e411y(回顧録)

e411yの旅でのことを書き残しておきたいと思います。

三田屋本店やすらぎの郷

2010年08月30日 | グルメ
今日も雨,趣味の園芸は中止。



大阪で暮らす次男に,夏用の掛け布団と扇風機を届けることにした。



親父は,自宅で採れた野菜(ジャガイモ,玉葱,キュウリ,大根)を準備してくれた。



行く道中で家人と昼食の相談。



私は以前から,兵庫県のYさんお勧めの丹波篠山のお蕎麦屋さんに行きたいと思ってた。



しかし,お昼の蕎麦のコースが5500円も・・・



話をしてみると,家人も乗り気の様子。



雨さえ止めば,城下町篠山の散策もしてみたい!



結局,次男の希望も聞くことで落ち着いた。



大阪北部,次男の下宿に到着。



すぐに昼食の話を切り出した。



次男は,(数日前に誕生日を迎えたばかり)



「蕎麦以外でもええの?」と聞く。



痩せた苦学生の姿を見たら,栄養を取らさねばと思ってしまった。



そして目的地を,昔,家族旅行の帰りに訪ねた懐かしいの三田屋本店やすらぎの郷に変え,ドライブすることにした。



肝心のお肉の写真は???



オーダーしたワインが出てこなくって,腹を立てて撮るのを止めた・・・



「写真;三田屋本店やすらぎの郷の能舞台」

千早城

2010年08月30日 | 
あの日,ざる蕎麦を食べながら「千早城」を研究。

すると600段の急な石段を上らなければならないことが分かった。

そでに今日は,「下赤坂城」と「上赤坂城」に登っている。

さらにこれから600段の石段・・・

今,ざる蕎麦を食べているお店から登山口まででも,結構な距離があるしなぁ~

資料を読むと,「千早城」には,現在 「千早神社」が建てられていて,城址を残す場所は少ないらしい・・・

お城に登るのやめとこかなぁ~

お店の下を流れる谷下の流れは,釣り堀になってるようやし,マス釣りもええやろなぁ~

釣ったマスを焼いてもらって,冷えたビールをグイッと・・・

お店から登山口へとブラブラ歩きながら,いろんなことを空想してた。

600段の石段?

予想以上にキツかった~~!

以下は資料の文

【千早城は、楠木正成の挙兵・籠城の地として余りにも有名です。上赤坂城を楠木氏の本城とすれば、こちらは詰城となります。赤坂城砦群と一体的にとらえて千早・赤坂城砦群の奥の拠点として位置付けることも出来ますが、平野部に対する眺望がきかず、山間に隠れた存在で、上赤坂城のような地域支配機能はありません。

城は、金剛山の一支脈が西に流れて、その末端が一つの半独立峯を成している標高673,9mのところにあります。周囲を妙見谷、風呂谷 、千早谷の深い谷に囲まれ、南東部一か所のみが険しい山路で金剛山頂に連絡しています。府道から500段程の段を登ると四の丸に達します。そこからは三の丸、二の丸へと続き、二の丸跡には千早神社があり、八幡大菩薩とともに楠木正成・正行父子が祭られています。その後方は、俗に本丸と呼ばれ、西寄りが一段高く石垣の段がありますが、これは近代の楠権現の跡です。しかしその回りを本丸続きの帯曲輪が取巻き、二の丸と三の丸の鞍部にはかつて空掘跡があったといわれていますが、今は確認できません。四の丸の西下には大手道を両側からは道がまわり、その下のルートで結ばれる南尾根の曲輪には府立存道館、府立山の家が建って変形されてい ます。

