e411y(回顧録)

e411yの旅でのことを書き残しておきたいと思います。

竹内街道

2010年08月29日 | 道路・鉄道・船
昨日書いた“綿弓塚”のある庭と民家を整備した建物(休憩所?)には、司馬遼太郎の色紙や芭蕉の資料等が置かれていた。

ここ竹内の集落には司馬遼太郎の母親の実家があり、彼は少年時代、この山麓の在所ですごしたそうだ。

建物から表の通りに出ると、そこは“竹内街道”。

この道は、推古天皇21年「難波より京に至る大 道を置く」と、『日本書紀』記録された日本最古の国道「大道」だったという。

飛鳥時代には、中国や朝鮮半島の優れた大陸文 化がこの道を通じて伝来。

日本で最初の本格的文化である飛鳥文化の発展に大きく貢献した街道だった。

また、竹内街道は大陸からの渡来人を迎えるだけでなく、大陸へ赴く遣隋使や遣唐使が利用したこともこの街道だったそうだ。
710年に奈良の平城京へと都が遷されると、次第にその役割を消失。

その後は、聖徳太子信仰が強まることで、太子信仰の道としての性質が色濃くなり、中・近世は、伊勢、長谷参詣、山上詣りで隆盛し、街道沿いには旅籠や茶店が軒を連ねたという。

1796年(寛政7年)4月小林一茶がここで一句詠み、1853年(嘉永6年)吉田松陰23歳も竹内を経て儒者を訪ね、1863年(文久3年)天誅組7名が志果たせず逃走したという。

