縄文時遊館のれすとらん「五千年の里」に来ました。お昼を外そうと思いましたが、やはり何かしらお腹に注入しようと思いまして三内丸山遺跡まで来ちゃいました。冷やしなのでサッパリします。大根おろしに糸唐辛子が味噌です。一番うまかったのは縄文の水でした(^o^)
涼みにきました。ガンガン車の冷房効かせてます。室外の電光掲示板が「29℃」を指してました。
1902年1月23日早朝、八甲田山中において耐寒訓練のため、青森歩兵第五連隊兵舎(現青森高校)を出発した将兵210人中、死亡した199人の霊を葬った場所です。八甲田山死の彷徨は語り継ぐべき史実であります。
早いものでもうじき「ねぶたまつり」ですね
お囃子の練習があっちこっちから聞こえて、潮風に熱が伝わってきます。
「食べたいように食べて、飲みたいように飲んで、寝たい人と寝て。人生はお祭り、死ぬ日まで、どこかでおはやしがなっている。うらぎられても笑い、決してこばまず、愛することは、ふとること。さあさあ、大山デブコのおでましよ!」
『大山デブコの犯罪』(角川文庫『青森県のせむし男』より)
7月10日は「納豆の日」とされている。これは1981年、関西での納豆消費拡大のため、関西納豆工業協同組合がなっ(7)とう(10)の語呂合わせで制定したものであり、1992年、全国納豆工業協同組合連合会が改めて「納豆の日」として制定した。
名称について…
納豆は元来精進料理として納所(なっしょ、寺院の倉庫)で作られた食品でこれが名前の由来という説が『本朝食鑑』という書物に載っている。納所に勤めていた僧侶が納豆造りをしていたので、納所の字をとって「納豆」になったという。又言う、『新猿楽記』の中で「精進物、春、塩辛納豆」とあるのが初見で、この『猿楽記』がベストセラーになったことにより、納豆という記され方が広まったとされる。俗説で「本来は豆を腐らせた(発酵させた)ものが豆腐、型に納めたものが納豆だったが、両者が取り違えられた」と名称の由来が語られる事があるが、これは明らかな間違いである。納豆が日本独自の言葉であるのに対し、豆腐は中国から伝来した食品であり中国でもこの名前で呼ばれており、取り違えられる事はあり得ない。
納豆驚くタメゴロウ(*_*)
青森市
7月10日(火)
06時 20℃
09時 22℃
12時 24℃
15時 24℃
18時 22℃
21時 20℃
平安閣マスコット「ほっとちゃん」がおりますお庭が涼しげでした。
「勝負は負けた時から始まる。弱さを知った時、己の成長が始まるんだ。人並みにやっていたら、人並みにしかならない。ものを成し遂げるには我慢がいる。耐え難い痛みでも耐えねばならないこともある。勝負は負けた時から始まる。弱さを知った時、己の成長が始まるんだ。人並みにやっていたら、人並みにしかならない」(柔道家・福永昭夫)
「ウルトラマンの歌」
東 京一作詞・宮内国郎作曲
胸(むね)につけてる マークは流星(りゅうせい)
自慢(じまん)のジェットで 敵(てき)をうつ
光の国から ぼくらのために
来たぞ われらの ウルトラマン
1966年のこの日、特撮番組『ウルトラマン』の放映が開始されたことを記念。前番組『ウルトラQ』の最終話が急遽放送されないことになったため、穴埋めとしてこの前日に行われたウルトラマンの宣伝イベントの模様を「ウルトラマン前夜祭」として放映しました。
ウルトラマンはじめ多くの怪獣のデザインは、青森県出身の美術家である成田亨さんの作品です。成田さんが1960年代に手がけた『ウルトラマン』や『ウルトラセブン』に登場する怪獣のデザイン原画は青森県立美術館に展示されてます。
成田享さんは美術学校を卒業後、東宝にアルバイトに行ったことをきっかけに特撮美術の世界に足を踏み入れました。日本の特撮番組、その中に登場するヒーローやメカ、そして怪獣、宇宙人、などを数多く手がけてます。なかでも『ウルトラQ』や『ウルトラマン』、『ウルトラセブン』の3作品は、同氏の代表作となっております。その後の特撮品の流れを決めた作品でもあります。青森県立美術館はこの3作品で、成田亨が描いたデザイン画189点を所有しております。シュワッチ!
成田 亨(なりた とおる、1929年9月3日 - 2002年2月26日)は青森県出身のデザイナー、彫刻家。
神戸市で生まれ、幼少期より父方の故郷である青森市にて育つ。1歳になる前、青森県の自宅で、囲炉裏の火をつかもうとして左手に火傷を負い、数度の手術でも治らなかった。小学校ではこの事でいじめられ、右手だけ描ける絵が救いとなった。旧青森県立青森中学校(現青森県立青森高等学校)卒業。印刷工として働き資金を貯め、1950年武蔵野美術学校(現武蔵野美術大学)に入学。当初洋画を専攻していたが、授業に不満を感じ、途中で彫刻学科に転科。彫金の作業中、移植した皮膚からはしばしば血が流れたという。1954年、美術学校卒業後、友人に誘われ、映画作品『ゴジラ』(東宝、本多猪四郎監督)にアルバイト参加。怪獣ゴジラに壊される建物のミニチュアを制作。以後、美術スタッフとして、多くの作品で活躍した。