この城は、元弘の変に際して楠木正成が下赤坂城を放棄したあと、翌年の元弘2年(1332)に築城したといわれています。元弘3年には鎌倉幕府の大軍がこの城に攻め寄せ、楠木軍が様々な奇策を用いて戦った様子が「太平記に記されています。籠城のための水は、山伏が使う金剛山中の秘水や雨水を蓄え、万全の策を取ったようです。兵糧は、金 剛山を越え間道伝いに奈良や和歌山から、農民・兵士・山の民により運び込まれたようです。軍資金は、所領七千貫を主なものとし、摂津・河内から大和に至る交通の要所を支配下におき、分業・交通のルートを掌握して冨を蓄積しました。その他にも水銀の採掘(くろとが谷)等により得たようです。

正成亡き後、南朝軍の拠点として正行・正儀・正勝がこの城に籠りましたが元中9年(1392)5月、足利義満が兵を遣して金剛山を攻め、正成がこの城を築いてからおよそ60年後、正勝の時代に攻め落とされました。】

「写真;千早城址」


金剛山登山口

2010年08月30日 | 道路・鉄道・船
今朝は,W杯日本代表を応援して眠い~


せやけど全日本勝ったよなぁ~!


あの日,「上赤坂城」に登ったら,次は「千早 城」。


ナビをセットしたら,「上赤坂城」からかなりの距離がある。


ほんまに,鎌倉幕府の軍が何万人もこの山間に押し寄せて来たんやろか?


目的地に近づいて初めて,「千早城」と「金剛山登山口」と「千早神社」が,(ほぼ)同じであることが分かった。


道路脇の少し広くなっている所は,すべて金剛山登山者用の駐車場で,料金箱が設置されていた。


その駐車料金は,なんと600円!


高いよなぁ~! 


600円あったらお昼が食べれるやんか!


駅前に24時間駐車しても500円やでぇ~


私は,金剛山に登りに来たんと違うのに・・・


ちょっとの間だけ「千早城」を見たいだけやのに・・・


そう思いながら停めるところを探して運転してたら,「千早神社」という表示を過ぎ,両側は山と崖になって車を停める場所がなくなってしまった。


やがて前方に一軒のログハウスの喫茶店?が見えてきた。

私はここに車を停めて,「千早城」見学より先に昼食をすることにした。


このお店,席につき,メニューを見たら蕎麦しかない


私はざる蕎麦の大盛りを頼み,デザートに(蕎麦を注文したら割引価格になる)わらび餅も注文した。


お城へは,このお店に車を停めさせてもらって登ることにした。

「写真;昼食のお店」


大阪府立近つ飛鳥博物館

2010年08月30日 | 建築物
昨夜のTV『情熱大陸』は,600回記念第3弾。


建築家・安藤忠雄(68)の「世界的な建築家の部下教育術」だった。


日曜の夜といえば「サザエさん症候群」?


それが,夕方の「サザエさん」から22時の「ウルルン」になり,


日付変更線間際の「情熱大陸」に・・・


この番組のスポンサーはアサヒビール。


だから当然「ドライ」を飲みながらのTV視聴。


番組では,東京大学建築学科大学院を修了したばかりの若者に,


「彼らは頭だけで建築を考えてきた。だが仕事とは生きるためにやるもの。一を聞いたら十を知る気構えが必要だ、彼らにはそれがない。そんな若者たちを育てるのがこれからの日本の大人の役割だ。徹底的に鍛えるからそれを撮影すればいい。まずは掃除からや!」


と言っていた。


また彼は,「日本の若者に元気がない」と嘆いていた。


「景気が悪い悪いと嘆くな。日本の景気が 悪くても世界のどこかは景気がいい。そこに行けばいいだけやんか。ただ、世界中がそこを狙ってるから生き残らないと。たくましくならんとアカン」