万葉集には、

大坂を 我が越え来れば 二上に もみぢ葉流る しぐれ降りつつ飛鳥川 もみぢ葉流る 葛城の 山の木の葉は 今し散るらしとあるという。

竹内街道に似合う季節は、やはり“秋”なのだろう。

「写真;竹内街道」



おふくろさん

2010年08月29日 | 我が家
久々にTVをつけると、

森進一の『おふくろさん』が話題になっていました。

久々に聞いたのですが、本当にいい歌詞ですね。

封印問題?が和解なったのだとか。

この1週間、あまりにも慌しく、

自分の身の回りで一体何が起こったのか、

まだ心の整理がつかない状態です。

私の“おふくろさん”は、あの菊を運んだ日の夜、

突然、誰にも別れを告げずに逝ってしまいました。

菊と米を運び終えた後、我が家もたくさんの菊の鉢で飾りました。

それから三連休で帰宅した息子と病院へ。

その日の“おふくろさん”は、殆ど記憶を取り戻したかの状態で、

いっぱい喋ってくれました。

自分自身の名前も、私や息子の名前もはっきりと・・・

涙が出るほど嬉しかった・・・

一緒におやつを食べ、稲刈りを終えた病院近くの道を車椅子押して散歩し、

「明日、また来るからな・・・」と云って、帰宅しました。

夕食の話題は、当然“おふくろさん”のこと。

この状態で順調に快復すれば、年内の一時帰宅が可能ではないかという話。

明日の面会を楽しみに寝たのですが・・・

“おふくろさん”は、まるでアキ(稲刈り作業)が終わるのを待っていたかのようでした。



祭講

2010年08月29日 | 我が家
今日は我が村の“祭講”の日。

当家の家に集まり神事?を行った。

今年の当家の家は、明治の頃に大阪で事業で成功された方の別邸だったとかで、庭や屋敷の造りが素 晴らしかった。

なにせお庭に富士山があったもんなぁ~

神事の後は、宮司さんの席の隣に銚子を持って座り込み、酒を肴に“古事記”や“神武天皇”、“保田與重郎”、“(堀口)大学ゆり”の話を聞いた。

いや~楽しい酒やった・・・

簡素化なったとはいえ、当家には負担は掛かる。

それぞれお家の事情は異なるのだ・・・

昔は20軒以上も講に加わる家があったが、今年は11軒。

会が終わる直前に、1人の方がこの講を抜けたいと言い出した。

まぁ~それからお酒も入っていることで・・・

いろいろあって・・・来年の課題ということで・・・

分かったことは、この時季に松茸を入手するのは難しいということだけやった。

「写真;祭講の小床
 」






暁(あかとき)露

2010年08月29日 | 趣味の園芸
わが背子を大和へ遣ると小夜更けて

暁(あかとき)露にわが立ち濡れし  大伯皇女

昨日起きるとすごい“露”。

でも、もう“稲刈り”がないと思うと気分も随分楽で・・・

最近の“稲刈り”は、機械でするから“露”があっては出来ないのだ。

長男は授業の関係で日曜の夜、湖国へ帰ってしまっていない。

力作業から細々したことまで、殆ど私ひとりでしなければならなかった。

午前、“臼ひき”作業は快調だったが、親父が予備の種籾用にと残しておいた籾を入れたとたんに機械が詰まってトラブル発生!

それからが大変やった・・・

午後からは、コンバイン、乾燥機、籾摺り機、 籾選別機などコンプレッサーを使って稲埃を吹き飛ばして清掃。

舞い上がる稲藁の埃でクシャミ連発!鼻水もとまらない・・・

さらに身体はハシカイ(チクチク痒い)!

作業をしながら“秋”やからか、いろいろ物思った。

これらの機械類を購入するお金があれば、一生食べるだけの米を購入出来るはず?

しかもこれらの機械類は、年に数日しか稼働しないんや・・・

秋の小春日和、農機具倉庫の前を歩くハイカーたちの姿を見ると、

「百姓ないって暇でええなぁ~。

こんなエエ天気にハイキング出来るって、のんびりリフレッシュ出来るんやろなぁ~。

私なんかこの3連休、“趣味の園芸”浸けやでぇ・・・身も心もクタクタや~

それやのに、明日からまた仕事なんやで・・・

それに・・・パンをよう食べんといてるのに、まだまだ去年の米は残ってるしなぁ~

我が家が新米を食べるのは、いつの日のことやろか?」なんて思ってしまった。

せやけど、“露”が“霜”に変わっても、台風が来ても、雪が降っても今年の米づくりはとりあえず無事終了したんや。

よかった、よかった、もう安心やぁ~!

