気を取り直して続きを書く。この文章の前にすぐ前の記事に目を通していただければ有難い。ブログで困るのは、読書と違って行きつ戻りつしないことには続きを読めないところである。前後の脈絡を失いそうになる。僕が他のブログを読むときもそうだから、本当は一気に書くべきなのだろう。
さて、いちいち僕が合いの手を入れていると煩雑になるから、紹介する朝日新聞上の評論記事の最後の部分は、できるだけそのまま写すことにしよう。その、いかにもインチキくさいニュアンスを感じ取れると思うから。
(祝賀パーティーで)審査員はシャンパンを飲みながら、詳細なメモをとりだして一人一人に適切な助言を与える。彼らも現役のピアニストだから演奏の好き嫌いが明確で、大胆な意見を述べる。ただしユーモアを忘れずに。私も彼らに思うところを述べたが、質問する方が多かった。
「このモダンで新鮮な音楽性と、国民性に偏らない普遍的な国際性を、どこでだれに、いつからどうやって学んだのか」
(筆者が推奨する)「ナポリ・ピアノ奏法」を(若い、選抜されたピアニストに)習わせている。これは身体をまったく動かさず、腕と指だけをなめらかに動かして、これまでのピアノでは弾けなかった「レガート」(はっきりしたフレージング)と「カンタービレ」(美しい歌)を華やかに表現できる極めて有意義な奏法で、オペラのアリアを歌うように、「ベルカント」でピアノが弾けるのだ。
驚いたことに、ピサレンコとソロマティーナは、終始、まさにこのナポリ・ピアノ奏法で弾いていた。二人は「ブリュッセルでアキレス・ヴィニョに習った」という。アキレスは、往年の名ピアニスト、クラウディオ・アラウの弟子。イタリアの若いピアニストたちの今回の敗因は、かれらの貴重な遺産を受け継げなかったことにあるのではないか。
いまピアノの世界では、国境や民族を越えて新しい美を科学的に生み出す奏法を求める真の意味のグローバル化が進んでいる。
以下略
以上である。他に言いようがない。本当は僕がこれに対してコメントをする気にはならない。およそこの評論文以上に無意味なものはそう多くはあるまいから。しかし、大新聞に大きく載った記事に対して、皆が皆、僕のようなすれっからしの読者として接しているとは思えない。
普遍的な国際性、聞こえは良いが、人間の精神は、精神はなどと大上段に構えなくても良い、心の動きは、国民性の上に立っているではないか。昨日のニュースでもグルジアとグルジアからの独立を求めるオセチアが戦争状態になったことを伝えている。
チベットやウィグルの問題も進行中だ。チェコとスロバキアも旧ユーゴスラビアもと数え切れないほどある。これらは一面からみれば政治問題かもしれないが、本質は文化問題ではないか。つまり、国民性に偏らない普遍的な国際性といった概念自体、どこにも存在するはずのないものなのだ。この筆者はここでも耳に心地よい、曖昧な言葉を列記して読者の目を欺こうとする。もっとも、普遍的な国際性という言葉が耳に心地よいかどうか疑問だが。進歩的であることへの願望が唯一の自己証明である人にとっては、魅力ある観念なのかもしれないが。
ナポリ・ピアノ奏法なるものについても同様である。ピアノ奏法なるものがそもそもくせものだが、もう一度上記の形容をよく眺めて欲しい。そしてこの奏法とやらを想像して欲しい。身体をまったく動かさず、腕と指だけを滑らかに動かす、しかもオーケストラを圧倒する大音量を出す。ドラゴンボールじゃあないんだよ。
これまでピアノで弾けなかったレガートがあったことを僕ははじめて知ったが、するとショパンもブラームスもレガートを出来ずに、あるいは知らずにレガートを要求していたわけだ。間抜けな人たちだったのだ。筆者の言うところを信じればそういうことになる。
しかもその奏法は、素人が(音楽評論家だろうが文学博士だろうが素人であることには変わりがない)一目で判別できるものだという。口から出まかせとはこういうのを言う。科学的に美や奏法を生み出す、にいたってはあきれてものも言えない。筆者は科学に深いコンプレックスを持ち、故に科学という語に少女漫画の瞳のようなキラキラお星様を見出しているのか。それにしてもこのようなでたらめな文章を載せる新聞も新聞だ。
こうした個々の箇所を取り上げるだけでも、いかがわしさは山ほどあるのだが、もっともいけないのは次のことだ。
ピサレンコとソロマティーナというふたりの若者はアキレス・ヴィニョに習い、そのヴィニョはアラウの弟子だという。そしてイタリアの若いピアニストたちの「敗因」は、かれらの貴重な遺産を受け継がなかったことにあるのだ、と結論する。では今までなかったレガートだとか、今日では全世界に通用する感性と演奏法が求められる、等の大仰な言い草は何だったのか?結局は人の度肝を抜くような形容、もはや日常の音楽活動すらできないとか、新しい奏法を科学的に生み出すとか、を列挙して自分の空虚さを覆い隠しただけではないか。ゆすりやたかりとどこが違うのか?