という彼のパワフルな言葉が,「サザエさん症 候群」(しかも,夏風邪?)の私の胸を刺した。


先日,安藤忠雄の建築物を観に県境の水越峠を越えたばかり。


その建築物は「大阪府立近つ飛鳥博物館」。


「黄泉の塔」が聳える階段状の建物やった。


建築が分からない私にも何か訴える建物やったなぁ~


※大阪府立近つ飛鳥博物館


「日本古代国家の形成過程と国際交流をさぐる」をメインテーマに古代大阪に花開いた古墳文化や、飛鳥文化にかかわる資料や情報の収集・保存・研究・展示をおこなう博物館。


近つ飛鳥風土記の丘に保存されている一須賀古墳群の管理・活用とあわせて、古墳・飛鳥時代の情報センターとして、また生涯学習や学校教育の場として利用されている。


「写真;大阪府立近つ飛鳥博物館」


京セラドーム・テラス席

2010年08月30日 | グルメ
今日も暑かったぁ~!


こんな日はビールしかない!


それもクーラーの効いた処で。


今日は昼食後,大阪・京セラドームへ。


頂き物のセパ交流戦「オリックス×横浜」を観戦に。


近鉄電車と阪神電車が難波で合体したので,


京セラドームまで難波から直通2駅で行けるようになってホ ンマに便利。

トラキチなので,あまり知った選手はいない。


応援したのは,「浜の番長・三浦」だけ。

応援する理由は,彼がN県出身だから。


せやけど,オリックスに打たれてしもた・・・


試合の後半から2Fのレストラン・テラス席へ移動。


試合を観ながらピッザとビール。


美味しかった!


昔,ここからライトのイチローを応援してたんやけどなぁ~


「写真;京セラドーム・テラス席でピッザとビール」

上赤坂城

2010年08月30日 | 
あの日,建水分神社を出て道幅の広い農道を走ると「上赤坂城」への表示が出て来た。

車を駐車場に停めて登山の準備。

本丸まで約20分という看板が立っていた。

片手にはPCでプリントアウトした紙。

下調べもせずに来てしまったので,その紙を読みながら城への坂道を歩くのだ。

以下は,プリントアウトした文章

【「上赤坂城」は、金剛山の支脈の一つで、西北にのびる 標高349.5mの峰にある。

この城は別名楠木本城とも言われている。

城の北側は足谷川、東は井戸の谷、西は城の谷という深い谷に三方を囲まれ、南一方のみが樵路で山づたいに金剛山へと続いている。

北側の城の谷から登る城坂が大手口で、二の丸(東の城)の西側を通り、茶碗原を経て坂を登ると本丸に出る。

茶碗原は陣屋跡で、炊事場のあったところといわれ 、石臼や土器が出土している。

本丸は平坦な台地で千畳敷とも呼ばれ、東・西・北の展望が開け、六甲山や淡路島まで見渡すことができ、点在する出城との連絡が簡単に取れたようだ。

城郭は本丸と二の丸の二つの郭を核に、それぞれ大手方面の尾 根に段下りに連郭している。

茶碗原からも谷に向かって曲輪を重ねているが、蜜柑園として開墾されたこともあり、今は不明瞭になっている。

それぞれの尾根は堀り切られ、特に大手道の通る「そろばん橋」は、二重堀切で土橋状になっているが、元は土橋がなかったのかもしれない。

これらの堀切は相互に連ねていくとほぼ等高の 防御ラインを形成する。

元弘2年(1332)秋の楠木正成の第二次挙兵は、千早城とともに上赤坂城に籠城して戦われたが、鎌倉幕府軍に包囲されて翌年2月に上赤坂城が落城、千早城だけが耐えてついに守り抜いた。

建武政権の崩壊、正成の死後、貞和3年(1347)子の正行を中心に南軍が東条谷に集結して北進、翌年正月、四条畷の戦いで正行が敗死、

弟正儀が赤坂に退いて1年6か月間、高師泰らの北軍と対峙した。

この時が赤坂城塞群整備のピークであったと思われる。

正平14年(1359)、赤坂一帯が再び攻防の拠点となり、翌年5月上赤坂城が落城した。

守り手は最後の詰となる金剛山頂との連絡を軸に城塞の網をはりめぐらし,攻め手はそれと競合しつつ向城の網をはって上赤坂城に攻撃を集中するというのが戦術の基本で、正成の挙兵時以来この形を踏襲して城塞群が発達した。

この城は立地上、金剛山麓の城塞群の中枢という面だけでなく、東条谷一帯の地域支配の拠点として典型的な国人居城の特徴を有しているので、南軍の拠点という歴史的背景がなくなって以後も使われたと思われる。(千早赤阪村史・日本城郭体系12より)】

プリントアウトした文を読みながら本丸への坂道を歩いたら・・・

なにがなにやら???