ジュズダマと猫じゃらし

2010年08月29日 | 我が家
母の入院している病院の駐車場前の水路には“ジュズダマ”が茂っている。

私は病院へ行くたびに、昔、母と熟して色づいたジュズダマの実に糸を通して首飾りを作ったことを思い出す。

それに、稲刈り作業の休憩時には、畦豆の葉柄でムカデも作ったよなぁ~

そんなことなどを思い出しながら駐車場に車を 停め、病室へと向かう。

先週末は昼過ぎに病院へ。

市に介護認定の申請をしていたところ、役所の人が病院に母を見に来ることになったのだ。

もちろん、家族の立会いが必要だとのこと。

家人と相談の結果、私が仕事の都合をつけて行くことにした。

何十分の間、私は役所の人から質問を受けただろうか。

母への問いかけもあったのだが、ただ母は・・・

永く重苦しい時間だけが流れた。

役所の人が帰った後、私はすぐに母を車椅子に乗せて病院の建物から外に連れ出した。

私が外の空気を吸って気分を変えたかったからだ。

病院の周囲には色づいた水田が広がっている。

この病院へ転院してきた頃は、まだ苗の状態やったのに・・・

夏が過ぎ、もうすぐ刈り入れの季節。

私は道端に生えた“猫じゃらし(エノコログサ)”を2本摘み取り、1本を母に渡した。

母はそれを大事そう(不思議そう)?に手に持ち・・・

私はもう1本の“猫じゃらし”で母の顔をくすぐった。

母は嫌そうな顔はしたのだが、昔のように顔を背け、手で払いながら「いらんわ!そんなあほなことやめてぇ~や!」と言うことはなかった。

「写真;ジュズダマ」

冷凍エビ60匹

2010年08月29日 | 趣味の園芸
昨夜、稲刈り手伝いに帰省していた長男が滋賀へと戻っていった。

「稲刈り手伝いの褒美は何がいい?」と聞いたところ、

彼は「フリーザーの中のエビ!」と答えた。

そのエビは、親父が作った野菜を冷凍食品の卸し業をしている知人にあげたお返しに戴いた品。

彼には、この休みに稲刈り、臼挽きと共にフリーザー内の霜取りも頼んでいたので、その時に見つけたのだろう。

彼は1箱分のエビ(約60匹?)を全部欲しいという。

彼は昔からエビが大好物やった。

「まぁ~せっかく欲しいと言うのやから・・・」と

親父の意見で大奮発して褒美にあげること に。

それ以外には、我が家の畑で採れたミカン。

それに最近味が分かると言い出した日本酒の一升瓶を1本。

彼はそれらの荷物を提げて、喜んで滋賀へと帰っていったのだ。

夜中に家人にメールが届いた。

帰りの電車で冷凍エビが融け出し、京都駅ではなんとか乗り換えることが出来たのだが、滋賀の駅の改札を出たところで、荷物を入れていた(紙)袋?の底が抜けたとのこと。

冷凍エビ60匹は、固まりのまま駅の階段を滑り落ちていったらしい。

駅の階段付近にいた人たちは、そのエビの固まりを不思議な顔で見送っていたとのこと。

その後、彼はその冷凍エビの固まりを脇に抱え、手に一升瓶とミカンを持って、下宿まで数十分かかって歩いて帰ったとのこと。

家人はすぐに彼に電話した。

彼から帰ってきた言葉は、

「身体中、エビくさいねん!脇は凍えるほど冷たかったし!」という言葉やった。

どんな顔をして、エビを料理するんやろうかなぁ~?

「写真;我が家の兵馬俑 」




玉村豊男「食客旅行」

2010年08月29日 | 読書
8月の末、もうすぐ“読書の秋”ということで近所の古本屋へ出かけた。

店内に入ると、すぐにカウンターから福引き当選の声。

私は500円購入で1回の福引きセール期間中であることに気づいた。

いつものように105円コーナーへ行き、本を探した。

10冊ほど買う予定だったが、結果は15冊のまとめ買い。

“大人買い”って言いたいところだが、総計1500円ではねぇ~

福引きを3回したけど、ハズレばかり・・・

50円の商品券を3枚もらって帰宅した。

その15冊の本で最近読んだのが、玉村豊男の「食客旅行」(中公文庫)。

世界中の都市が出てきて、その食べ物が登場した。

“読書の秋”、“食欲の秋”にはもってこいの 1冊やった。

現在、あまり遠くへ旅することができない私は、せめて旅行気分だけでも・・・と、家にあるワインを飲もうと探したのだ。

イタリア旅行の記念に買ったワインを開けるのはモッタイナイ。

しかし、他にワインはこれ1本しか残っていなかった。

飲むと、んん~なかなかエエヤン!

ラベルには “ENMUSUBI”?

“縁結び”って島根の出雲大社や!

これこそ正真正銘の国産の名前や~

ホンマは、ドイツ・ライン川近くで見た広大なブドウ畑をイメージして飲みたかったに・・・

私の頭に浮かんできたのは、二上山の向こう、南阪奈道路から見える大阪・河内のブドウ畑、それにPLの塔・・・

PLの塔の下にあるのは、高校野球で有名なPL学園。

先日引退したオリックスの清原の顔まで浮かんできたやんか・・・

えらい旅行気分になってしもうたなぁ~

「写真;ドイツ・ライン川近くで見たブドウ畑」



高取城の猿石

2010年08月29日 | 
“高取城”に登りたかった理由のひとつに、“猿石”を見たいというのがあった。

飛鳥には、いつ、誰が、何のために造られたのかわからない謎の石造物が数多くある。
“猿石”は、江戸時代・元禄15年に欽明天皇陵の南の田んぼから掘り出され、うち4体は現在の吉備姫王墓に、もう1体は高取城跡へ運ばれたと考えられる。
(高取・光永寺門前の「人頭石」、橘寺境内の「 二面石」も猿石か?)
『今昔物語』に「軽寺南方の天皇陵の堤にあった石の鬼形」として載っており、“猿石”はもともと欽明天皇陵の堤に置かれていたそうだ。

