季節はずれのインテルメッツォ(続)

音楽、文学、絵画、スポーツ、シェパード等々についての雑記帖。

シューマンの逸話

2008年08月27日 | 音楽
逸話について、ニーチェが面白いことを言っている。

ある人の逸話を3つ私に示したならば、私はたちどころにその人物を見抜く、と。

ニーチェらしい言い方だ。それと同時に、逸話の持っているある種の真実を語ってもいる。

逸話のみならず、表現という視点からいえば嘘でさえも意味を持つ。実は僕は若いころ、ずいぶん女の子にもてた。嘘だと思う人はちょっと調べてごらんなさい。嘘だとわかるから。だが、このような嘘をつく僕の心の方から見てみよう、すると例えば女の子にもてたかった、という意味合いが浮き出てくるかもしれない。この場合の嘘はエビの養殖話を持ちかける類の嘘とは違うのである。

ここではてな?エビの養殖とは何か?と思った人は、新聞やニュースに関心のない、健全な人である。現に、この文章の前まで書いたまま打っ棄っておいたので、自分でもさて、これはどんな事件だったか、と心許ない。事件なぞそんなものだ。数年経ってこれを読んでみたまえ、そして僕に質問してみたまえ、エビの養殖とは何のことだ、と。断言するが、僕は答えられない。

シューマンについて調べたことのある人は色々知っているのかもしれないが、僕は調べたことがないので詳しくない。でも逸話を紹介してみようか。

この教養豊かな大作曲家は、自作をオーケストラと練習したときに、揉み手をしながら、懇願するように指示を与えたという。懇願するような指示という日本語が正しいのか、ちょっと分からないが。

目の前にいる楽員たちよりはるかに音楽的力量も教養も勝るシューマンという天才がですよ。想像してごらんなさい。シューマンという人が「諸君、ここはこうこうこういう表情で是非弾いてください」と懇願する様子を。

こうした時、シューマンはおそらくためらいがちに、言葉を選び選び口に出したに違いない。彼が日本のオーケストラを指揮しなくてよかった。「何をどうしたいか、はっきりしてくれなくちゃ困るよ。結局大きく弾くわけ、小さく弾くわけ?」と叱られて、しょんぼり立っていただろうな。「ああ、諸君、音楽はそんなに単純なものでしょうか」とか口の中でモゴモゴ言ってさ。

二つ目の逸話。

ある日、さる女性と一日をボート遊びをして過ごした。その間、シューマンは一言も口をきかなかった。そして別れ際に「今日私達は心から理解しあいましたね」と言ったというのだ。

今日これを読むとちょいと臭いと思いませんか。でも、そう感じた人は素直になれぬ人だぞ。18世紀の人が今日の僕たちの格好を見たらおったまげて「全国的に乞食がおる」と叫んだと思うね。

リストのおめでたさについて書いたが、ここでも同じことがいえる。シューマンという男の心情に寄り添ってみたら、こんなに分かりやすい言葉はないのではなかろうか。

シューマンは夢を見ている。相手の女性は、何も分からないまま「ええ」と答えたのではないだろうか。すべてはシューマンという男の心の中の出来事だった。ダヴィッド同盟も、何もかも。

この人の作品に頻発するシンコペーションやポリフォニーは、ショパンのような現実的な音楽家からみたら、子供じみたものだったのではないか。シューマンの魅力は、それでも、そこにこそある。

さて三番目の逸話だが、ここではたと考え込んでしまう。知識が無さすぎて、3つ目が出てこない。世間並みの勉強をしておくんだった。例があとひとつ出て来さえすれば僕もニーチェ並みの洞察力を発揮して、たちどころにシューマンを理解して見せたのに、いかにも残念である。惜しいことをした。