e411y(回顧録)

e411yの旅でのことを書き残しておきたいと思います。

ルーヴル美術館Ⅱ

2010年08月25日 | フランス
あの日、ルーヴル美術館で“ミロのビーナス”の周りを何周かした後、大急ぎで今回の旅の一番の目的“モナリザ”の許へ。途中で大変有名な“サモトラケのニケ”に出会ったのだけれど、そこは周りは2周ほどしただけで、心は“モナリザ”・・・。

ドノン翼2階を西へ、私の大好きなダ・ヴィンチの絵が数点見え出した時には何故か心臓がドキドキ。もう直ぐ会える!長年待ちわびていたかのように・・・?(自分にとって今回の旅行そして旅行先の希望が叶うことは突然・偶然の出来事だった。) 確か“モナリザ”は最近引越したらしい。ごく普通の場所から特別な部屋へ変わったと聞いた。ダ・ヴィンチの“聖アンナと聖母子?”を観ているのに“モナリザ”が浮かんでくる。そして北側の部屋を覗くとそこには約20~30人位のルーヴルでは珍しい人込みが見えた。直感で“モナリザ”だと感じた。私は“モナリザ”に近づいていった。本当にドキドキしていた。それは「実物を見てガッカリしたらどうしよう・・・」という不安も混じっていたような気がした。20分ほど“モナリザ”の前にいただろうか。ガラスが私と“モナリザ”の直接の対面を遮るのが残念だった。細かなところが光の反射でよく見えない。 他の物も見たいという気持ちでその部屋を出ようとするが、何度も振り向いてしまった。ドノン翼2階の先端まで到着したのだが、大急ぎで“モナリザ”の許へと戻ってしまった。この行動は他の階、他の翼に行っても同じでその都度“モナリザ”が気になり、どんなに遠くても戻って行ってしまった。3時間ほどルーヴルにいたのだが、計6回くらい、通算すると1時間は“モナリザ”の前にいたのだと思う。

今思ったことだが、以前ブログに書いた“カルバン・クラインの広告”がダ・ヴィンチの“モナリザ”と何処か私の心の中で重なっていたのかもしれない。出来ればもう一度でいいから“モナリザ”に会えないだろうか。



旅の土産はカレンダー

2010年08月25日 | e411y全般
以前に旅の記念に買った“カレンダー”のことを書いた。

昨夜寝る前に、3月になってカレンダーを換えていないことに気付いた。何だか嬉しい気分!3種類のカレンダーがあるから、3度の楽しみが体験できる・・・。

まずは「ロンドンの大きなカレンダー」から。 “ビッグベン”から“自然史博物館”へ。自然史博物館は結局時間の都合で入館しなかったが、ホテルに近い場所にあり何度もその前を歩いた。バスでも通過した。とても大きくて立派な建物だったが、このカレンダーで館内の様子も伺える。凄く重々しい。さすが英国!

次に「ケンブリッジの中位のカレンダー」。 “雪のケム川と雪の積もったパントと呼ばれるボート”から“CORPUS CHRISTI COLLEGE”へ、雪景色(最上川下りのような)から春の日差しに照らされた大学の建物へと変身!気分も春へ。

最後に「ルーブルで買った小さなカレンダー」。 “Antonio Canaietto”の絵(描かれているのはベネチア?)から・・・ “モナリザ”!!  もう幸せ!  もしかしたらこのカレンダーはずーっと3月のままかもしれない。 いや永遠に2006年3月のままだろう・・・。

 旅の土産は“カレンダー”、やはりこれに限る。 “モナリザ”のことは明日ブログに書こうと思う。 「写真:ロンドンで滞在したホテルの近くにあった教会」


モネ・睡蓮Ⅱ

2010年08月25日 | 趣味の園芸
今日は2月18日の“モネ・睡蓮”の続き。理由はあるブログで“メダカ”を見たから。

今回の旅では、パリ・オルセー美術館でモネの『睡蓮』を見ることができ、一つの夢を達成することが出来た。しかし、あの台風・豪雨の中での四国巡礼の帰りに思った「睡蓮の花を咲かせてみたい」というもう一つの夢はまだ実現できていない。

昨年は春に蔵の中に眠っていた火鉢を庭に持ち出し、水を入れてみた。すると水が漏れてしまうことが分かった。いろいろ苦労して水漏れを止め、再び水を張る。ホームセンターの広告に“睡蓮”が出るのを待って急いで買いに行き、散々迷ったあげく2株購入した。睡蓮の葉が出たときは嬉しかった。絶対、花が咲くものと確信していた。ここで問題が発生。睡蓮の火鉢にボウフラが大量発生したのだ。私はボウフラ退治の方法をいろいろ考え、結局“メダカ”をそこで飼うことにした。ボウフラはすぐにいなくなったのだが、出てくる睡蓮の葉は暑さのせいか、次第に小さくなっていき、花は咲かないまま秋になってしまった。

睡蓮の花は咲かなかったけれど、私には多くのメダカという友達ができ、朝、出勤前に餌を与えるのが楽しみになっている。本当に可愛いと思う。睡蓮の鉢に氷が張ったときは寂しかったけれど、今は春めいて活動も活発になってきた。誰か私に睡蓮の栽培方法を教えて下さい!