私は、吉備媛王の墓前の猿石(「女」「山王権現」「僧」「男」)を見たことがあるのだが 、高取城の“猿石”は見たことがなかった。

写真を見ると、この石が一番“猿”に似ているらしい。

高取の“猿石”は、城の境界の標の様。

高取城築城の際、石垣にするつもりで運ばれて来たという説があるそうだ。

高取城の天守閣跡に立ち、遙か遠くに霞んでみえる吉野・大峰・大台の山々を眺めたあと、次は“猿石”と思ったが、その石が置かれている正確な場所を調べて来なかったことに気づいた。

ヒントは、「城の境界」。

今、車を停めて上って来た道には無かったわけだから、違う方向へ下山しなければならない・・・

ここは日本で最大規模を誇る山城、車でお城の裏側から上ってきたわけやから、城下町へと下りるお城の表の境界は遠いんやろなぁ・・・

憧れの“猿石”に逢うためなら、1kmほどは逆の方向に下山しようと覚悟を決めた。

しかし、その道にも「蜂・毒蛇・倒木に注意!」の立て札が・・・

それに、“猿石”見たら、また下った同じ道を上ってこんなあかんねんなぁ~

その山道には草木が繁り、蜂の羽音、蜘蛛の巣と猪のあと、割れた瓦や瀬戸物、調べた記事では“落ち武者の亡霊”も出るという・・・

誰一人出会わない高取山、草が繁り石垣残る城跡の道を歩いたのです。

だから“猿石”見つけた時は、ウレシカッタ!

でも・・・イキハヨイヨイ カエリハコワイ・・・

「写真;猿石」

高取城

2010年08月29日 | 
“高取城”について調べていると、次の文に出会った。

【 高取城は、石垣しか残っていないのが、かえって蒼古としていい。その石垣も数が多く、種類も多いのである。登るに従って、横あいから石塁があらわれ、さらに登れば正面に大石塁があらわれるといったぐわいで、まことに重畳としている。
 それが自然林に化した森の中に苔むしつつ遺 っているさまは、最初にここにきたとき、大げさにいえば、最初にアンコール・ワットに入った人の気持ちがすこしわかるような一種のそらおそろしさを感じた。
 司馬遼太郎 街道をゆく 大和・壺坂道 城跡の森 より抜粋 】

んん~ アンコール・ワットかぁ~ 本物を見てみたいなぁ~

せやけど、高取城もええ感じなんやろなぁ~ 

車道終点に車を停め、細い坂道を登りだした。

すぐに“七ツ井戸”という立て札。

標高約600mの山の山頂直下で、水を確保するために井戸を掘る・・・

昔、イタリアを旅したとき、町が丘陵(山?)の上に建てられているのに驚いた。

その町を見て、飲み水をどうすんねんやろか?という疑問が湧いたのを思い出した。

急な坂を歩きながら山頂を見上げるとお城の石垣の一部が見えてきた。

ワクワクドキドキ!

開けた場所に着いて、石垣を登るための石段を上った。

めっちゃ気持ちええ!

