季節はずれのインテルメッツォ(続)

音楽、文学、絵画、スポーツ、シェパード等々についての雑記帖。

たわごと

2008年08月09日 | 音楽
先日、批評家たちがいかにでたらめを言っているか、恰好の見本でもしめそう、と書いた。そこで少し過去の音楽評論を漁ってみたが、朝日新聞にあった記事に白羽の矢を立てた。時事的関心はまったくないので、数年前の記事である。生徒が、こんな記事があるのですが、どんなものでしょう、とおずおずコピーをとってきたものだ。

文章の品性のなさ、内容の空虚さ等どこからみても立派にその役割を果たしてくれそうだから。

「進化する演奏法ーイタリアのコンクールから」と題する5段抜きの大きな記事である。筆者は音楽評論家とあり、文学博士で音楽監督やある音楽連盟の理事長を務めているらしい。

全文コピーしたいが、操作の仕方が分からない。適当に抜粋して手入力する。退屈だから合いの手も入れながらね。

前略

すでに完成されている若いプロだが、彼らがコンクールを受けるのは、ただ「世界の審査員」に自分の音楽を聴いてもらい、これからの過酷な国際競争に生き残る指針を得るためだ。(筆者自らが審査員をしている。世界の審査員に栄光あれ!)

本選に残ったピアニストたちの音量と音の勢いと音楽性と技術と音の美しさは(テレビショッピングも顔負けの、叩き売りだ。5点まとめて19999円!)コンクールの最初から際立っていて、終始、圧倒的な力を誇示していた。(競馬のパドック情報のほうがまだしも正確だ。特筆すべき音量!と美しさ!が併記される馬鹿らしさはいうまでもない。どこのレストランがてんこ盛りでデリケートな味を引き出すか)

中略

地元のイタリア勢が大崩れしたのは 略 例年よりも優れたピアニストが国外から多く集まったからだろう。(優秀な人材が多く集まった結果、入賞を果たせなかったとしたならば、それを大崩れと表現するのは正しいか?昔、園田高弘さんが、やはりどこかのコンクールで日本人が複数入賞したとき「日本の勝利」と書いていて、馬鹿じゃなかろうか、と思ったのを思い出す。この記事の書きようだって、サッカーのワールドカップじゃないんだよ、と一喝したいね)

中略

(ファイナリストの)二人とも歌いに歌い、鳴らしに鳴らして、にわか仕立てのオーケストラを圧倒。互いにファイナリストの貫禄を見せ付けた。(オーケストラを圧倒て、あんた、大相撲じゃあないんですから。これを素直に受け取ればバランスも何もない、やかましい演奏だったということでしょう。歌いに歌い、鳴らしに鳴らして・・・ああ僕は言葉もない。なんと言う下品な形容だ)

結局、最初からトップを走っていたピサレンコが優勝したが 略 (オリンピックの時期だ。日刊スポーツの記事と間違えそうだ)

中略  

音楽の世界でも、確実にグローバル化が進んでいる。全世界に通用するような感性と演奏法でなければ、国際的な経験をもつ審査員やホールに集まった地元の聴衆を「同時に」感動させることはできない。どんな演奏家でも、他人や他国の真似であったり、旧態依然とした保守的な感性では、もはや日常の音楽活動でさえできなくなっているのだ。

茶々を入れるくらいでは済まないから、ここで僕にも言わせていただこう。文学博士が名文を書くべきだとも思わないが、せめて作文くらいできて欲しい。

こういう文章をでっち上げという。音楽のグローバル化とは何だ?色々な国々で聴かれるようになったということだろうか。現代では全世界に通用する感性でなければならないと、声高に言うが、ではお訊ねしよう。昔々カザルスは全世界で求められてはいなかっただろうか?そして、世界中を演奏して回っていたのはカザルスばかりではない。全世界に通用しない感性で、彼らは演奏旅行をしていたとでも言うのか。

