e411y(回顧録)

e411yの旅でのことを書き残しておきたいと思います。

こばし焼餅

2010年08月28日 | グルメ
昨夜も夕食を済ませてから病院へ。

病院の消灯は早く、午後9時だ。

寝ようとしてもなかなか眠れず・・・

やっと寝ついた頃に看護師が、約2時間おきに病室に遣って来る。

昨夜は久々に妙な夢を見た。

止めてくれと頼んでいるのに、携帯電話を分解されてしまう夢・・・

“焼餅”を食べようとしたのに横取りされる夢・・・

手を伸ばして取り戻そうとしたら、身体が妙な感覚?

すぐにドスン!と衝撃????

長椅子で寝ていた私は、床に落ちてしまったのだ。

※携帯電話の夢は、昨日長男が壊れたノートパソコンを分解したからだろう。

※焼餅の夢は、昨日、吉野の脳天さんへの道中で、「こばしの焼餅」を買っている人を見かけた。家人に「ここの焼餅は、すぐに売り切れるねん。帰りに買ったるわ。」と言い、お参りの後に寄ったのだが、既に売り切れてしまって、残念な思いをしたからだろうか・・・ この店の焼餅を谷崎潤一郎が『吉野葛』出筆のため当地を訪れ、食べたかもしれないのだ。

「写真;こばしの焼餅」



彩華ラーメン

2010年08月28日 | 麺類
昨夜はGW後半の前夜。

飲みに行く誘いも断って、帰宅。

夕食を済ませた後、母の待つ病院へ。

“山の辺の道”のすぐ西側を通っている国道を北へ。

天理市街を抜けてすぐのスーパーの駐車場に“彩華(さいか)”の屋台が見えた。

奈良で有名なラーメンチェーン店が、この駐車場で屋台営業しているのだ。

ここのラーメンのスープは、醤油をベースに鶏がらと豚骨?

さらに、ニンニクたっぷりで豆板醤が効いている。

具には、炒めた大量の白菜と豚肉、ニンジン・・・・

その味を想像しただけで我慢できず、思わずウインカーを出してしまった。

今夜は一晩、母にニンニク臭いのを我慢してもらおう!