その場で360度の展望を・・・

分かったことは、今立っている場所が天守閣のあった山頂ではなかったということ。

どおりで石組みの規模が小さいと思った。

27の櫓と33の門で守りを固めたこのお城は、本当はまだまだこれからなんやぁ~

※高取城について
資料によると「高取城は1332年(元弘2年)越智邦澄が護良親王の挙兵に応じて高取山(標高584m)に築城した「掻揚げ城」が初めで、織田信長の「一国一城」令で一度破壊された後、1584年(天正12年)郡山城主の筒井順慶が詰城として整備し、後に豊臣秀長が大和へ入国した時、脇坂安治が入城して、次いで秀長の命によって、1589年(天正17年)本田利朝が石塁を築き、本丸に大小の各天守閣を起こし、多くの城門を連ねて櫓楼も配され、山城に平城の長所を取り入れた堅固な城を完成して、本田氏が断絶の後、1640年(寛永17年)植村家政2万5千石が入部しました。
 また、芙蓉城、鷹取城とも呼ばれ、日本三大山城中随一の「高取城」は、麓からも眺められ、「たつみ高取雪かと見れば 雪でござらぬ土佐の城」と歌われ、明治4年の廃藩まで232年間14代続き、明治中頃廃城した。
 幕末の1863年(文久3年)8月に天誅組が五條代官所を襲って代官鈴木陣内以下5名を血祭りに挙げ、千余名でもって、8月26日婦女と子供を加えた約五百名が守る高取城を攻めるべく押し寄せたが、大阪夏の陣で活躍した大砲を麓(鳥ケ峰)に据えて退却しました。」とのことである。

「写真;高取城大手門跡




橿原スタミナラーメンのスタミナ焼きそば

2010年08月29日 | 麺類
この月曜日、居酒屋で“明日香川の石橋”の写真を見た夜。

ふと私は、今話題?の“橿原スタミナラーメン”へ行きたくなった。

そこで皆に「これから今話題の“橿原スタミナラーメン”へ行かへんか?」って言ったのだ。

その場にいた皆は「“天理スタミナラーメン”は食べたことあるけど、“橿原スタミナラーメン”は知らん!」と興味深々。

9月の初め、長男が友人に連れって行ってもらったので、その話を聞いて一度食べてみたかったのだ。

長男の情報によると、

場所は橿原警察の交差点、国道24号をし ばらく西へ、そして信号のない交差点を右折(北へ)、細い道を少し行くと住宅地の中で行列が出来ていた。

店の隣りはガレージ?で、シャッターが並んでいた。

特に店の駐車場は無く、路上に停めておいたとのこと。

店内はカウンターのみで15席もなかった。

客の殆どは“ラーメン”を注文せずに“焼きそば”を注文し、“ホルモンの揚げたもの”をあてにビールを飲んでいた。

自分は“スタミナラーメン”を注文して食べたが、“天スタ(天理スタミナラーメン)”との違いはよく分からなかったので、今度は“焼きそば”を食べようと思う。

ということだった。

1次会終了後、総勢6名で移動することに。

少し彷徨って赤い灯りの前に行列のあるお店を発見!

我々の前には10名ほどの人が待っていた。

何分待ったかは、酔っていて計っていなかったのでよく分からない。

ただ覚えているのは、入店を待っているとき、道のむこうに橿原・今井町(重要伝統的建造物群保存地区)で一番立派な今西家住宅がライトアップされ小さく見えていたこと。

“スタミナ焼きそば”を注文したら、あまり湯がいていない固めの麺に白菜・ニラ・肉などの具が載っていて、豆板醤の効いた濃い目のスープがかけられていたこと。

“ホルモン揚げ”を1皿注文し、熱々を皆で分けたこと。

生ビールを注文したけど、全部飲み干すことができなかったこと。

駅まで迎えに来てくれた家人に「臭い!」と言われたことだけ・・・

夫婦50割?

2010年08月29日 | 我が家
私はもうすぐ50歳の誕生日を迎える。


この歳になると誕生日と言っても、嬉しいような、あまり嬉しくないような・・・


いろんなお店でカードを作ったからか、いろんな処から“誕生を祝う葉書”が届く。


これもまた、嬉しいような、あまり嬉しくないような・・・


49と50とで、何が変わるということもないのだろうが、きっと何か違うに違いない。


少し前、家人と映画を見に行ったとき、


会計の若い女性に「50歳を越えておられますか?」と聞かれたので、


心の中では、「まだ40代やのに・・・」と、老けて見られたことに腹を立てながらも、


もしかして映画料金、それで安くなるんやったら「50です。」って答えたらよかったかなぁ~って後悔したことがあったのだ。


詳しいことは知らないが、きっと50になれば映画が安く観られるのではないかと思う。


それなら50歳の誕生祝いに、家人と映画でも観に出かけようかなぁ~!


