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歴史上の人物はその一生涯をみなければ分からないー秋月悌次郎の場合

2024-10-10 18:18:53 | 日記
今月の寺子屋江川塾のテーマは秋月悌次郎です。以前から大変興味を持って何冊かの本を読んでいましたが、今回再び読み直し、また新たに本も購入して読み進めました。
秋月悌次郎(秋月韋軒)は1824年文政7年会津藩士の家に生まれ江戸幕府の昌平黌を優秀なる成績で修め全国各地を遊学し各藩の藩士とも交流しながら会津藩主松平容保が京都守護職につくと藩主の片腕として藩の公用方に就き薩摩と会津を仲介して文久3年8月18日の政変で攘夷派公家を京から追い出しました。その後長州藩士に命を狙われますが藩から蝦夷地(斜里)の代官として左遷されます。幕末の京で薩長同盟が成り会津藩と薩摩藩しの関係修復のため京に呼び戻されますが、時すでに遅く慶応4年鳥羽伏見の戦いで徳川勢が破れ会津藩は朝敵となって会津戦争で敗れます。その時の会津藩の降伏の使者となり、秋月悌次郎は明治5年まで禁錮刑となります。その後赦されて一高教授から熊本五高教授になりその教え方に同僚のラフカディオハーン(小泉八雲)から「神のような人」と人格者として尊敬され明治33年77歳で亡くなります。
秋月悌次郎と言うと幕末京都の政変を会津藩公用方として活躍したことで知られますが、77年の人生を振り返った時、蝦夷地左遷や賊軍の使者、禁錮刑と山あり谷ありの人生でした。最後に人格者として尊敬された晩年は正に秋月悌次郎という人物の集大成と感じます。
やはり歴史上の人物はその一生涯を見なければ分かりません。
コメント
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