「写真;彩華ラーメン

    天理スタミナラーメンとは違うのでお間違えなく!」

初めての車椅子

2010年08月28日 | 我が家
今夕、母は生まれて初めて車椅子に乗せてもらったらしい。

鼻に繋がっていた酸素も外されたとのこと。

車椅子に乗っても何も出来ない母ではあるが、

今大切なのは“脳に刺激”を与えるコトだと言う。

これから暫く、母は車椅子に乗せて貰って、

病院内を押し歩いてもらうことだろう。

「写真;千羽鶴と鯉のぼり

    千羽鶴は母が入院した翌日から、見舞いに来た者で折った。」


毎日と朝日

2010年08月28日 | 趣味の園芸
今朝の趣味の園芸は“苗代づくり”。

予め土を入れておいた田植え機用のパッドに、籾種を蒔き、表土を被せる。

そして、水を入れた水田に並べ、トンネルを被せるのだ。

午前8時前、病院で泊まってくれていた長男が、農作業の手伝いに戻ってきた。

約2時間おきに看護師さんが病室に来るので、あまり眠れなかった様子。

「でも、お祖母ちゃんが寝る前に“お・や・す・み”って云ってくれてん!」

と、上機嫌。

この作業を始めると、調べてみたいことが一つある。

パッドに土を入れる前に、新聞紙を切って1枚底に敷いておくのだが、

我が家が購入している“毎日新聞”と、“朝日新聞”とでは、稲の根の張り方や生長に差が出るのだという。

だから毎年、ご近所から朝日新聞を貰っているのだ。

先日TVで、中学生時代、かなり貧しい生活をしていたという関西のお笑い芸人が云っていた。

「夜寝るとき、朝日新聞が一番温かかった・・・」

これも興味ある発言やなぁ~

午後から、母の待つ病院へ行こうと思っています。

「写真;吉野山で見かけたアイスクリーム」


友風子雨

2010年08月28日 | 我が家
昨日の爺さんの死去が、我が子たちに与えた影響は大きかった。

先に戻って来て(昨日の昼)病院にいた長男は、その爺さんとお別れが出来るよう親族にお願いしたのだという。そして病室で涙を流していたという。

昨夜遅く帰宅した次男に爺さんのことを告げると、落胆は大きかった。

私の二人の息子たちは、これもなにかの縁でおよそ1月の間、ほぼ毎日、その爺さんと会って話をしていたのである。

そして人生で初めて、壮絶な人間の死に遭遇してしまったのだ・・・

今日の昼前、母はICUから個室に移ることが出来た。

昼の面会時、母の西隣のベッドで入院している茨城県の男性の奥さんと息子さんたちが、面会に到着された。そしてICUに入って、隣2人がいないのに驚かれたということだ。

今日の母は、我々に何も話してはくれなかった。

母の入った病室が、見舞いの人で一杯だったからだろうか?

長男は、「今夜、お祖母ちゃんのベッドの横で寝るわ!」と云って、病院に残ってくれている。

「写真;大和青垣

     青垣って新緑の季節のことなのだろうか?」


脱・農業宣言

2010年08月28日 | 趣味の園芸
今日のお昼は、母のベッドを挟んで家人と妹とが、

この週末の苗代作業の話をしたそうだ。

我が家ではこの土曜日、田植え機用のパッドに種籾を蒔いて

表土を着せ、苗代に伏せてトンネルを被せる作業をする予定である。

この作業には人手がいるので、当然母が元気なら

その作業に加わっていたはずなのだ。

妹が、「仮に元気になって家に戻っても、農作業はもうせえへんな。」と、

ベッドの母に問いかけると、今まで寝ていたと思っていた母が、

大きく頷いたので、二人は驚いてしまったのだという。

これは母の“脱・農業宣言”なのだろうか?

「写真;飛鳥・小墾田宮推定地」


ベッドをはさんで

2010年08月28日 | 我が家
今日は、家人の実家から義母が見舞いに来てくれたという。

母のベッドをはさんで、家人と義母が会話した。

話題はここ最近の家人の生活の様子。

早起きをして朝食を準備し、家の掃除もしているという内容。

義母が家人に

「今までずっと(25年間)、お母さんに甘えててんで~。

お母さんの苦労、よう分かったやろう。

何にも云わんと お母さんがしてくれてはったんや。

感謝せんなあかんで!」と言うと、

ベッドの母が大きく2度頷いたという。

「写真;吉野山で見かけた“かき餅”」




1と2

2010年08月28日 | 我が家
多くの方からの励ましのコメント、感謝しています!

それぞれの方のブログにお邪魔して、コメントをする余裕がないのが残念です。

昨夜、私と母は久しぶりに話?をした。

ICUの夜の面会時間、午後6時からの1時間。

面会しているのは、おおよそ私だけの貸し切り状態。

再手術の後、母も麻酔から覚め、落ち着いたのか、以前以上の反応を示してくれた。

この一ヶ月間あったことを私が耳元で話をすると、母は話の節目、節目でそれなりに頷いてくれたのだ。

嬉しかった 本当に・・・

母は時折、何か話したそうな仕草もした。

3日ほど前、母に着いていた人工呼吸器は外されたのだが、母の喉は気管切開され、酸素を多く含んだ空気が流れるパイプがついたままである。

今日の昼、家人からのメールによると、母は医師の呼びかけに答えるかのように、指を1本、2本と示したそうだ。

夕方、病院へ行くのが楽しみだった。

結果・・・それなりに私にも1と2を示したように見えた。

「写真;昨秋、私が植えたチューリップ」


家政婦は見た!