月見だんご

2010年08月29日 | グルメ
昨夜は中秋の名月やったけど、みなさんお月さん観れたんやろかなぁ?

閏年には、団子(小芋)の数を1個増やすって、ラジオで言ってたから、我が家は1個増やして13個の小芋を供えたんや。

昨日は、ほんまにええお月さんやったわ~

せやけど結果は、やっぱり“月より団子”、いやいやそれよりも“月見酒”やったけどなぁ~。

“伝飛鳥板蓋宮”の“光の回廊”も見たかったんやけど、二日も彷徨続くとなぁ~

せやから家でゆっくり月見することにしたんや!

TVで言ってたけど,関西のは関東のと月見団子の形が違うの?

「写真;ご近所から戴いた月見だんご」



名水百選・ごろごろ水

2010年08月29日 | 山・川・水・温泉
我が家に大峰山麓・洞川の“ごろごろ水”を届けてくれる人がいる。

それも大きなタンクにいっぱい。

それに、その水で作った“名水豆腐”を添えて。

この夏の終わり、私は久々に大峰山に登った。

その時、“ごろごろ水”の水汲み場の前を車で通過した。

昔は道ばたに湧いていたのを汲んでいたのだが、水を汲みに来た人の駐車した車が通行の障害となり、それが問題 となって新しい水汲み場と駐車場が道を渡ったところに出来ていたのだ。

駐車場の看板を読むと、一回の駐車料金は300円。

それでもたくさんの車が駐車していた。

名水ブーム?

