので、数年前の記事である。生徒が、こんな記事があるのですが、どんなものでしょう、とおずおずコピーをとってきたものだ。
文章の品性のなさ、内容の空虚さ等どこからみても立派にその役割を果たしてくれそうだから。
「進化する演奏法ーイタリアのコンクールから」と題する5段抜きの大きな記事である。筆者は音楽評論家とあり、文学博士で音楽監督やある音楽連盟の理事長を務めているらしい。
全文コピーしたいが、操作の仕方が分からない。適当に抜粋して手入力する。退屈だから合いの手も入れながらね。
前略
すでに完成されている若いプロだが、彼らがコンクールを受けるのは、ただ「世界の審査員」に自分の音楽を聴いてもらい、これからの過酷な国際競争に生き残る指針を得るためだ。(筆者自らが審査員をしている。世界の審査員に栄光あれ!)
本選に残ったピアニストたちの音量と音の勢いと音楽性と技術と音の美しさは(テレビショッピングも顔負けの、叩き売りだ。5点まとめて19999円!)コンクールの最初から際立っていて、終始、圧倒的な力を誇示していた。(競馬のパドック情報のほうがまだしも正確だ。特筆すべき音量!と美しさ!が併記される馬鹿らしさはいうまでもない。どこのレストランがてんこ盛りでデリケートな味を引き出すか)
中略
地元のイタリア勢が大崩れしたのは 略 例年よりも優れたピアニストが国外から多く集まったからだろう。(優秀な人材が多く集まった結果、入賞を果たせなかったとしたならば、それを大崩れと表現するのは正しいか?昔、園田高弘さんが、やはりどこかのコンクールで日本人が複数入賞したとき「日本の勝利」と書いていて、馬鹿じゃなかろうか、と思ったのを思い出す。この記事の書きようだって、サッカーのワールドカップじゃないんだよ、と一喝したいね)
中略
(ファイナリストの)二人とも歌いに歌い、鳴らしに鳴らして、にわか仕立てのオーケストラを圧倒。互いにファイナリストの貫禄を見せ付けた。(オーケストラを圧倒て、あんた、大相撲じゃあないんですから。これを素直に受け取ればバランスも何もない、やかましい演奏だったということでしょう。歌いに歌い、鳴らしに鳴らして・・・ああ僕は言葉もない。なんと言う下品な形容だ)
結局、最初からトップを走っていたピサレンコが優勝したが 略 (オリンピックの時期だ。日刊スポーツの記事と間違えそうだ)
中略
音楽の世界でも、確実にグローバル化が進んでいる。全世界に通用するような感性と演奏法でなければ、国際的な経験をもつ審査員やホールに集まった地元の聴衆を「同時に」感動させることはできない。どんな演奏家でも、他人や他国の真似であったり、旧態依然とした保守的な感性では、もはや日常の音楽活動でさえできなくなっているのだ。
茶々を入れるくらいでは済まないから、ここで僕にも言わせていただこう。文学博士が名文を書くべきだとも思わないが、せめて作文くらいできて欲しい。
こういう文章をでっち上げという。音楽のグローバル化とは何だ?色々な国々で聴かれるようになったということだろうか。現代では全世界に通用する感性でなければならないと、声高に言うが、ではお訊ねしよう。昔々カザルスは全世界で求められてはいなかっただろうか?そして、世界中を演奏して回っていたのはカザルスばかりではない。全世界に通用しない感性で、彼らは演奏旅行をしていたとでも言うのか。
いかにもご大層に「グローバル化」などとこけおどし的な言葉を使って、自分でも何を言っているのか分からなくして、目をつむって通り過ぎたような文章ではないか。
「旧態依然」にしてもそうだ。そもそもこうした言葉はむやみに格好がよい響きを持つ。旧態依然とした演奏とは何のことか。入賞者の演奏を聴くしかないのだと言われるかもしれない。楽しみにしておこう。
記事はまだまだ続きます。テレビ番組で「番組はまだまだ続きます」とコマーシャルの前に言われて、じっと待っていたら、次回の予告だった、なんて腹立たしい思いをした人はいませんか?この記事は本当にまだまだ続くのだが、根気がなくなった。読みづらくなるけれど、続きは書き足すことにしましょう。
文章の品性のなさ、内容の空虚さ等どこからみても立派にその役割を果たしてくれそうだから。
「進化する演奏法ーイタリアのコンクールから」と題する5段抜きの大きな記事である。筆者は音楽評論家とあり、文学博士で音楽監督やある音楽連盟の理事長を務めているらしい。
全文コピーしたいが、操作の仕方が分からない。適当に抜粋して手入力する。退屈だから合いの手も入れながらね。
前略
すでに完成されている若いプロだが、彼らがコンクールを受けるのは、ただ「世界の審査員」に自分の音楽を聴いてもらい、これからの過酷な国際競争に生き残る指針を得るためだ。(筆者自らが審査員をしている。世界の審査員に栄光あれ!)