中世のお城は難しい・・・

この城で出会ったのは,初老の男性3名のみ。

本丸から大阪平野を望みながら,全国各地の城と武将の話をずっとしておられた。

「写真;上赤坂城本丸跡」


下赤坂城址

2010年08月30日 | 
奈良県と大阪府の県境,

葛城山と金剛山の間にある水越峠を越えると,

「千早赤阪村」という大阪府内でただ一つの村がある。
この村は楠正成の生誕地。

彼は,鎌倉幕府討幕の計画を企て,

京都を出た後醍醐天皇の行宮・笠置にいち早く馳せ参じ,

南朝方の忠臣として活躍した武将。
「下赤坂城」は正成が挙兵した城。

500余の精兵で幕府方の大軍を迎え撃ち、よく耐えた。

戦の様子は『太平記』で詳しく語られているという。

現在,城址には中学校が建っている。

私は車で城址への坂道を上ろうとしたが,中学校の敷地?に入ってしまい,

学校に迷惑をかけてはいけないと戻り,

下のバス停横に車を停め,再び歩いて登った。

校舎と校舎の間を抜けると丘の上に「赤坂城址」の石碑が見えた。

一番上まで歩いて辺りを見ると,石碑近くに駐車場があり,

そこに数台の車が停まってるやんか~

少し損した気分・・・

カメラを持った初老の男性たちの姿を発見!

「やっぱり楠公さんは人気があるから・・・」

はじめはそう思ったけど,

その男性たちの目的は,日本の棚田100選に選ばれている 「下赤坂棚田」やった。

私,自宅の田植えを終えたばかりやけど・・・

なんというか・・・

兵どもが夢のあと?

気が付けば,私も夢中で棚田の写真を撮っていた。

「写真;下赤坂城と棚田」


千代むすび酒造・鬼太郎のつぼ

2010年08月30日 | 
TVでは「ゲゲゲの女房」が放映されている。

今回は,すこし気になる。

我が家の玄関横の軒下には,土産等の変わった形をしたお酒の容器等が並んでいる。

その中のひとつが,写真の「鬼太郎のつぼ」。

元々その容器の中には,鳥取県境港市にある「千代むすび酒造」の清酒が入っていた。

鳥取県境港市は,ゲゲゲの鬼太郎の生みの親である水木しげるのふるさと。

10年ほど前,茨城県筑波のとある研修施設で出会った鳥取県境港市から来た人が,「鬼太郎のつぼ」を持っていた。

「鬼太郎」の他に,「ねずみ男」や「目玉おやじ」,「砂かけ婆」も持っていたっけ・・・

私,「ねずみ男」のファンで,「ねずみ男」が欲しかったんやけど,

その人,どう頼んでも「ねずみ男」をくれへんかってん!

頼めば頼むほど・・・

(原因は,お互い酔ってたから???)

