e411y(回顧録)

e411yの旅でのことを書き残しておきたいと思います。

畝傍御陵前の道

2010年08月29日 | 道路・鉄道・船
先日、ネットを覗いていたら、“100選”ばかりを集めたページに到着した。



そこには、本当に様々な“100選”が並んでいた。



「いろんな“100選”があるんやなぁ~」って思って眺めていると、



“日本の道100選”が気になった。



奈良県からは2つの道が選ばれていた。



我が家から一番近いのは、この道路。



(66)県道畝傍御陵前停車場四条線・橿原神宮公苑線(橿原市)



・概要;畝傍山山麓の市民の憩いの場。



国家的事業として、昭和15年、全国120万人の奉仕員の人々によって建設された。



・区間;橿原市久米町~橿原市四条町(3.9km)



畝傍の御陵(神武天皇陵)を整備するため、昭和の初めに新たにつけられた道路だと、親父から聞いたことがある。



親父も道路の両側に森を作るため、小学校?から植林の奉仕作業に行ったとも語っていた。



あの広大な畝傍御陵前周辺の森が、人工の森やったとは・・・



建国記念の日も終わり、いつもの静かな森に戻っていることやろう。


「写真;畝傍御陵前の道」

植物期間

2010年08月29日 | 薀蓄
今日も春のようなポカポカ陽気。

久々に野良に出て、息子と共にケイカルの撒布とトラクターで起耕。

農業気候学では、日平均気温が5℃以上の期間を「植物期間」と云う。

寒い内、冬眠状態や生育がほとんど止まってい た植物が、

この気温あたりを境として生育を始めるので、

農作物の栽培限界や適否などを表す指数として用いられている。

本州の多くの地域では、冬から春に向け、

5℃を越える平均の日付は2月10日前後で、

この頃が「植物期間」の始まりということになる。

梅の開花もおおよそこの頃にあたり。

旧暦の2月もちょうどこの期間に入る。

2月の別名の「如月」の語源は「萌揺月(きさゆらぎづき)」で、

「植物期間」の始まりを表しているという。

野良仕事をしながら、成長した息子の姿ばかりを目で追いかけていた。

「写真;飛鳥水落遺跡より東方を望む」


横田寿司のアラカルト

2010年08月29日 | グルメ
人間ドックの楽しみもあるけど、


人間ドックのあとの楽しみの方が大きい!


昨夜の21時以降は飲食禁止。もちろん今日の朝食もヌキやった。


今日喉にしたのは、あのイヤ~なバリウムとシロップのような下剤だけ・・・


だから1番の楽しみは昼食!


以前は、病院内の食堂で昼食出たんやけど、


昨年ぐらいから病院近くの3軒のお店を昼食場所に選ぶことができるようになった。


私は迷わず「横田寿司」!


このお店、平日のお昼の時間帯「アラカルト」というメニューが人気なのだ。


1000円以下の料金で、7種類の自分の好きなネタのお寿司を注文し食べることができる。


その他に、2種類の小皿と赤だしとフルーツが付いている。


人間ドックの病院のチケットを持て行けば、タダで食べられるということになる。


検診中、私の頭の中は何を選ぼうかばかり考えていた。


まずは、ネタの大きな鰻の注文を忘れたらあかん。


中トロとビントロは「お一人様、1個限り」やから絶対外せへんやろう。


あとは・・・昨夜のTVで北海道のイカの話をしてたよなぁ~


私、指をくわえて見てたんや・・・


これで何個やったっけ?


せやけど・・・最後に医者から、キツイこと言われたら食べる気失くすやろなぁ~

美味しい顔して、横田のお寿司、食べたいなぁ・・・・

「写真;横田寿司アラカルト
     鰻・中トロ・ビントロ・イカ・海老・鯛・エンガワ

※横田寿司のアラカルト7は、諸事情で1155円に値上がっていました。


梅原猛『飛鳥とは何か』

2010年08月29日 | 読書
インフルエンザに感染しても、タミフルで発熱や症状がとまってしまった私は、自宅に籠もって梅原猛『飛鳥とは何か』を読んでいた。

梅原猛氏は、その本を次のように締めくくっていた。
 『飛鳥は日本の故郷であるといわれる。しかし、それはけっして、永久の昔から日本の故郷であったわけではない。これは、むしろ6世紀末から7世紀末にかけて 、日本が、大いなる変革を求めた時代の政治的な拠点なのである。そして、その拠点は、政治革新を進めようとすれば、そこから逃げねばならぬという大きな矛盾を含んでいた。そして、その矛 盾によって、5回にわたって都は飛鳥に入り、そして飛鳥を出た。そして5回の遷都の後に、日本の政治は大きく変貌したのである。』