いかにもご大層に「グローバル化」などとこけおどし的な言葉を使って、自分でも何を言っているのか分からなくして、目をつむって通り過ぎたような文章ではないか。

「旧態依然」にしてもそうだ。そもそもこうした言葉はむやみに格好がよい響きを持つ。旧態依然とした演奏とは何のことか。入賞者の演奏を聴くしかないのだと言われるかもしれない。楽しみにしておこう。

記事はまだまだ続きます。テレビ番組で「番組はまだまだ続きます」とコマーシャルの前に言われて、じっと待っていたら、次回の予告だった、なんて腹立たしい思いをした人はいませんか?この記事は本当にまだまだ続くのだが、根気がなくなった。読みづらくなるけれど、続きは書き足すことにしましょう。

感覚

2008年08月07日 | Weblog
人間の感覚なぞ、当てにならないものですよ。僕は所謂途中帰国というものをしなかったから、9年強ぶりにふたたび日本の土を踏んだ。成田から実家(そこで22年ばかり過ごした)までタクシーを使ったのだが、なかなかたどり着けなくて往生した。僕は日本語をすっかり忘れていたのだ。というわけではない。一度そんな気障なことを言ってみたいね。そうだったら格好がつくねえ。

実家は川崎市にあるのだが、多摩川を渡るとまもなく、右手に大きな総合病院が見え、すぐに、駅から伸びてきている細い道路が来る。そこを目安に数百メートル先の交差点を右折すればよかった。

総合病院が建て替わっていたのが、しかも90°向きが変わっていたのが大誤算だった。それでも20年以上通った、駅からの細い道を見逃すはずは無かった。

僕の目はそれを認めようとしたが、気がついたら駅を2つばかり先まで来てしまっているではないか。あとで気がついたのだが、最寄り駅からの細い道は、ドイツの広い道にすっかり馴染んでしまった僕の目には、道ではなく、街中の溝にしか映らなかったのだ。もっと正確に言えば隙間かな。

あれには驚いたなあ、まさか自分の家を探し当てられないとはね。そうそう、序でに書いておけば、ようやく家の方向へ入る道を見つけたのもつかの間、今度は消防署の火の見やぐらを目標にしたのに、火の見やぐらなぞ、ものの役に立たない時代になって取り壊されていて、ここでも右往左往した。

今僕は都心から1時間ほどの町に住んでいるが、いつの間にか「渋谷に近い」と感じるようになっている。人の順応能力の高さに感心する。

そういえば、たま(初代のシェパード)は初めのうち、日本の家屋の狭さになれず、僕の家の狭さというべきかな、振り向くと必ず頭を壁だの柱だのにぶつけていた。それでもしばらく経ったらすり抜けていくようになった。

広い、狭い、という言葉も、どこの国でも概念としては等しく使えるけれど、実際の感じ方はずいぶん違うものだ。200坪の家に住んでいるといったら、日本だったら大変な豪邸だと言いたいね。

猫の額のような庭を眺めながら住んでいる僕は、せめて人間がノミのように小さかったら、僕の家もとんでもなく広大な屋敷だろうに、と思う。僕だけが小さいのはいやだよ、悪い奴にひねられてしまうから。

でも、トルストイの作中の一人物ともなると、神様が人間をこんなにちっぽけに創ったのはなぜだ、と悲嘆する。他の人影ひとつなくて寂しい、というわけだ。そんな嘆きもあるのだな。

そういえば、エルベ川まで散歩に行き(車で10分くらいだったかな)360度ぜんぶ空、その上いつも雲が低く垂れ込めている様を目にすると、空は広いのだとため息が出たな。わずかに見えるのは、向こう岸の堤防からちょこんと頭を出している教会の尖塔だけでね。日本のように必ず山影が視界に入る国で育ったものには、どういえばよいか、突き放されたような感じで、たまに南へ旅行する機会に恵まれると、馴染み深い、つまり視界に山の姿が入るようになり、ホッとしたものだ。

