今年鹿島アントラーズに入団した高卒選手の中に、日本のサッカー界が期待を込めてみている選手がいる。大迫という選手である。
僕も一般的なサッカーファンとして彼が本当に大成するならばうれしい。
ただ、サッカーに限らず、演奏もそうだといって構わないけれど、日本の現状は人が大成するのを妨げるものがある。それが気になる。
以下、大迫選手がデビューした時の記事を紹介しておく。音楽関係の人はサッカー用語を音楽用語に置き換えて読んでみたらおよそ思い当たるところがあるのではないか。
それだけの力を持っているからこそ、オリベイラ監督はうれしい悩みを打ち明ける。「大迫は数十年(に1人)の逸材。大切に育てたい。報道で間違った方向へ行かないよう心からお願いしたい」。入団以来の“大迫フィーバー”が、成長の妨げになりはしないかと本気で心配している。
指揮官の懸念をよそに、大迫は試合後、野沢とともにスタンドに上がった。拡声器を渡され「結果を出すよう頑張るのでよろしくお願いします」とあいさつすると、サポーターから大声援を受けた。「これで終わらないようにしたいです」。ふくらむ一方の周囲の期待も、スーパールーキーの成長の燃料となる。
どうです、監督の心配をよそに、記事はこのような浮かれ具合である。監督の心配をよそに大迫選手は進歩を続けた、という文ならばうれしいが、新聞屋は騒ぐ理由が見つかって喜んでいるだけだ。
それにしても「報道で間違った方向に行かないように」と言われる報道とは。
ふくらむ一方の期待というが、誰がどう期待しているというのか。今までふくらむ一方の期待を寄せた選手たちとどこが違うのか?そんなに確実な見る目をいったい誰が持っているのか?
僕も一介のファンとして期待はする。日本の点取りやはもう久しく出ていないから。
と言ったところで僕にあるのは期待感だけで、それが大迫選手だろうと、他の選手だろうとかまわない。大迫選手が数十年に一人の逸材だと見抜く力は僕にあるはずも無いから、伸びる芽をつむような愚だけはしたくない。そう思っている。
その点で僕はオリベイラ監督の心配を理解できる。世界中のメディアに新しい人材を持ち上げる傾向はあるだろう。でもわが国のメディアはそれに加えて感傷癖までがある。
いちいち名前を挙げはしないけれど、根拠なく何となくの期待感から何人の選手を必要以上に持ち上げ、腐らせてきたのか、胸に手を当てて反省してみたら良い。
若い人は殊に褒められると自分を見失う。歳をとっても、褒められれば嬉しいのが人情だからね。流されてはいけない、という余計なエネルギーまで課すのはどうかと思う。
ふくらむ一方の期待もスーパールーキーの成長の糧になる、なんて誰が決め付けているんだい。この手のマッチポンプ的な書きっぷりが日本にはやたら多い。お祭りと僕が言う所以だ。
若い選手が、ここを若い音楽家と言い換えても、あるいは単に若い人がと言い換えても良い、ただでも技量を高めるのに四苦八苦しているのに、その上なおおだてや褒め殺しから身を守るすべを身につける必要を迫られるのは酷である。
天才ともてはやされれば天才を意識したプレーになりがちだ。何人もそういう選手がいた。そういう選手はそれまでの人だというのも真理だ。それを言うのはたやすい。しかしハイエナのように群がって「売れる」記事に仕立て上げた挙句にいう言葉ではないね。
周囲が成熟していないということなのだろう。
高原という選手も高卒時から注目を浴びた選手だった。ところが加熱しがちな周囲とは別に、チームメイトにいたドゥンガという選手に「その気になるな、お前はマラドーナではない」と釘を刺され続けたという。
ドゥンガは元ブラジルの中心選手で、現ブラジル監督である。すぐに浮かれてしまう環境を作りやすいところでは一人でもこういう人物が必要なのかもしれない。
僕も一般的なサッカーファンとして彼が本当に大成するならばうれしい。
ただ、サッカーに限らず、演奏もそうだといって構わないけれど、日本の現状は人が大成するのを妨げるものがある。それが気になる。
以下、大迫選手がデビューした時の記事を紹介しておく。音楽関係の人はサッカー用語を音楽用語に置き換えて読んでみたらおよそ思い当たるところがあるのではないか。
それだけの力を持っているからこそ、オリベイラ監督はうれしい悩みを打ち明ける。「大迫は数十年(に1人)の逸材。大切に育てたい。報道で間違った方向へ行かないよう心からお願いしたい」。入団以来の“大迫フィーバー”が、成長の妨げになりはしないかと本気で心配している。
指揮官の懸念をよそに、大迫は試合後、野沢とともにスタンドに上がった。拡声器を渡され「結果を出すよう頑張るのでよろしくお願いします」とあいさつすると、サポーターから大声援を受けた。「これで終わらないようにしたいです」。ふくらむ一方の周囲の期待も、スーパールーキーの成長の燃料となる。
どうです、監督の心配をよそに、記事はこのような浮かれ具合である。監督の心配をよそに大迫選手は進歩を続けた、という文ならばうれしいが、新聞屋は騒ぐ理由が見つかって喜んでいるだけだ。
それにしても「報道で間違った方向に行かないように」と言われる報道とは。
ふくらむ一方の期待というが、誰がどう期待しているというのか。今までふくらむ一方の期待を寄せた選手たちとどこが違うのか?そんなに確実な見る目をいったい誰が持っているのか?
僕も一介のファンとして期待はする。日本の点取りやはもう久しく出ていないから。
と言ったところで僕にあるのは期待感だけで、それが大迫選手だろうと、他の選手だろうとかまわない。大迫選手が数十年に一人の逸材だと見抜く力は僕にあるはずも無いから、伸びる芽をつむような愚だけはしたくない。そう思っている。
その点で僕はオリベイラ監督の心配を理解できる。世界中のメディアに新しい人材を持ち上げる傾向はあるだろう。でもわが国のメディアはそれに加えて感傷癖までがある。
いちいち名前を挙げはしないけれど、根拠なく何となくの期待感から何人の選手を必要以上に持ち上げ、腐らせてきたのか、胸に手を当てて反省してみたら良い。
若い人は殊に褒められると自分を見失う。歳をとっても、褒められれば嬉しいのが人情だからね。流されてはいけない、という余計なエネルギーまで課すのはどうかと思う。
ふくらむ一方の期待もスーパールーキーの成長の糧になる、なんて誰が決め付けているんだい。この手のマッチポンプ的な書きっぷりが日本にはやたら多い。お祭りと僕が言う所以だ。
若い選手が、ここを若い音楽家と言い換えても、あるいは単に若い人がと言い換えても良い、ただでも技量を高めるのに四苦八苦しているのに、その上なおおだてや褒め殺しから身を守るすべを身につける必要を迫られるのは酷である。
天才ともてはやされれば天才を意識したプレーになりがちだ。何人もそういう選手がいた。そういう選手はそれまでの人だというのも真理だ。それを言うのはたやすい。しかしハイエナのように群がって「売れる」記事に仕立て上げた挙句にいう言葉ではないね。
周囲が成熟していないということなのだろう。
高原という選手も高卒時から注目を浴びた選手だった。ところが加熱しがちな周囲とは別に、チームメイトにいたドゥンガという選手に「その気になるな、お前はマラドーナではない」と釘を刺され続けたという。
ドゥンガは元ブラジルの中心選手で、現ブラジル監督である。すぐに浮かれてしまう環境を作りやすいところでは一人でもこういう人物が必要なのかもしれない。
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