オリンピックはつい見てしまう。
他人のことなのに不思議だ。国粋主義者ではないのに日本の選手が勝つと嬉しい。これも不思議だ。愛国心教育という特別なことをしなくても、人がごく自然に振舞えば同胞を応援し、国旗が揚がるのを嬉しく見るものだ。改めて思う。
僕が関心のある種目は男子サッカーだったが、まるで良いところなく敗退した。ここでも他人事であるはずなのに、おおいに機嫌を損ねている僕がいる。面白いものだ、とでも言わないと収まりがつかない。
スポーツに傍から見ている人があれこれ言うのは、一歩引いて見ると不躾なものかもしれない。でも、誰も何も言わなかったら選手諸君も張り合いがないだろう。
以前も触れたけれど、サッカーという競技では、日本人のふだんの生活上の意識がよく顕れる。
華麗なパスワークを自他共に認めるらしいが、僕にはいつも、このパス回しでは相手に脅威を与えることは出来ないと思われる。学校に勤める友人知人たちの話を総合すると、会議のための会議を重ねていると思って差し支えないようだが、それを思い出させる。パスのためのパス。
サッカーを本格的にしていたという生徒がいて、彼から聞いた話だが。強いチームになると、全日本クラスのコーチが何人も指導に来るという。その誰からも、速く強いパスを蹴るように、と言われたことはない、正確に蹴れ、という指導ばかりだという。速いパスが蹴れないわけではないのだが、ミスをしないようにという意識ばかり植え付けられ、いきおい安全なゆるいパスを多用するらしい。
自分たちに安全なパスは、相手にとっても安全な道理だ。ゆるいボールにばかり慣れているとボールを止める技術(トラップという。知っている人には謝りましょう、それくらい知っているよ、といわれそうだから)も本当には進化しないのではないか。
急に思い出して脱線します。以前手の調子がおかしくてさる医大病院を訪れた。ピアニストの手を診察するというでそれなりに有名な医者だった。僕がピアノを弾くときの動作を詳しく説明しようとしたところ、実に不愉快そうに「ピアノくらい私だって弾けますよ」とさえぎった。
あきれたね。こんな場面でこんなプライドしか示せない医者には患者なぞ治せないさ。「患者のノドチンコくらい僕だって見られる、このスットコドッコイ」と大人の僕は心で毒づいて、二度とその病院へは行かなくなった。もっとも、診察室へ一歩入ったときから、こりゃいかん、と思っていた。劣等感と、その上にもろくも立つプライドが露骨に見えていたから。でもね、入ったとたんに「失礼」と出るのもあまりでしょう。でも、人は顔ですよ。
おっと、何を書いていたか忘れそうだ。そうだ、トラップだった。こうした地味な技術が日本選手は下手だ。決まれば華麗な何とか賞を貰えるようなプレーはそこそこ出来るのだが、それは地味なプレーの上に咲かない限り、あだ花なのである。
日本のチームは一言でいえば負けっぷりが良くないのだ。いくつもあるコンクールが、先細りになり、音大も同様らしい。そこでも、思い切った提案はなされた様子がなく、誰にでも思いつくようなその場しのぎの、対策ともいえぬことばかりがなされる。
思い切った対策といっても、それは何も奇をてらう必要はない。音大でおでんを売るような突拍子もないことをしなくても良い。ただ、当たり前のことをきちんと、情熱を持って行えばよい。音楽が好きな者が、若くて同じように好きな者を指導する。これ以外に必要なものはないのさ。それが出来ない者は去る。物事はこんなに簡単なのだよ。
と、日本の一般的なことへの批判とことごとく一致してしまうのが現在のサッカー代表チームなのである。
勝ちたいと思う気持ちが弱い、とは思わない。そんな人は世界中にいないであろうから。以前、ピアノのコマーシャルのコピーは「耳を澄ませば喝采がきこえる」であった。苦笑いするしかなかった。音は聞こえないで喝采がきこえる。
先に喝采をきいてしまっているようなプレーをしている選手が何人かいた。残念だ。
一人の選手が「このチームには軸になる選手がいない」とコメントしていたが、その通りだ。さらに付け加えるならば、うるさいくらい批判をする選手がいない。これも社会的な現象と合致する。