謎が多く興味深い本だった。

・約100年の飛鳥時代であったが、飛鳥に都があった期間は36年ほどしかなかったのはなぜか?

・小墾田宮の位置は、本当に飛鳥の豊浦なのか?

・天皇中心の国家を創ろうとしていた聖徳太子が、蘇我馬子が崇峻天皇を殺すのを黙認していた?

・聖徳太子一族の滅亡と大化の改新との関係?  等

感想?

難しすぎた・・・

あんまり病気の時に読む本ではなかった・・・

ぜんぜん脳みそが働かへんねんもん!

元気になったらこの本を持って、自転車乗って飛鳥へ行こうかなぁ~

「写真;飛鳥坐神社 」




「鶡」という店

2010年08月29日 | 麺類
当麻寺への参道と葛城山系の東麓の延びる山麓線が交わる交差点の角に1軒のラーメン店がある。


私はその店の前を通る度に、暖簾に書かれた店の名前を読もうと何度か試みた。


しかし、あっという間に店の前を通り過ぎてしまうのだ。


瞬間の勝負!


暖簾は揺れていることもある!


画数の多い漢字一文字なんやけど・・・


喝?褐?渇?噶?揭?獦?・・・


先日、勇気を出して店の駐車場に車を停めて暖簾の文字を読んでみた。


「鶡」とあった。


いったい何って読むんやろか?


やっぱり「かつ」やろかなぁ~


お腹も減っていないのに勇気を出して店内へ。


店の名前だけを聞くという勇気がないので、醤油ラーメンを1つ注文した。


食べ終えてレジの前でお金を払いながら、女将さんに店の名前を聞いてみた。


予想通り「かつ」と読むのだそうだ。


さらに、その名前をつけた理由も聞いてみた。


女将さんは「主人が野鳥好きで、特にヤマドリが好きなんです。ヤマドリを漢字で“鶡”と書くんですよ。」と答えてくれた。


「そうですか~ 私もヤマドリが好きです。キジに似た美しい鳥ですよね。」と云って店を出た。


「写真;“鶡”のしょうゆラーメン」


河豚のこと

2010年08月29日 | 薀蓄
今日のニュースを見て驚いた。

それは、 「Yのふぐ」のこと

【なじみ薄いフグ、東北6県に規制条例なし…Yで7人中毒
Y県鶴岡市の飲食店でフグの白子(精巣)を食べた7人が意識障害になるなどした中毒事故で、店長(65)は白子料理を作ったのは初めてだった。フグに関する知識もほとんどなかったという。】
私は1月中旬にふぐの本場・山口へ行って食べたばかり。

その時、「ふぐ」を一般の食卓に普及させたのは、あの有名な 山口県出身の政治家、伊藤博文だったと勉強した。
縄文時代頃から、日本では「ふぐ」を食べる文化があったようだ。
当然ながら?「ふぐ」には毒があり、調理法を誤ると毒で死者が出ることがある。ふぐの毒はテトロドトキシンと呼ばれる物質で、0.5mg~1㎎で人を死に至らしめる。これは、青酸カリの約1000倍で、加熱調理等でも無くならない。
特に室町時代以降、「ふぐの毒で部下達に死なれては困る」として、時の為政者達は度々、「河豚食禁止 令」を出した。それでも食べようとする人が多くいた。

特に豊臣秀吉が朝鮮に戦争を仕掛けに行った際、下関で兵士達が「ふぐ」を食べて中毒死するのに困り、「河豚食禁止令」を強化したのだとか。

でも江戸時代、小林一茶は、「河豚食わぬ奴には見せな不二の山」として、ふぐを食べない奴には富士山を見せるな、とまで言い切ったとか・・・
明治初期まで「河豚食禁止令」が続ついていたのだ。