本選に残ったピアニストたちの音量と音の勢いと音楽性と技術と音の美しさは(テレビショッピングも顔負けの、叩き売りだ。5点まとめて19999円!)コンクールの最初から際立っていて、終始、圧倒的な力を誇示していた。(競馬のパドック情報のほうがまだしも正確だ。特筆すべき音量!と美しさ!が併記される馬鹿らしさはいうまでもない。どこのレストランがてんこ盛りでデリケートな味を引き出すか)
中略
地元のイタリア勢が大崩れしたのは 略 例年よりも優れたピアニストが国外から多く集まったからだろう。(優秀な人材が多く集まった結果、入賞を果たせなかったとしたならば、それを大崩れと表現するのは正しいか?昔、園田高弘さんが、やはりどこかのコンクールで日本人が複数入賞したとき「日本の勝利」と書いていて、馬鹿じゃなかろうか、と思ったのを思い出す。この記事の書きようだって、サッカーのワールドカップじゃないんだよ、と一喝したいね)
中略
(ファイナリストの)二人とも歌いに歌い、鳴らしに鳴らして、にわか仕立てのオーケストラを圧倒。互いにファイナリストの貫禄を見せ付けた。(オーケストラを圧倒て、あんた、大相撲じゃあないんですから。これを素直に受け取ればバランスも何もない、やかましい演奏だったということでしょう。歌いに歌い、鳴らしに鳴らして・・・ああ僕は言葉もない。なんと言う下品な形容だ)
結局、最初からトップを走っていたピサレンコが優勝したが 略 (オリンピックの時期だ。日刊スポーツの記事と間違えそうだ)
中略
音楽の世界でも、確実にグローバル化が進んでいる。全世界に通用するような感性と演奏法でなければ、国際的な経験をもつ審査員やホールに集まった地元の聴衆を「同時に」感動させることはできない。どんな演奏家でも、他人や他国の真似であったり、旧態依然とした保守的な感性では、もはや日常の音楽活動でさえできなくなっているのだ。
茶々を入れるくらいでは済まないから、ここで僕にも言わせていただこう。文学博士が名文を書くべきだとも思わないが、せめて作文くらいできて欲しい。
こういう文章をでっち上げという。音楽のグローバル化とは何だ?色々な国々で聴かれるようになったということだろうか。現代では全世界に通用する感性でなければならないと、声高に言うが、ではお訊ねしよう。昔々カザルスは全世界で求められてはいなかっただろうか?そして、世界中を演奏して回っていたのはカザルスばかりではない。全世界に通用しない感性で、彼らは演奏旅行をしていたとでも言うのか。
いかにもご大層に「グローバル化」などとこけおどし的な言葉を使って、自分でも何を言っているのか分からなくして、目をつむって通り過ぎたような文章ではないか。
「旧態依然」にしてもそうだ。そもそもこうした言葉はむやみに格好がよい響きを持つ。旧態依然とした演奏とは何のことか。入賞者の演奏を聴くしかないのだと言われるかもしれない。楽しみにしておこう。
記事はまだまだ続きます。テレビ番組で「番組はまだまだ続きます」とコマーシャルの前に言われて、じっと待っていたら、次回の予告だった、なんて腹立たしい思いをした人はいませんか?この記事は本当にまだまだ続くのだが、根気がなくなった。読みづらくなるけれど、続きは書き足すことにしましょう。