結局,「鬼太郎」を貰って奈良へ帰ってきたんやった。

家で飾ろうとしたら,家人が嫌がって,結局軒下に・・・

それからはや10年・・・

「鬼太郎」に積もっていた土埃を水で洗ったら,ホッペの塗料がはげてしまった。

■ゲゲゲの鬼太郎
幽霊族の唯一の生き残りの少年。母親の土葬後の死体から生まれた。
左目が潰れてしまっているが、生まれつき左目が潰れていたという話と生まれたときに墓石に目をぶつけて潰してしまったという話の2とおりの話がある。なお、目玉おやじは鬼太郎の左目ではなく、鬼太郎の父親の目玉が執念で生きているものである。
先祖代々の霊毛で編んだチャンチャンコ、ゲタ、毛針などを使用して悪の妖怪や人間と戦う。

「写真;鬼太郎のつぼ」

大和豊年 米食わず

2010年08月30日 | 読書
明日,田植えなので,奈良盆地に多い「ため池」のことをブログに書こうと,ネット検索してたら,高校時代の恩師の文に出会った。

恩師には,部活顧問としていろいろお世話になった。

高校1年では,夏山合宿で剣岳・立山に同行してくださった。

高校2年の3月,奥吉野の山(弥山→大峰山;奥駆道)に登って突然の豪雪に遭ったとき,先生は心配して山麓まで来て下さった。

恩師は高校を退職後,県内の大学で教えておられたのだ 。

今日は,恩師の文を載せようと思う。

【ため池のある風景-それは大和の風物詩の一つでもあり ます。海なし県の大和で、満々と水を蓄えたため池の水面に、こもりくの青垣の山々がその影をおとす光景は潤いのある癒しの空間を演出しています。

ご承知のとおり、奈良盆地では古くから米作りが盛んに行われてきましたが、元来、米作りには豊富な日照と灌漑用水が欠かせません。米作りに必要な降水量は1800ミリ以上といわれますが、寡雨地帯である瀬戸内気候帯の東端に位置する奈良盆地では1300ミリ程度しかなく、恒常的に灌漑用水は不足している訳です。

「大和豊年 米食わず」という諺がありますが、これは大和で米作りに必要な降水量が確保できて豊作となった年は、大和以外の土地では雨が多すぎて洪水等の被害をうけ凶作になるという意味です。また「日照り一番 水 つき一番」とも言われてきましたが、これは奈良盆地の河川が最終的にはすべて大和川一本に集水されるため、盆地内の各河川が合流する地域では河川の氾濫によって頻繁に洪水が発生したこと、加えて盆地内のいわゆる外水河川が形成する天井川の堤防がたびたび決壊して「水つき」をひき起こしたことを表す言い伝えです。早魃(日照り)と洪水(水つき)が大和の農民を苦しめてきたということですね。人々はこうした水とのたたかいの中で営々と米作りを続けてきた訳ですが、水不足を大きく支えてきたのがため池です。

奈良盆地とその周辺の山麓には、かつて一万三千余個のため池がありました。古くは「古事記」や「日本書紀」等にもすでに十数個のため池の存在が記されていますが、その多くは江戸時代から明治期にかけて築造されています。そのため池は概ね次の二つのタイプに分けられます。

一つは山麓の谷頭に堤防を築いて貯水するタイプで、古くは橿原市の益田池(廃池)、新しくは桜井市の倉橋のため池や天理市の白川池のような大規模なものもありますが、馬見丘陵や盆地周辺の山麓に多く分布するいわゆる「坪池」と言われる小規模なため池群です。いま一つは、条里制地割に基づいて作られたと考えられる国中(くんなか)に卓越して分布するため池で、奈良市南部の広大寺池や田原本町の唐古池のような大規模なため池もありますが、その多くは一ヘクタール前後の水深の浅い「皿池」と呼ばれるため池群です。】



読み終えて,久々に先生のお墓にお参りせんなあかんなぁ~って思った。



やっぱりお供えは,先生が大好きやったお酒やろか・・・



「写真;畝傍山近くのため池(甘樫丘より)」



淡竹

2010年08月30日 | グルメ
今日は雨。


昨日のカンカン照りが嘘のよう。


私の腕には,昨日の趣味の園芸でついた日焼けのラインが残ってる。


親父はカッパを着て「ハッチク採り」へ。


「ハッチク」は,漢字で「淡竹」と書くことを数年前に知った。


どんな文字で書こうが,私にとって「ハッチク」は「ハッチク」なんや。


我が家の食卓に「ハッチク」が登場するのは,田植えの準備を始める今頃から。


春からずっと筍(孟宗竹)を食べ続けた後やけど,


同じ筍でも「ハッチク」は,また格別。


ホンマに美味しい!