「水の味」といわれても、我が家の井戸水を毎日飲んで生活している私には、名水の味がそんなに分からない。

水道水とはすぐに区別がつくのだが・・・

いつぞや東京方面のスーパーで、この“ごろごろ水”がひょうたん型の容器に入れて売られているのを、ブログの記事に載せている方がおられた。

その記事にコメントを載せると、私に“ごろごろ水”の取材を依頼しておられたのだが・・・

その方、ここ一月ほどブログ更新しておられない。

私はとても心配なのだ。

「写真;ごろごろ水の水汲み場」

大峰山・我が青春の山

2010年08月29日 | 山・川・水・温泉
女人結界門から休憩時間を入れておよそ2時間で、我々は山頂にある大峰山寺に到着した。

普通の脚なら、およそ3時間はかかる道程なので、我々はなかなかのペースだったのだ。



その道中、私は長男に山行をしていた頃の思い出話をした。



離れて暮らしていることもあり、ゆっくり男同士2人で話すのは久しぶりやった・・・



山頂到着後、大峰山寺へのお参りを済ませ、お寺の軒下にあった長椅子に腰掛け、コンビニで買った昼食を食べた。

しかし、途中の茶屋で休憩するたびに、おにぎりなどを食べていたので、山頂で食べる食料は限られていた。



長男は「身体動かして、お腹減ってるから美味しい !」と、本当に美味しそうな顔をして食べていた。



彼の“美味しそうな顔”に我々夫婦は、生きる勇気や元気をもらって、この25年生活してこれたのだと思う。



そんな長男の顔を見ながら、ここでも 昔の思い出話をした。



私が高校2年の3月、3学期の期末考査を終え、卒業を控えた部活の先輩たちとこの山頂にいた。



ここから南にある大普賢岳・和佐又山へ大峰山脈を縦走しようと洞川から歩いて登り、この境内にテントを張ったのだ。



あの時はかなりの積雪があり、大峰山寺の屋根の上まで雪の上を歩くと自然に上ることができた。



朝起きると、テントの中に入れておいた登山靴が凍っていて、すぐに履いて歩くことが出来なかったよなぁ~。



靴を温めてやっと履けたので、荷物をまとめて縦走に出発したけど、途中で道が分からなくなって彷徨ってしまい・・・



それに雪庇の張り出しが大きくて危険だったこともあり・・・



結局、縦走を諦めて引き返し、またまたその日もこのお寺の境内にテントを張ることになったのだ。



たしかあの時、このお堂の正面に立っている背の高い木製の供養塔の上に・・・



それ以外にもいつの山行の時だったか、たしか秋、このお寺から歩いてすぐのお花畑の日本岩でブロッケンを見たことがあったよなぁ~



あの時、夢中で写真を撮ったんやったなぁ~



食事の後、“我が青春の山々”を息子に見せようと、山頂近くにあるお花畑に行ったけど、この日は生憎の天気で、すべては白い霧?(雲?)の中やった・・・



「お前も結婚して、もし男の子が生まれたら、この山に一緒に登らなあかんで・・・」なんて話を息子にしながら下山した。



帰路の途中、黒滝の道の駅に寄ったら、コンニャクを炊く美味しい匂い。



息子と熱々を頬張り、おかわりまでしてしもた。



ほんまは、その時2人でビールで乾杯したかったけど、家に帰るまで我慢したんや。


「写真;山上ヶ岳・大峰山寺」

大峰山行・西の覗き

2010年08月29日 | 山・川・水・温泉
後ろを歩いていた長男が、一本松茶屋を出てしばらく歩いたところで、スッと私を追い越し、私の前を歩き出した。

二人の距離がどんどん広がっていく。

私は「次の茶屋(洞辻茶屋)で待っとけよ!その先に“行場”があるんで、説明するからな!」と声をかけた。

彼はアッという間に見えなくなってしまった。

昔は私も歩くのが速かったのに・・・と思いながら、自分のペースを守って歩き続けた。

私が息子に説明したかった“行場”とは、“油こぼし”、“鐘掛岩”そして“西の覗き”。

しかし、次の茶屋で説明した“油 こぼし”も“鐘掛岩”も、

「鎖無い方が楽に登れるなあ。」と言いながら、長男は楽に登ってしまったのだ。

“鐘掛岩”は、少しでも左右の手足の運びを間違うと、立ち往生してしまう難所なのだが・・・

最後の頼みは有名な“西の覗き”。

大峰山といえば、この“西の覗き”の絶壁からロープ一本で突き出されて「両親 に孝行する かッ!奥さんを大事にするかッ!」ってやられるのが名物。

私が中学2年の時は、「親孝行するかッ!先生の言うこと聞くかッ!」と言われ、友達の手前上「いらん!」って答えたら、本当に膝ぐらいまで岩壁から出されてしまった。

その時、胸ポケットに入れていたチューインガムがスーッと何百m?も下の方に落ちていくのが見えて、本当に怖かった・・・

高校の時の山行では、覗きの小屋のおじさんに「学割でお願いします。」と料金を値切ったら、身体を確保する綱はおじさんが持ってくれたのだが、足首を持つ係は友人になった。

これはこれで、日頃の恨み?と加減を知らない素人ということで怖かった・・・

今回は、せっかく初の“サンジョサンマイリ”だから息子にも体験させ、「親孝行を誓わせたい」と思ったのだが、残念ながら「突き出し屋のオジサン」はいなかった。

小屋に覗き用のロープが置いてあったので、親子でそれなりに“覗き”を実行しようかとも考えたのだが、「火曜サスペンス劇場・大峰山殺人事件?」になってもと考えて諦めた。

崖から下を覗いてみたが、当日は霧というか雲の中?

それでも足がすくんで思わず中腰になってしまった。

覗きの岩に腹ばいになって、携帯電話で写真を撮ろうとした息子に「携帯落としたら絶対拾らいに行かれへんぞ!」と、言って先を急ぐことにした。

「写真;西の覗き遠望
西の覗きとは、この岩に腹ばいになり、1人の突き出し屋のオジサンに肩を固定したロープを、もう1人のオジサンには足首を持ってもらい、この岩壁から上半身を出し、岩壁に彫られているという仏様を拝むのです。」