ドイツロマン派の画家フリードリッヒの絵を僕は好きになれない。あまりに観念的で甘ったるく感じるのであるが、彼の描く空をよくよく見ると、丹念に実際にある空を写し取っている。それは僕が見た北ドイツの空そのものでもある。エルベ川のことを書いたら急に思い出した。

帰国したのは3月だったかなあ。次の日横浜の税関にピアノのことで行く用事があり、家内と出かけた。暑く感じてふたりとも半そで姿だった。電車の中でふと気づいたら、半そでを着ているのは他に誰もいない。きっとハイテンションな夫婦だ、と思われただろう。




自然

2008年08月05日 | Weblog
大自然という大げさな言い方は一応措いて。

僕は人一倍自然が好きだ。さて今これを読んだ人は何を思うか。私もそうだ、緑の中にいると心休まる、という人もいるだろう。海を思い浮かべる人も当然いるだろう。

なかには気難しい人がいて、なんの根拠があって人一倍好きだと断言できるのか、と不愉快そうに考えるだろう。

僕はただ「自然保護」という言葉が嫌いなのだ。そしてそれに関連する運動をしている人に一種の違和感を持つのだ。前の記事で自然派女史を苦手としている、と書いたのと同じことなのだ。

自然を人一倍愛するといいながら「自然保護」は好きではないというのは、ずいぶん筋の通らぬ話ではないか、と思う人も多いだろう。

僕が抵抗感を持つのは「保護」という言葉に対してである。自然を保護しよう、保護しようと叫ぶうちに、なにかしら、人間がか弱い自然を守ろうといった、無意識の働きが生じないだろうか。

守られなければならないのは、主として緑であろう。でも、僕は今、庭の雑草に手を焼いている。あっというまに伸びる。出かけるときに気づいて数本抜くのだが、次の日にははるかに勢い良く成長している。このたくましさには本当に感心する。

雑草はそうでしょう、でも森林単位で考えてごらんなさい、毎年どれだけの緑が失われているか。その通りだが、放っておけばよい。人類がいなくなれば、死に果てたような地面からも、雑草はあっというまに生い茂り、やがて樹木も育つ。自然は人間よりもはるかに強い。

そもそも、自然といえば山、川、海と連想が働くのは僕たちが住む土地の特徴を反映しているだけだろう。しかしサハラ砂漠だって自然だし、火星の荒涼とした風景だって自然なのだ。もっとも火星は行ったことないけれどね。おっと、サハラ砂漠もなかった。

むかし日本のある水産加工会社がアラブで缶詰を売ろうとしたが、まったく売れなかったそうだ。味覚テストではよい結果が出るにもかかわらず。なぜか。それは缶詰にお日様のマークが入っていたからだそうだ。

照りつける太陽に苦しめられている人々にとっては、太陽は呪うべきものなので、かの地では月が恵みをもたらすシンボルなのだ。それも三日月が。熱い地方にある国々の国旗に三日月が多いのはそうした事情だそうだ。わが国もこう暑い日が続き、しかも年々気温が高くなっていくのだったら、日の丸はたまらん、という気持ちになったりしてね。

人間は緑が無ければ生きていけない。子供でも知っている。だから保護しなければ、ということなのだが、保護という言葉を使っている限り、危機感を高めようという訴えは心に届くことはあるまい、と思っている。

自然は、ここで大自然はと言いなおしてもよい、俺の知ったことではない、とせせら笑っているのだ。ため息しか出てこない。やがては地球も太陽に飲み込まれていくのだそうだ。大自然というのは、けっして人に優しくはないのだ。

脱都会も結構だ。僕もそういう感情を持つ一人だ。緑をこよなく愛す、と言ってもよい。庭を雑草だらけにするくらい緑を好む。だが、他人から庭の雑草は大自然ではない、と説教される筋合いは無い。途方もない宇宙という自然からみれば、アマゾンのジャングルだって大自然ではない、とイヤミのひとつも言いたくなる。