「写真;ハッチク」


水越峠

2010年08月30日 | 道路・鉄道・船
葛城山(959m)と金剛山(1125m)との間に位置する「水越峠」は、奈良県御所市と大阪府南河内郡千早赤阪村の境にある峠。



現在は国道309号線旧道が通っている。



1997年5月に水越トンネルが開通したことにより,峠の交通量は激減したという。



私は中学生の時,自宅から友人と自転車に乗って「水越峠」まで行き,



そこに自転車を置いて,金剛山に登ったことがある。



家に帰ったらクタクタやったことだけ,しっかり覚えている。



今年の田植えが終わったら,「水越峠」を越えてみたいと思っている。



「水越峠」を越えると「千早赤阪村」。



千早城,上赤坂城,下赤坂城 etc・・・



建武の新政・南北朝時代の古城めぐりもええやろなぁ~



「千早赤阪村」の北隣りの「河南町」にある弘川寺には,西行が眠っているという。



“訪ね来つる宿は木の葉に埋もれて 煙を立つる弘川の里”



“麓まで唐紅に見ゆるかな さかりしぐるる葛城の峰”



“願はくは花の下にて春死なむ そのきさらぎの望月のころ”



西行なぁ~ ええなぁ~



あの水越峠,越えてみたいよなぁ~



「写真;金剛山(左)と葛城山(右)との間が水越峠」



マカロン

2010年08月30日 | グルメ
家人が2~3週間ほど前から,しきりに「マカロン」という菓子の名前を口にする。


菓子をあまり食べない私に,「マカロン知ってる?食べたことある?」と聞く。


当然のように私は,「そんなん知らん。仮に食べたことあっても,名前聞かへんもん!」と答えた。


家人もあまり甘い菓子を食べないのに,


子どもたちにも「マカロン知ってる?食べたことある?」と聞いてまわる。


子どもたちは,「知っているし,食べたこともある。」と答えた。


そして「私だけ食べたことないねん・・・」とブツブツ・・・


ここ2年,母が倒れてから,我が家の生活リズムは大きく変わった。


さらに昨秋,義母が倒れてからの家人の生活は,平日 は仕事,


土・日曜日は,午前中は家の片付けと昼食の準備をし,午後から義母が入院する病院へ,


帰宅後は夕食の支度。


「私には自分の時間がない! 知人もみんなマカロン知ってるのに!」とぼやく・・・


昨日の午後,私も義母の入院する病院へ。


その道中,長男から「スターバックスにも売ってるで!」というアドバイスを受け,


「マカロン」を探すことにした。

たいそな「マカロン」やなぁ~


パリの味,するんやろか?


「写真;県庁東交差点(奈良公園)」


エンドウ尽くし

2010年08月30日 | グルメ
昨日の趣味の園芸で,腕と肩の腰が痛い。


ゆっくり寝て,やっとベッドから抜け出た。


遅い朝食を済ませると,


食卓の床にエンドウの鞘が入った入れ物があるのに気が付いた。


昨夕,私がイチゴを収穫している横で,親父はエンドウを収穫してたんやった。


と言う事は・・・


「このエンドウを剥いておけ」という親父のサイン?


私は,家人が洗濯物を干している間に,ぼんやりTVを見ながら「エンドウ剥き」。


せやけど・・・肩と腕が痛い・・・


少し力を入れると,エンドウ豆が何処かへ飛んで行ってしまう。


床に落ちる音とそれから床を転がる音はするけど,エンドウ豆の姿は発見できへん!