2010年08月28日 | 日記
母の入院以来、私の生活リズムも変わってしまったのだが、

その中での貴重な体験といえば、“家政婦を見た”ことだ。

ちょうど今日で一月、おおよそ毎日病院に通うと、病院内のことが見えてくる。

私は、特に土・日曜日の休日、かなりの時間を病院で読書をして過ごしている。

テーブルと椅子の置かれたコーナーで、知り合ったのが“家政婦さん”。

かなり高齢のご婦人で、内臓手術後(あわせて痴呆症?)の患者さんの介護をしておられるご様子。

その患者さんの声が個室のドアの隙間から病院内に響き渡ることが多かった。

自分では歩けないのに「トイレに行きたい!」だとか、「助けて!」だとか・・・

食事になると「こんなもの、人の食べるものでない!」、「今はお腹が空いていない!」だとか・・・  夜も寝ないようで、本当に大変そうだった。

家政婦さんは、その大変さ(愚痴)を、その病室前の椅子に座っていた我々に聞いて欲しかったのだ。

我々もお菓子やジュースを共にしながら、世間話などをしてここ一月ほど過ごしていた。

2~3日前、その患者さんは他の病院へと転院して行かれた。

話し慣れたあの家政婦さんの姿が見えなくなったのが寂しい。

「写真;母の入院している病院への道中で見かける豪邸。
    鯉のぼりの支柱とが和洋折衷?」





菜種梅雨

2010年08月28日 | 我が家
本日も奈良は雨。

飛鳥寺近くの菜種畑は雨に濡れ、黄色い色が美しかった。

母は麻酔から覚めたようだが、大きな変化はなく、時折瞼を開けてはすぐに閉じるのみ。

お昼の面会時間、長男が1時間かけて母の手と足を

蒸タオルとハンドソープで拭いた(磨きあげた?)とのこと。

通りで、私が夜に面会した時、母の手足が光っていたはずだ。

明日に期待したい。


母の手

2010年08月28日 | 我が家
病院へ行って母に逢うと、私は必ず母の手を握る。

そこに母の手の温かさがあるからだ。

節くれだった、苦労の人生を表す手。

何年前だったか、農作業の際誤って左手の人差し指の爪の半分から上を、押し切り(手動で藁を切るカッター)で切ってしまった手。

これは“握手”なんかじゃない!

“親と子が手と手を取り合っている”んだと思う。

そのことで、私は私の願いを母に伝えようとしている。

明日、母は再手術を受ける。

私は快復を祈るしかない。


母と犬飼山転法輪寺

2010年08月28日 | 我が家
吉野・蔵王堂の西側の谷底にある脳天さんと聞けば、ある程度イメージが湧くだろう。

私が先日の土曜日、吉野の次に目指したのは、大和五条の犬飼山転法輪寺。

40数年前、私が小学校入学前後に、母はこのお寺で命を救われたのだ。

それと言うのは、突然母の口が開かなくなったのだ。

歯科医院で親知らずの治療を受けた後のことだったかも知れないが、何処が腫れたという訳でもなく、いろんなお医者様に診てもらっても原因不明?

母は口が開かないのだから、何も食べることが出来ない。歯と歯の隙間から米粒や食物を磨り潰したモノを入れて何日も過ごしていた。このままでは・・・ということになり、誰から教えてもらったのか、大和五条の犬飼山へ。

犬飼山に御すがりすると、昭和12年?の水害の際、山を切り崩して、流された道路や堤防の補修工事を行ったことが原因とのこと。その山に住んでいた蛇(神様)?が・・・。毎朝その場所に洗い米と塩と・・・。という話になり、母は翌日から実行した。すると不思議なことに一週間もしないうちに母の口は元通り開いたのだ。

だから今回も大和・五條の犬飼山へ!

母と吉野へ行ったこと

2010年08月28日 | 我が家
昨日、吉野の桜の下を急ぎ足で歩きながら考えたこと。

私は、奈良に住んでいながら、桜の季節に吉野を訪れるのは、昨日で2度目だった。

行って花見をしたい気持ちはあっても、あの交通渋滞や人出の中へは、あえて入りたいとは思わない。

そして、たった一度の前回はというと、私が中学校に入学した年の春、日曜日、母が突然「吉野へ花見に行こう。」と言い出し、私と妹と三人で出かけたときのことだった。

母は私に「中学校の制服(詰襟)を着て出か けるように。」と云った。そして、3人で近鉄電車に乗って吉野へ行った。吉野の山は凄い人込みで、昨日歩いた道も、普通には歩けないほどの混雑だった。