明治27年、日清戦争講和会議が下関の春帆楼で開かれた時のこと。
伊藤博文総理大臣と、清の全権大使・李鴻詳が会談したのだが、料亭としては天候の悪化でなかなか活きの良い魚を入手できなかったことから、困った女将が苦肉の策として、ふぐ料理を作らせて、おそるおそる差し出したのだとか。
(伊藤博文は志士として活動していた頃、下関の商人で勤労の志士に多大な協力をした人から食べさせてもらっていたことがあったらしい。)

そして、その時の「ふぐ」の味に感動し。
「これはうまい! 何の魚だ。」と、店に尋ねた。
「・・・ふ、ふぐでございます」
「禁令の魚ではないか。毒で死ぬ可能性もあるぞ!」
「ですが、きちんと調理をすれば問題はありません。」
「なるほど。ならば、こんなに美味しい魚を食べられないのは勿体ない。山口県と福岡県に限って許そう」と云うわけで、ふぐが食べられるようになったとのこと。

「写真;関門海峡」

司馬遼太郎記念館

2010年08月29日 | 建築物
先日、“まいど1号”が作られた東大阪の町を走っていたら、“司馬遼太郎記念館”の表示を見かけた。


“司馬遼太郎”の名前を見て、私は、すぐに昨秋に訪れた奈良県・當麻の“竹内街道”の光景をイメージした。


しかしここは東大阪、彼の自宅がこの下町にあったとは・・・


記念館は司馬遼太郎の自宅と、安藤忠雄氏の設計という建物で構成されていた。
安藤氏が、「蔵書で囲われて、闇に包み込まれたような、 かすかな光の空間のイメージ」を原点に、周辺の環境とも調和するよう設計されたという。


正門を入れば雑木林風の庭。


司馬遼太郎は、この庭を眺めるのが好きだったという。


出筆活動の合間、行き詰まった時、彼は四季折々の自然を この庭で感じていたのだろうか?

記念館までの途中、生前のままに保存された自宅書斎を窓越しに見ることができた。


その書斎を見て、なんとも言えない感動を私は受けた。


私は暫くの間、窓ガラス越しにその内部を眺めた。


『街道をゆく』などは、ここで書かれてたんや・・・


回廊から記念館に入ると、そこは蔵書の世界。


高さ11メートルの壁面に約3400の書棚が張り付く大書架があり、約2万冊の書籍が収まっていた。


階段を下りてフロアに立ち2万冊の蔵書を眺めようとしたら、真っ先に目に飛び込んできたのが中尾佐助先生の『照葉樹林文化』と『栽培植物と農耕の起源』。


なんたる偶然? それとも何かのお導き? 正直驚いた!


中尾佐助先生のヒマラヤやインドの旅の話、楽しかったなぁ~


凄い人数が集まり、講義室が溢れてしまった最終講義を受けに行ったよなぁ~


係の人が、最近、記念館の天井に坂本竜馬の姿をした染みが現れたと教えて下さった。


私も11メートル上の天井の染みを見上げ、その不思議を仰ぎ見た。


きっと口を開けて天井の龍馬を見てたんやろなぁ~


その後、ホールでビデオ視聴。


ビデオに竹内街道が登場した。


やっぱり、司馬遼太郎と竹内街道の関係は深かったんやぁ~


外へ出たら、館の周囲には菜の花のプランターと鉢植え。


2月12日のために、地域の方や学生などがボランティアで栽培しているのだという。


2月12日は司馬遼太郎の命日、“菜の花忌”というそうだ。


「写真;司馬遼太郎記念館」

伏見稲荷参道のうずら

2010年08月29日 | グルメ
先日、山口県秋吉台で購入した岩石は“うずら”という名前だった。

(※“うずら”とは、腕足類の化石を含む石材の名称?)

その“うずら”という名前を見て、私は京都・伏見稲荷参道の焼鳥屋を連想した。

あの参道に並んだ焼鳥屋には、店頭に“うずら”や“すずめ”が沢山売られていたからだ。

もう何年、伏見稲荷に行ってないんやろか?