まぁ~ええか・・・


掃除する家人の小言を聞けばええんやから・・・


暫くの間,我が家の食卓は「エンドウ尽くし」。


食後のフルーツは「イチゴ」という生活が続きそう。


「写真;私が剥いたエンドウ」


木の国野半ビール

2010年08月30日 | 
九度山周辺のハイキング3時間コースを途中でショートカット。


家人の横顔を見ると,真田庵の近くに停めた愛車をここ(勝利寺)まで乗って来て欲しそう。


次の予定の話をして,やっと家人は車(昼食)に向かって歩き出した。


次に目指すは,昼食予定の「野半の里」。


「野半の里」は1789年(寛政元年)、野上屋の屋号で前田半十郎が暖簾をあげて以来の酒造史を刻む老舗酒造メーカー。

紀ノ川上流、高野山麓にあるこの地は、かつらぎ・高野山系の伏流水に恵まれ、明治初期にはかつらぎ町内だけで16場もの蔵元が林立した銘酒の郷であった。


江戸時代の和歌山城下町では、別名「川上酒」(紀ノ川上流の上質な酒に由来)と呼ばれて上質酒の代名詞にもなり、和歌山藩の御用命をはじめとし、城下の人々に広く愛飲されてきたという。

「野半の里」では、酒造りの伝統と技術を生かし、平成8年に和歌山で初めての地ビール、「木の国野半ビール」を誕生させた。


平成15年には「天然温泉 蔵乃湯」を開業したという。


調べたところ,


「地ビールを飲み干す・伝統の銘酒に酔う・旬を味わう・天然温泉で癒す」花いっぱい、楽しさいっぱいの野半の里は大自然に囲まれた心のふる里です・・・


とあった。


昼食時には,軍艦ビールと木の国野半ビール,季節のビール?の3種類のビールを飲んで,それから温泉に浸かり・・・


そう思って「野半の里」へと出発した。


「写真;①野半の里の昼食と木の国野半ビール」

有吉佐和子『紀の川』

2010年08月30日 | 読書
あの日,真田庵周辺を散策したあと,自宅でプリントアウトした地図を持って約3時間のハイキングコースを歩き出した。

次に目指したのは,世界遺産「慈尊院」。

九度山の商店街?の町並みが切れるところが丹生川。

またまた「丹生」との出会いやんか!

川には鯉のぼりが泳いでいた。

全国各地でよくある光景?

河原には車がたくさん停まっている。

きっとGWで,水遊びとバーベキューでも始めるんやろか?

この丹生川は,目の前で大きな「紀ノ川」と合流する。

この「紀ノ川」,和歌山県では「紀ノ川」と呼ばれているが,上流の奈良県内では「吉野川」と呼ばれている。

私には「吉野川」の方に馴染みが・・・

川を横に眺めながら「慈尊院」へと歩いた。

「慈尊院」では,塔?の修理中???

その「慈尊院」の境内で見た有吉佐和子『紀の川』の解説板。

勉強不足で,私にはその内容が???

暫しの間,その解説板の前に立って読んでいた。

また課題図書が1冊増えたなぁ~

※慈尊院
千百六十有余年前、弘法大師が高野山開創の時に、高野山参詣の要所に当るこの地に、表玄関として、伽藍を草創し、高野山一山の庶務を司る政所を置き高野山への宿所ならびに冬期避寒修行の場所とされた。
大師の御母公が,香川県善通寺より高野山上へ大師を尋ねようとされたが、大師は、自ら七里四方を女人禁制としておられたので、山麓の当院へ迎えられた。
大師は、月に九度は必ず高野山上より二〇数キロの山道を下って、母公を尋ねられたので地名を「九度山」と称すそうだ。
ご母公がご本尊弥勒菩薩を尊崇せられた功徳により、入寂の砌、ご本尊様に化身さられたと言う信仰となり女人の高野参りは、当院までということも相俟って、子宝安産、育児、授乳等を願い、「乳房型絵馬」を奉納して祈願した。

「写真;慈尊院にあった乳房型絵馬」