他人のことなのに不思議だ。国粋主義者ではないのに日本の選手が勝つと嬉しい。これも不思議だ。愛国心教育という特別なことをしなくても、人がごく自然に振舞えば同胞を応援し、国旗が揚がるのを嬉しく見るものだ。改めて思う。
僕が関心のある種目は男子サッカーだったが、まるで良いところなく敗退した。ここでも他人事であるはずなのに、おおいに機嫌を損ねている僕がいる。面白いものだ、とでも言わないと収まりがつかない。
スポーツに傍から見ている人があれこれ言うのは、一歩引いて見ると不躾なものかもしれない。でも、誰も何も言わなかったら選手諸君も張り合いがないだろう。
以前も触れたけれど、サッカーという競技では、日本人のふだんの生活上の意識がよく顕れる。
華麗なパスワークを自他共に認めるらしいが、僕にはいつも、このパス回しでは相手に脅威を与えることは出来ないと思われる。学校に勤める友人知人たちの話を総合すると、会議のための会議を重ねていると思って差し支えないようだが、それを思い出させる。パスのためのパス。
サッカーを本格的にしていたという生徒がいて、彼から聞いた話だが。強いチームになると、全日本クラスのコーチが何人も指導に来るという。その誰からも、速く強いパスを蹴るように、と言われたことはない、正確に蹴れ、という指導ばかりだという。速いパスが蹴れないわけではないのだが、ミスをしないようにという意識ばかり植え付けられ、いきおい安全なゆるいパスを多用するらしい。
自分たちに安全なパスは、相手にとっても安全な道理だ。ゆるいボールにばかり慣れているとボールを止める技術(トラップという。知っている人には謝りましょう、それくらい知っているよ、といわれそうだから)も本当には進化しないのではないか。
急に思い出して脱線します。以前手の調子がおかしくてさる医大病院を訪れた。ピアニストの手を診察するというでそれなりに有名な医者だった。僕がピアノを弾くときの動作を詳しく説明しようとしたところ、実に不愉快そうに「ピアノくらい私だって弾けますよ」とさえぎった。
あきれたね。こんな場面でこんなプライドしか示せない医者には患者なぞ治せないさ。「患者のノドチンコくらい僕だって見られる、このスットコドッコイ」と大人の僕は心で毒づいて、二度とその病院へは行かなくなった。もっとも、診察室へ一歩入ったときから、こりゃいかん、と思っていた。劣等感と、その上にもろくも立つプライドが露骨に見えていたから。でもね、入ったとたんに「失礼」と出るのもあまりでしょう。でも、人は顔ですよ。
おっと、何を書いていたか忘れそうだ。そうだ、トラップだった。こうした地味な技術が日本選手は下手だ。決まれば華麗な何とか賞を貰えるようなプレーはそこそこ出来るのだが、それは地味なプレーの上に咲かない限り、あだ花なのである。
日本のチームは一言でいえば負けっぷりが良くないのだ。いくつもあるコンクールが、先細りになり、音大も同様らしい。そこでも、思い切った提案はなされた様子がなく、誰にでも思いつくようなその場しのぎの、対策ともいえぬことばかりがなされる。
思い切った対策といっても、それは何も奇をてらう必要はない。音大でおでんを売るような突拍子もないことをしなくても良い。ただ、当たり前のことをきちんと、情熱を持って行えばよい。音楽が好きな者が、若くて同じように好きな者を指導する。これ以外に必要なものはないのさ。それが出来ない者は去る。物事はこんなに簡単なのだよ。
と、日本の一般的なことへの批判とことごとく一致してしまうのが現在のサッカー代表チームなのである。
勝ちたいと思う気持ちが弱い、とは思わない。そんな人は世界中にいないであろうから。以前、ピアノのコマーシャルのコピーは「耳を澄ませば喝采がきこえる」であった。苦笑いするしかなかった。音は聞こえないで喝采がきこえる。
先に喝采をきいてしまっているようなプレーをしている選手が何人かいた。残念だ。
一人の選手が「このチームには軸になる選手がいない」とコメントしていたが、その通りだ。さらに付け加えるならば、うるさいくらい批判をする選手がいない。これも社会的な現象と合致する。