以前は何度も家人の実家の信仰にお供し、お供えの荷物を背負っ て山頂まで子どもたちと登ったよなぁ~

チビ(次男)が勝手に下山してしまって、はぐれて(行方不明?)心配したこともあった。

あの朱色の鳥居が立ち並ぶ姿は本当に美しかった・・・

そして帰りはお決まりのように参道の焼き鳥店での食事やった。

“うずら”を注文したら口の中に骨がなぁ~

“すずめ”を注文したら姿がなぁ~

そんなことを思い出していたら、昨日、インターネットに次のようなニュースが出ていた。

<スズメの焼き鳥>100年の名物ピンチ 退治、御利益ありすぎた?--京都・伏見
【京都市伏見区の伏見稲荷大社の参道で、大正時代から続く名物「スズメの焼き鳥」を売る店が今年の三が日でまた一つ姿を消し、2店だけになった。スズメを捕る猟師の高齢化や禁輸による中国産の在庫切れなどで、原料が手に入りにくくなったのが原因。参拝客からは惜しむ声も出ているが、販売を中止した料理屋は「ないもんはしゃあない」とため息をつくばかり。市井の伝統料理が幻の味になる日も近い?】

家人の両親は年老いて、あの伏見稲荷の山頂まで詣る力はもうないという。

伏見稲荷の“すずめ”と共に、すべてが過去のことになっていくんやろうかなぁ~

「写真;秋吉台で購入した“うずら”」



宮島の牡蠣

2010年08月29日 | グルメ
新幹線を広島で降りて最初の観光地は“宮島”やった。


船を下りるとすぐに「鹿に注意」の看板発見!


その内容は奈良公園と共通していた。


私は“宮島の鹿”に関する知識はなにもない。


事前に調べてきたのは、「牡蠣の美味い店」のことだけ。


奈良では春日大社と鹿との関係があるのだが、ここでも厳島神社と鹿との関係があるのやろか?


船着き場から少し歩くと参道に鹿を発見した!

せやけどその数は、奈良公園ほどではないなぁ~

やっぱり鹿は奈良が本場なんやろか?


有名な朱色の大鳥居を見ながら歩くと、神社の入り口前で作り物の白馬の前にも鹿発見!


「えぇ~!馬の前に鹿いてるでぇ~!」短縮したら「馬鹿」やんか~

慌てて鹿が去らないうちにその構図を写真撮影した。

厳島神社の参拝を終えトイレを探すと、トイレの入り口には戸があった。


“鹿戸”と言うらしい。

鹿がトイレ内に入らないようにあるとのこと。


でも・・・「しかと」って・・・「無視すること」とちがうん?


“鹿戸”は奈良公園にあったんやろかなぁ?


そのあと土産物店に入って「鹿グッズ」をチェックした。


奈良やったら“鹿のふん”やけど・・・


やっぱり予感的中やぁ~! 


鹿のお菓子発見!

“鹿のはなくそ”と“鹿のふんふんふん”というのやった。


みんな考えることって似てるよなぁ~


「写真;宮島の牡蠣」


味の素前駅

2010年08月29日 | 薀蓄
年末年始、私は料理を少し手伝った。



最近、料理を少しはせねば、そして上手くなりたいと切に思う。



我が家は、「味の素」や「本だし」を使っている 。



昨年、私は「味の素」の工場へ行ったのだ。



「味の素」とは、アミノ酸の一種であるグルタミン酸ナトリウムのこと。



これは、世界初の科学調味料なのだそうだ。



1907年、東京帝国大学の池田菊苗博士が、昆布の「うまみ」成分について研究している際に、「うまみ」のもとがグルタミン酸のソーダ塩であることをつきとめた。



これを「味の素」として売り出したのが、鈴木三郎助だった。



担当の方から「うまみ」の研究について説明を受けたけど、



学生の頃に聞いた、「ある方法で味の素が飛躍的に売り上げを増やした話」の方が印象深くて・・・



ついつい聞く姿勢が疎かに・・・



「そりゃぁ~ようけ入れたら旨いよなぁ~」なんて思いながら聞いてしまったのだ。



皆さんは、「売り上げを増やすのに容器の穴の大きさを大きくした」というこの話をご存じだろうか?



あと覚えているのは、工場前の駅の名前が「鈴木町駅」だったこと。



もしかしたら、社長さんのご苗字?