白山文雅

2010年08月25日 | グルメ
今年の梅の開花がようやく伝えられた。例年よりかなり遅いようだ。

梅の名所は全国に沢山あるが、私にとっては10年ほど前に訪れた佐賀のお寺(鍋島藩の菩提寺と紹介された)が印象に残っている。佐賀へ研修で1週間ほど滞在すると決まったとき、佐賀のガイドブックを探しに書店へ行った。しかし、なかなか発見出来なかった・・・。佐賀を訪れて分かったのは、名所・旧跡等が少ないから・・・。地元の人に名所を聞くと、“他に何もないけど2月だったら梅の綺麗なお寺”がある。”と答えてくれた。本当に何もなかったけれど、梅の花は綺麗だった。

東風は梅の花を思い出させるという歌があるが、私にはカレーの匂いが佐賀を思い出させてくれる。JR佐賀駅から佐賀城(佐賀県庁)へと南に約1kmほど歩いたところにある“白山文雅”という何とも云えない雰囲気のカレー専門店のカレーは美味しかった。http://event.yahoo.co.jp/curry2005/shop/7/3.html是非また訪れたい!(有明海の幸、菱焼酎も美味しかった。)


流氷

2010年08月25日 | 自宅から東へ
25年ほど前の冬、私は学生生活を終えるという区切りをつけるため、流氷の知床で2週 間ほど過ごしたことがあります。

あの時は雪下ろしのバイトをしながら、当時観光客はほとんど訪れない知床の地でオジロワシの観察などをしていました。

本当に冬の知床は静かでした。

“乙女の泪”も美しかった・・・。まさにブルーアイスでした。

2年前の2月、家人が私も流氷を見たいと言ったので、知床に流氷を見に行くことにしました。

でもその日、低気圧が発達しながら津軽海峡を北東に通過し、網走方面に接近。

とんでもない嵐に私たちは遭ってしまいました。

どうにか知床からは脱出できたのですが、網走の手前で道路、線路を断たれてしまったのです・・・。

吹雪で2m前が見えないという明治以来の大嵐。

その日泊まる宿のあてもなく、観光バスに給油も出来ず、それはそれは凄く悲惨な1日でした・・・。

結局、その日はもちろん飛行機は飛ばず、翌日も飛行機は満席で乗れず・・・。

人生っていろんなことがあるんですね。

だから生きてるって楽しいんだと悟りました。

あの年の北海道、流氷はホワイトアウト。

陸と海と流氷と積雪の区別がつかないほど北海道は真っ白でした。

流氷ってヨーロッパにはないのですか?



雑草メロンⅡ

2010年08月25日 | 趣味の園芸
昨日は仕事で帰宅が遅れ、ブログの連続投稿が途切れてしまいました。

国立歴史民族博物館の雑草メロンの写真見ました。

懐かしい!

私が実験に使ってた“MG-16”。

写真は温室で雑草メロンを高級ネットメロンと同じように縦方向に栽培している状態なので、カラスウリによく似た写真うつりですが、実際は地面にカボチャのように横方向に生育するので見た目は随分違うはずです。

あの島のあの畑で見た“MG-16”はサツマイモのつるに混じって生育していました。

「さすが日本、雑草メロンを研究している人も沢山いてんねんなぁ~。」と思って、“国立歴史民族博物館HP”を“植物苑”さらに“くらしの植物苑だより”と見ていくと、2004年№88、2003年№78、2002年№64に我が師匠のお名前を発見しました・・・。

そう言えば年賀状に「最近は国立歴史民族博物館に通っている。」って書いてあったことを思い出しました。

雑草メロンを発見した人はぜひ味見をして下さい!

“苦い”とは何かをきっと感じることが出来るでしょう。

“自分は生きている”ということも再確認出来ると思います。

「写真;上:MG-16、中:上と下のF1、下:スネークメロン」


雑草メロンⅠ

2010年08月25日 | 趣味の園芸
カラスウリの写真をブログで見て、昔々“雑草メロン”を追っかけていたことを思い出した。今日は昔話をしよう。

昔、中尾佐助という遺伝育種の学者がいた。(その方は上山春平氏らと共に“照葉樹林文化”を提唱された人で著書には『栽培植物と農耕の起源』岩波新書がある。ヒマラヤ方面にもよく行かれた探検家でもあった。)

ある日、中尾先生が我が師匠に自分の小さい頃の記憶を話されたそうだ。

その話とは、『自分が育った島のみかん畑のみかんの木の下に生えていた植物は(自分が植物を専門に研究するようになり、記憶を頼りに植物形態学的に判断すると)小さな小さなメロンだったと思う。

しかし、今は探してもその島では発見することが出来ない。

どうして日本の離島に雑草型のメロンがあったのかも分からない。

でもどこかの島にはまだ残っているかもしれないので、君探してみないか?』という内容。

我が師匠は日本の離島を調査し、75島で168系統の雑草メロンを採集された。

アフリカ大陸原産の植物が中近東で栽培され,さらにそこからヨーロッパ方面(西)に行った“メロン”と中国方面(東)に来た“瓜”に分かれたらしい。

いつ頃、どこから、どのようにして日本に雑草メロンは来たのだろうか?

このロマンある話に惹かれて、私は師匠のお供としての雑草メロン探しの離島巡りの旅が始まった。

でも、カラスウリしか発見出来なかった・・・。

師匠に『どうしても見たい!』とお願いし、ある島のある畑まで案内して頂き雑草メロンを見ることが出来た。

その時やっと会えた雑草メロンは実験温室で栽培していたものと同じだったけど、感激の大きさは桁違いに大きかった。

あの旅も楽しかった・・・。

注意!決して雑草メロンを食べてはいけません大変な目に遭います!

[写真;一番小さいメロンが雑草メロン]