昼食には何を食べたのだろうか?桜一面の山が望める茶店に入り「なんでも好きなん食べや。遠慮したらあかんで!」と母は云ってくれたことだろう。

その帰り、ケーブル駅へと向かう道で、酔っ払い同士が喧嘩をはじめたことだけは、記憶が鮮明だ。中年の男性が胸ぐらを掴み合い、やがて一方の男性が持っていた一升瓶で相手の頭部を殴ったのだ。一升瓶は割れ、中の酒とガラス瓶の破片が周囲に飛び散った。喧嘩を見ていた私もその一部を浴びてしまったのだ。やがて警官が来て事は治まった。帰宅後、母は私の制服をどうしてくれたのかは知らない。私は疲れて眠ってしまったのだ。

もし母に意識が戻ったならば、あの日の吉野のことを聞いてみたい。

母と兄妹3人で出かけたことは、あの日以外には無いからだ。

いったいどうして母はあの日、私たち兄妹を吉野の山に連れて行ってくれたのだろうか?今のこの季節、百姓の仕事も多分忙しかったはず・・・

昨日、吉野の山を9時前に出発し、大和五条の犬飼山、母の実家の墓参りを済ませ、午前中に帰宅。父と共に昼食をとり、その後、私と家人と妹とで病院へ行った。

「写真;蔵王堂」





花の吉野

2010年08月28日 | 県内
本日、6時前に起床、朝食をとって6時半過ぎに出発。

吉野へは30分ほどで到着。

すでに他府県ナンバーの車が、吉野川沿いの臨時駐車場へと列を作って並んでいた。

私はその車の列の横をすり抜け可能な限り蔵王堂の近くへと向かった。

車を停めたのは、蔵王堂の東側、如意輪寺との間の谷間の道路。

谷間から桜咲く道を急ぎ登る。

桜の花を眺めるゆとりもなく、勝手神社近くへと出た。

参道の両側に並んだお店を覗くことなく、一目散に蔵王堂へ。

昨日、今日と蔵王堂では“花供懺法会”が催されているようす。

早朝というのに、凄い人の出だ・・・

その中には、吉野山人さんのお姿も?

蔵王権現にお参りをすませ、休憩なしでその西側の谷底にある“脳天大神”へと石段を降りた。

一生懸命拝んできました。


吉野・脳天さんのご利益

2010年08月28日 | 県内
誰に聞いたか、母の病気には、“吉野の脳天さん”がご利益あるという。


すぐにでも行ってきたいのだが、この土日となると、この桜の季節、吉野へは車で簡単には着くことが出来ないだろう。


確か脳天さんは、金峯山寺・蔵王堂から谷底へとかなりの石段を降りるんだったよな・・・


本日、母は私の話す言葉に頷いてくれたように見えた。


ただし、意識が戻ったのかどうかは不明である。

「金峯山寺史」より
脳天大神の創祀
昭和二十六年、五條覚澄の手によって脳天大神が創記された。その経緯は次のようなことであった。
戦後、女性信徒が増加して女性のための行場が望まれたため、昭和二十五年十一月十九日、蔵王堂の西方の谷間にある一の滝(龍神池)の上に、山上行場を模した屏風岩、衣掛岩、押分岩、鐘掛岩などからなる女人行場を開いた。そして、その行場の入口に翌昭和二十六年四月九日、役行者の大銅像を建立した(時報153・154号)。さらに六月二十八日、新しい滝場である金龍の滝を開発し落水した。その前日、五條覚澄が新滝の工事現場へ向かう途中、だれかに頭を打ち割られた一匹の蛇に遭遇した。五條覚澄はあその蛇を一の滝の右にある洞窟に置き回向したのであった。ところが、その翌日からその蛇が霊現を繰り返し、ついに七月十日、ある人に憑依して「まつられたし。まつられたし。吾は頭を割られた山下の蛇である。蔵王の変化身である。脳天大神としてまつられたし。首の上野如何なる難病苦難も救うべし」と告げた。この霊示によって七月十三日、脳天大神の霊標を金龍王の地に立てた。すると次第に多くの参拝者が来るようになり、狭隘になったため現在地へ移転したのであった。(五條覚澄「霊話不思議」・「人生には奇跡がある」)。