昔々は「味の素前駅」という駅名やったとか。



「写真;鈴木町駅 」




風火のとんこつラーメン

2010年08月29日 | 麺類
早いもので今日はもう4日。



今日は今日で忙しかった。



まず、正月三が日を避けて家人の実家へ挨拶。



ご馳走を戴いた。



その後、「もっとゆっくりしいや・・・」の声に後ろ髪を引かれながら、



深夜に信州行きスキーバスに乗るという長男を送って湖国・滋賀へ。



伊賀盆地から信楽を越え琵琶湖へと抜ける車中での会話。



「今日の夕食何食べたい?」



「ここのところ、いろいろ食べたしなぁ~」



「今日もおせちと蟹の鍋をいっぱい戴いたとこやし・・・」



「あんまりお腹減ってへんねんなぁ~」



やっと決まったのは“美味いラーメン”やった。



長男の意見で、滋賀県K市にある“風火”というラーメン店に行くことになった。



行ってみると、店の前に列が出来ていた。



予約受付の紙に名前を書いて待つことに。



しかし・・・湖国の比叡おろしの風は冷たくて・・・



私は、ラーメン店の2軒隣りの中古ゴルフショップの店内へ。



家人と息子らは、コンビニやドラッグストアへと避難。



1時間待ってやっと入店出来た。



1時間も待っていたので、どうにかお腹も少し減り、身体も琵琶湖の風に冷やされて、美味しくラーメンを戴くことができました。



「写真;とことんこつラーメン」



天平の甍・唐招提寺金堂

2010年08月29日 | 建築物
先日、友人の車で、奈良・“西の京”を通りかかった。

車窓から薬師寺の東西の塔が見えた。

私は友人に「ちょっと薬師寺に行きたなったから、車止めてくれへんか。」と頼んだ。

すると彼は、薬師寺の門の前まで行ってく れるという。

しかし、この地域は一方通行などがあって、車は唐招提寺の南大門の前に来てしまった。

私は気が変わり「ここでエエわ~。唐招提寺に行って来るから!」と車を降りた。

それは、唐招提寺金堂の解体修理をTVで見た記憶が蘇って来たからだった。

見上げると、空に春か夏?まであった大きなクレ ーンの姿はない。

“天平の甍”に会いたいと思ったのだ。

2001年8月、金堂の屋根に乗っていた鴟尾(しび)という飾り物の瓦が降ろされた。

“天平の甍”として有名な西側の鴟尾は創建当初のもの(鑑真和上が唐から持ってきたという伝説がある)と言われているが、今回の修復で新しいものと交換が予定され、恐らく二度と金堂の屋根に乗せられる事は無いとのこと。

講堂の仏像を拝観し、境内を1周し、最後に寄ったのが鉄筋コンクリートで出来た新宝藏。

そこに“天平の甍”が展示されていた。

門で払った拝観料とは別料金を払って入館、並ぶたくさんの仏像を観てもうすぐ“天平の甍”やというとき、ポケットの携帯が鳴った。

「皆が早めに揃うみたいなんで、もうすぐ忘年会が始まるで~ 早よ来いや~」とのこと。

あぁ~あ~ “天平の甍”をゆっくり観ようとしたのになぁ~
「鑑真さん ごめんやでぇ~ また来ます。」と言って、寺をあとにしたんやった。

@唐招提寺金堂
759年(天平宝字3年)天武天皇第7皇子、新田部親王の旧邸宅を鑑真和上が賜って創建したお寺。唐招提寺は、鑑真和上の招提[み仏のもとに修行する人たちの場]という意味が寺名となっている。南門の額は、女帝で第46代孝謙天皇の筆で、南門は昭和35年4月に再建されたが、そこを入ると真正面に見えるのが天平建築で国宝の「金堂」。大棟を飾る風雪千二百年の鴟尾は向かって左が古く、右は新しく、また、寄棟造の大屋根を支えている柱はエンタシスで、8本の間隔が左右の端に行くほど少し狭くなって、「金堂」を実際より広く見せている。