ぼんやりと雑草を眺めやりながら、人も犬も猫もいなくなっても地上をこうして草や蔦が覆い始めるのだ、と感慨にふける。なんともろいことか。

都会の「人工的な」緑を愛でることを馬鹿にしないほうがよさそうである。そうだ、雑草を抜くのはやめておこう。




大自然

2008年08月03日 | Weblog
何だかんだ言っても車の世話になっているなあ。複雑な思いである。というのも、僕は運転が好きではないからだ。

車が好きではないけれど運転する以上、故障もする。自慢ではないが、運転以上に故障が嫌いだ。だからJAFに入っている。全国に同好の士はいっぱいいるだろう。これも同嫌の士というべきか。

さて、JAFの会員になると、定期的にJAF Mate という冊子が送られてくる。熱心に読んでいるわけではないが、役に立つこともあり、現に僕が持っているたった3着のセーターのうち2着はこの冊子の通販で購入したのである。

ここ数ヶ月、タレントで栃木県あたりに住んで農作業をしながらエコロジーの啓蒙活動のようなことをしている女性が、ゲストと対談しているコーナーがある。僕は芸能界に疎いので名前を覚えられない。名前と顔がまったく一致しない。健康保険は芸能人健康保険というのに加入していて、売れっ子タレントたちに支えられているにもかかわらず、感謝の心が足りないのであろうか、覚えない。

この女性がどうも苦手でね、正しい道を説かれているようで。これは余談。

2,3ヶ月前、これまた自然体験の大切さを子供たちに教えているというタレントの男性と対談していた。この人もよい人の顔をしている。顔は見覚えがあるが、名前は分からない。

二人は意気投合していた。まあ、この手の冊子で対談に呼んで、大激論に発展するはずもないからね。あったらおもしろいのだけれど。小林秀雄さんと江藤淳さんが対談中に、三島由紀夫の自決について意見が分かれて、とても面白い。編集してもあの調子なのだから、実際はすごかったのではないか、と空想を掻き立てられる。でも、JAF Mate でそんなことが起こるはずがない。決まりごとのように対談は進む。NHKのようだ。

男性タレントが「僕は都会の人が言う自然て自然ではないと思う。人工的な緑だ」と言い、女史も力強くその発言を肯定しているのをみて、僕は奇異な感じがした。

当たり前のことだ。都会から緑が失われ、まとまってある場所といえば、整備された大きな公園だけだということは、住んでいる人が誰でも知っていることだ。その上、大きな公園といっても実際にはアメリカやイギリスの公園と比べると、みすぼらしいほど狭い。それを大自然と感じる人がいるはずがない。

しかし、都会に住む人が、猫の額ほどの庭の草花を愛でる心を自然というのではないだろうか。タレントの二人にしても、もしも売れっ子になっていなかったら、都会で暮らしながら、あるときは「大自然」の中で自然食を満喫するという幸福には恵まれなかっただろう。その時には、自分の周りには自然がない、と嘆くだろうか。庭の雑草に雨粒が付いているのだって、美しいさ。

と書いて、最近マンションの一角を、それも1メートルばかりの隙間を柵で囲って樹を、3本植えて「保存緑地」と札が立っているのをよく見かけるのを思い出した。あれは僕の言っていることとは何の関係もないぞ。あんなけちな光景は笑うを通り越してあきれる。開いた口が塞がらない、というがあれは開いた口がはずれる。こういうのはイカサマというのだ。黙っていればこれも自然だ、と僕からお墨付きがもらえるのにね。遠慮がちにしておけばよいのに、いけずうずうしく主張したばかりにイカサマ呼ばわりされる。

自然と書いて思い出したことがあるから、改めて書くことにする。










アフタータッチ

2008年08月01日 | 音楽
ピアノの発音機構について書いたところ、時折コメントを寄せてくださる伊藤治雄さんからコメントがあった。そこに返事を書こうと思ったが、なかなか厄介なもので、長くなるかも知れぬ、と思い、それなら新たな記事にしてしまおうと書いている。
第一、コメント欄があることを気づかずにいる人も結構な数に上るので。