このように論旨すらまともに貫けない文章を書き流していても文学博士になれるらしい。
繰り返し書いているように、音楽から音が失われると、あらゆる形容がのさばりだす。この筆者だけが特別おそまつというわけではない。僕が目にする音楽評論の多くは似たり寄ったりである。彼が臆病な自己顕示欲を持っていたおかげで、饒舌になり、無内容が顕著になったにすぎない。
折に触れて音楽評論文を検証してみたいと思う。
さて、いちいち僕が合いの手を入れていると煩雑になるから、紹介する朝日新聞上の評論記事の最後の部分は、できるだけそのまま写すことにしよう。その、いかにもインチキくさいニュアンスを感じ取れると思うから。
(祝賀パーティーで)審査員はシャンパンを飲みながら、詳細なメモをとりだして一人一人に適切な助言を与える。彼らも現役のピアニストだから演奏の好き嫌いが明確で、大胆な意見を述べる。ただしユーモアを忘れずに。私も彼らに思うところを述べたが、質問する方が多かった。
「このモダンで新鮮な音楽性と、国民性に偏らない普遍的な国際性を、どこでだれに、いつからどうやって学んだのか」
(筆者が推奨する)「ナポリ・ピアノ奏法」を(若い、選抜されたピアニストに)習わせている。これは身体をまったく動かさず、腕と指だけをなめらかに動かして、これまでのピアノでは弾けなかった「レガート」(はっきりしたフレージング)と「カンタービレ」(美しい歌)を華やかに表現できる極めて有意義な奏法で、オペラのアリアを歌うように、「ベルカント」でピアノが弾けるのだ。
驚いたことに、ピサレンコとソロマティーナは、終始、まさにこのナポリ・ピアノ奏法で弾いていた。二人は「ブリュッセルでアキレス・ヴィニョに習った」という。アキレスは、往年の名ピアニスト、クラウディオ・アラウの弟子。イタリアの若いピアニストたちの今回の敗因は、かれらの貴重な遺産を受け継げなかったことにあるのではないか。
いまピアノの世界では、国境や民族を越えて新しい美を科学的に生み出す奏法を求める真の意味のグローバル化が進んでいる。
以下略
以上である。他に言いようがない。本当は僕がこれに対してコメントをする気にはならない。およそこの評論文以上に無意味なものはそう多くはあるまいから。しかし、大新聞に大きく載った記事に対して、皆が皆、僕のようなすれっからしの読者として接しているとは思えない。
普遍的な国際性、聞こえは良いが、人間の精神は、精神はなどと大上段に構えなくても良い、心の動きは、国民性の上に立っているではないか。昨日のニュースでもグルジアとグルジアからの独立を求めるオセチアが戦争状態になったことを伝えている。
チベットやウィグルの問題も進行中だ。チェコとスロバキアも旧ユーゴスラビアもと数え切れないほどある。これらは一面からみれば政治問題かもしれないが、本質は文化問題ではないか。つまり、国民性に偏らない普遍的な国際性といった概念自体、どこにも存在するはずのないものなのだ。この筆者はここでも耳に心地よい、曖昧な言葉を列記して読者の目を欺こうとする。もっとも、普遍的な国際性という言葉が耳に心地よいかどうか疑問だが。進歩的であることへの願望が唯一の自己証明である人にとっては、魅力ある観念なのかもしれないが。
ナポリ・ピアノ奏法なるものについても同様である。ピアノ奏法なるものがそもそもくせものだが、もう一度上記の形容をよく眺めて欲しい。そしてこの奏法とやらを想像して欲しい。身体をまったく動かさず、腕と指だけを滑らかに動かす、しかもオーケストラを圧倒する大音量を出す。ドラゴンボールじゃあないんだよ。
これまでピアノで弾けなかったレガートがあったことを僕ははじめて知ったが、するとショパンもブラームスもレガートを出来ずに、あるいは知らずにレガートを要求していたわけだ。間抜けな人たちだったのだ。筆者の言うところを信じればそういうことになる。
しかもその奏法は、素人が(音楽評論家だろうが文学博士だろうが素人であることには変わりがない)一目で判別できるものだという。口から出まかせとはこういうのを言う。科学的に美や奏法を生み出す、にいたってはあきれてものも言えない。筆者は科学に深いコンプレックスを持ち、故に科学という語に少女漫画の瞳のようなキラキラお星様を見出しているのか。それにしてもこのようなでたらめな文章を載せる新聞も新聞だ。
こうした個々の箇所を取り上げるだけでも、いかがわしさは山ほどあるのだが、もっともいけないのは次のことだ。
ピサレンコとソロマティーナというふたりの若者はアキレス・ヴィニョに習い、そのヴィニョはアラウの弟子だという。そしてイタリアの若いピアニストたちの「敗因」は、かれらの貴重な遺産を受け継がなかったことにあるのだ、と結論する。では今までなかったレガートだとか、今日では全世界に通用する感性と演奏法が求められる、等の大仰な言い草は何だったのか?結局は人の度肝を抜くような形容、もはや日常の音楽活動すらできないとか、新しい奏法を科学的に生み出すとか、を列挙して自分の空虚さを覆い隠しただけではないか。ゆすりやたかりとどこが違うのか?
このように論旨すらまともに貫けない文章を書き流していても文学博士になれるらしい。
繰り返し書いているように、音楽から音が失われると、あらゆる形容がのさばりだす。この筆者だけが特別おそまつというわけではない。僕が目にする音楽評論の多くは似たり寄ったりである。彼が臆病な自己顕示欲を持っていたおかげで、饒舌になり、無内容が顕著になったにすぎない。
折に触れて音楽評論文を検証してみたいと思う。