「写真;唐招提寺金堂」



満中陰に笠餅

2010年08月29日 | 我が家
昨日は母の満中陰。

朝から親戚とご近所さんが、我が家に来てくださった。

念仏のあとは、大数珠繰り。

今回の数珠は大きい方の数珠。

畳の間3部屋を使って総勢約40名で数珠繰りをした。

数珠が大きいということは、数珠が1周するのに かかる時間も長いということで、50周するのに約1時間かかった。

腕はだるくなり、回数を数える作業で意識は朦朧となり・・・

仏の道とは厳しいものだ。

しかし、皆が1つの輪になり、共同作業が出来るとは楽しいことやった。

その後、お寺さんが笠餅に包丁を入れ、人形を作って下さった。

顔の部分の丸餅は、私が家の外に出て、まだ屋根の上にいるという母に向かって、後ろ向きに屋根に投げ上げねばならない。

しかしそれが・・・

トレビの泉にコインを投げ入れるようには上手くいかず、

なかなか大屋根には届かず・・・

届いても餅は屋根から転がり落ちて来る始末。

その後、笠餅の胴の部分(長方形)を縦7つ、横7つの計49個に切り分けた。

墓参りを終え帰宅すると、家人が笠餅を焼いて皆に振舞った。

会食は、西国8番札所・長谷寺のある初瀬へ。

お店は、この秋、TV「万葉ラブストーリー」のロケで登場したあのお店。

ええかげんな挨拶をして、ええかげんに酒を飲んで会は無事終わった。

やっと私の大きな務めがひとつ終了した感じがした。

「写真;笠餅」



ブルーノ・タウトと十輪院

2010年08月29日 | 建築物
奈良町を歩き続けたあの日、ある外国人の名前が頭から離れなかった。

その人の名前はドイツ人建築家“ブルーノ・タウト”。

私がここ最近知った建築家は、南仏マルセイユで見学したユニテ・ダビタシオンの“ル・コルビジェ”と近江八幡で散策したヴォーリズ建築の“ウィリアム・メレル・ヴォーリズ”。

“ブルーノ・タウト”のことはあまり・・・

彼の名著「忘れられた日本」(中公文庫)の一節に、

『‥‥数多くの社寺とあらゆる芸術品とを集めた奈良は、い わば日本の博物館である。/奈良に来たら、まず小規模ではあるが非常に古い簡素優雅な十輪院を訪ねて静かにその美を観照し、‥‥‥』とあり、十輪院本堂の美しさに感嘆したことが書かれているとのこと。

好奇心旺盛な私は、とにかく国宝“十輪院本堂”を観てみたいと思ったのだ。

“十輪院本堂”の感想は?って聞かれても・・・

“観照”とは難しいものやった・・・

観照・観賞・鑑賞・勧賞・感賞・緩衝・干渉・感傷・・・

結局ここでも、本堂よりも庭の石仏に目が行ってしまった。

@十輪院本堂
十輪院は、元正天皇の勅願により朝野宿禰魚養の創建と伝えられ、重文の南門を入って直ぐ正面に本堂がある。勾配のゆるやかな本瓦葺の屋根を持つ寄棟造の優美な建物で、正面に奥行き1間の吹き放しの広縁が設けられ、軒の梁を支える美しく頑丈な蟇股(かえるまた)が、一際目を引き、正面の蔀(しとみ、板)戸、格子戸、円柱が程良く調和を保って用いられ、全体に軒や床が低く小ぶりだが、中世の住宅を思わせるしっとりとした建物は、ドイツ人建築家ブルーノ・タウトも称讃している。

@ブルーノ・タウト
1880年ドイツの東プロイセン・ケーニヒスブルク生まれ。建築の学校を卒業後、当時流行ったジャポニズム、アールヌーボーに影響され、日本に関心を持ち、ベルリンで建築設計事務所を開き、博覧会出品作や色彩豊かなジードルンク(住宅団地)などの作品が国際的な評価を受けた。
しかし、ナチス政権の台頭により身の危険を感じたタウトは、日本インターナショナル建築会の招待状があるのを幸に日本に亡命した。
1933年日本に到着し、桂離宮を訪れて深い感銘を受けたのをはじめ、伊勢神宮では自然と調和した簡潔なそして厳しい形式に共感した。建築家に連れられて全国を旅し、多くの文化人や工芸家に接し日本の文化を深く理解していった。

「写真;十輪院本堂」