以下が伊藤さんのコメント。

家のアップライトで、アフタータッチを試してみました。
 キーは1センチ位沈みますが、6ミリか7ミリ程押し下げると音が出る所、抵抗を感ずる所がありますね。ピアノを習っていても、なるほど、言われてみなければ気がつかないかもしれない。
 アフタータッチからキーが底板につくまでの間隔、何百分の一秒かもしれないが、それは演奏にどう効いてくるのかしら。レガート奏法が可能になるとか? 指は確かに底まで押した方が安定するような気がするけれど。
 音の大きさは、キーを押す力の大きさではなく、キーを押す指の加速度によるのかしら。しかし古典力学の法則
 F=mα
で、mは指の重さとすると、この違いはあまり意味を成さないようにも思える。いや、音の大きさと指の加速を関係づけるのは無理かもしれない。ピアニッシモを高速で弾くことができなくなってしまうわけですからね。

以下略

これは部分的には正しく、ただピアノの奏法への誤解もあり(当然だ、専門家を自認している人たちが誤解どころか碌解、碌でなしの碌ね、死地解を重ねているからね)少し言葉を補っておきたい。

アフタータッチの位置を知ることが演奏にどう響くか、という点は、音が散り、割れ、一言でいうと楽音ではなくなるということに尽きる。また、この点より手前で力が抜けてしまった場合は音にならない。いわゆる腑抜けた音、死んだ音がするのはこうした場合である。

何べんも繰り返すが、ピアノという楽器がある程度音らしきものが与えられているため分からない時には分からない。しかし、示されれば誰にでも聞き分けられる。

この場所を知るのは、伊藤さんが試したように指でゆっくり押さえていけばすぐ分かる。しかし厄介なことに演奏で常にそこを探り当てる、言い換えれば加速の頂点をそこに持ってくるには体で覚える以外ないのである。そうした点はスポーツと似た「認識」のしかたである。

底まで弾いたほうが安定するということは、分かりやすく言えばピアノに寄りかかるわけで、これは絶対に避けなければならない。演奏に際しては、むしろ肩から腕全体を運んでいると言ったほうが正確なのである。たとえば弓を持つヴァイオリニストと似ている。

レガート奏法が可能になる、云々についてはそうかもしれないとだけ言っておこう。そもそも、評論家たちは(演奏家も)例えばケンプが独自のレガート奏法を編み出した、とか言うが、怪しいものだ。はっきり言えば嘘だ。レガートという表現はあっても、レガート奏法は無いということも可能なのである。ブゾーニは一本指でレガートをしたまえ、と言ったそうである。

楽音になったならば、レガートの表情を与えることも可能だが、楽音にもならないのにレガート奏法もへったくれもないのだ。この辺りは評論家たちがいかにでたらめを言っているか、見本のような記事を近々紹介しよう。

F=ma以下に関しては、指の概念を違えてとる必要がある。御木本メソッド批判で、少し触れた。解剖学上の指は、周知の通りだが、運動上の指は、あくまで全身の、ピアノを弾く場合は腰から上としても良いが、動きの最先端だということである。ピアニッシモで高速で動くとき、指自体の動きは最小になるが、腕全体は指が鍵盤のごく近くにあるように高さを保っている。

他にも色々書かねばならぬことがあるが、どのみち煩雑さを逃れることはあるまいから、いったん終わりにしたい。

これもピアノ演奏に欠かせない形容だが、強烈なタッチとか優しいタッチとかがあるでしょう。これなぞも語の用法の誤りだ。タッチとはことピアノ演奏に関しては、単純なこと、アフタータッチを体が知るということだ。正確なタッチがあるだけである。他は演奏の印象を漠然と、いかにも専門的に言っただけのことである。