アチャコちゃんの京都日誌

あちゃこが巡る京都の古刹巡礼

659 アチャコの京都日誌 令和に巡る京都100寺巡礼  61番~70番

2019-10-29 08:58:48 | 日記

61番 西明寺  季節それぞれの景色を愛でる。

 

京都市右京区梅ケ畑槇尾町2

山号  槇尾山

宗派  真言宗大覚寺派

開基  智泉

本尊  釈迦如来

 「西明寺」の画像検索結果

京都のお寺が大好きだ。おすすめ一番はここだ

 

いよいよ周山街道を北上し洛外へ出て京の「三尾」を訪ねる。京都駅から車で小一時間、60番愛宕念仏寺からは15分くらいだ。三尾とは、高雄・栂尾・槇尾だ。高雄は「尾」ではない。東京の高尾山と紛らわしいからか?あるいは、近くの水尾とで三尾ではないのか。

さてこの三山を整理する。

 

高雄山

槇尾山

栂尾山

寺院

神護寺

西明寺

高山寺

宗派

高野山真言宗

真言宗大覚寺派

真言宗単立

開基・開祖

和気清麻呂・空海

智泉

光仁天皇・明恵

国宝など

似せ絵(伝頼朝像他)

薬師如来像など多数

清凉寺式釈迦如来

(重要文化財)

鳥獣人物戯画他

石水院

主な行事

虫払定(春)

柴燈護摩法会

 

トピック

かわらけ投げ

桂昌院が再興

本茶(最古の茶園)

 

 

 

 

この中で、神護寺や高山寺という大きな寺を紹介するのは、このシリーズの本意ではない。西明寺は神護寺の近く、清滝川沿いの山肌に建つ。創建は平安時代初期空海の直弟子、智泉大徳である。当初は神護寺の所属であった。度々の戦乱で幾度も焼失する。洛中から遠い槙尾のこの地にまで戦争の影響があるとはとても考えられないのだが、当時各寺院は争いの拠点になったようだ。

徳川将軍綱吉の母桂昌院の再建と言われているが、後水尾天皇の皇后徳川和子(東福門院)という説もある。西明寺はそこに行くまでの清滝川沿いのそぞろ歩きが楽しい。夏は川の緩やかなところで川遊びする子供たちの歓声が聞こえる。また、秋は紅葉のトンネルをくぐる。冬の寒い時でも雪が降れば写真マニアで賑わう。勿論春から夏に向けての百花繚乱も楽しめる。山すそをかけ上るように山門を入る。狭い境内だが歴史を感じる。本堂内に入って本尊の釈迦如来を鑑賞する。清凉寺式と言われる形式は、中国からの伝来でインド仏像の原像であるらしい、それを摸刻して持ち帰ったものが嵯峨清凉寺のものであり、さらにそれを摸刻したものを清凉寺式と言い鎌倉時代には例が多いと聞いている。時間をかけてゆっくり境内の静寂を楽しんで次に向かう事とする。

 

62番 常照皇寺  史上最も理不尽に耐えた天皇が眠る。

 

京都市右京区京北井戸町丸山

山号  

宗派  臨済宗天龍寺派

開山  光厳天皇

本尊  釈迦如来

 「常照皇寺」の画像検索結果

京都のお寺が大好きだ。おすすめ一番はここだ

 

足を伸ばして右京区の北の果てまで行く。三尾からでも車でさらに小一時間かけてたどり着く。京都市内の喧騒からかけ離れ北山杉の山道を丹波地方に向けてドライブする事になる。常照皇寺という意味深い寺院は京都の奥座敷の更にその果てにある。北朝初代の光厳天皇が南北朝騒乱の果てに、失意の後に出家し開創した寺である。境内奥には、その御陵である山國陵と、後花園天皇の後山國陵もある。

見所は、国指定の天然記念物の枝垂れ桜だ。見事な九重さくらだが近年の気候変動と寿命とで存亡の危機と聞いている。方丈や開山堂から眺める庭園も絶品でゆっくり座って鑑賞したい。

 

常照皇寺は、光厳天皇を語らねば理解できない。そもそも筆者は、この天皇が歴代天皇に数えられていないのは理不尽と考える。明治維新後、神国日本の国づくりを推し進めるあまり、極端な皇国史観から逆賊足利尊氏、英雄楠木正成の構図を作り上げる過程で光厳天皇の存在が薄められた。光厳天皇は、後醍醐天皇から正式に三種の神器を譲り受け即位している。後に「あれは偽物であった。」と、後醍醐天皇に言われたが、そんなことは関係ない。時の天皇が保持している物が「神器」なのである。1331年鎌倉倒幕計画が発覚した後醍醐天皇が隠岐に流される前に、幕府の推挙により即位した。しかし、1333年隠岐を脱出した後醍醐の詔により廃された。その時、後醍醐天皇は、「朕の皇太子の地位を退き、皇位には就かなかったが、特に上皇の待遇を与える」とし、何と即位そのものを否定した。これをもって光厳上皇という。依然として、光厳天皇の時代とも言える。後醍醐天皇の重祚と考えるか、隠岐流罪の間も天皇であったと考えるか。いずれにしても後醍醐天皇に続き、97代天皇とすべきであろうと筆者は考える。光厳天皇は長い上皇時代に、「観応の擾乱」による一時的な南朝方の権力回復により、吉野に幽閉されている。その様に誠に理不尽な人生であった光厳上皇は、晩年夢想疎石を師とし禅僧として、京都の奥深いここに眠った。常照皇寺に残る「光厳法皇像(絵画)」は禅僧そのもののお顔である。

市内から遠く離れて訪ねる価値はある。

 

63番 法金剛院  白川上皇に翻弄された悲運の美女待賢門院が眠る

 

京都市右京区花園扇野町49

山号  五位山

宗派  律宗

本尊  阿弥陀如来

開基  待賢門院

「法金剛院」の画像検索結果 

京都のお寺が大好きだ。おすすめ一番はここだ。

JR花園駅のすぐ前、妙心寺三門の西南へ数分のところにある。

待賢門院はこのブログの主役と言っても良い。第74代鳥羽天皇の中宮でありながら、第72代白河天皇の子を宿し第75代崇徳天皇の母となり、さらに鳥羽天皇との間に第77代後白河天皇を産み国母と呼ばれた歴史上稀な女性である。法金剛院はその待賢門院の創建となっているが、平安初期の高級貴族清原夏野の別荘を文徳天皇の発願により天安寺としたものを、待賢門院がさらに法金剛院としたものだ。

国の特別名勝庭園には蓮の花が咲き、日本最古の人口滝の跡である「青女の滝」がある。現在は奥の五位山からの水脈は尽きていて滝とは言えない。さらに浄土式庭園は見事なものだが、池の背景にはマンションが建設されていてややガッカリする。

しかし、見事なのは本尊の阿弥陀如来坐像である。丈六仏(立てば5m以上)なので座像でも存在感があり、慈悲深く眼差しを向けてくれる。平等院の国宝阿弥陀如来坐像と同様典型的な定朝様仏像である。直系弟子の仏師院覚作である。この阿弥陀様の前で晩年の待賢門院が、どのような気持ちで過ごしたのか。まだ女性としての兆しが訪れる前から白河天皇と同衾し、白河の孫の鳥羽天皇に差し渡された後も白河と逢瀬を繰り返し、月経の周期まで調べて後の崇徳天皇をはらんだ。その間、鳥羽天皇には添い寝はしても交合は許さなかった。小説「天上紅蓮」にはその間の描写が生々しい。手淫により処理された鳥羽天皇はどんな気持ちであっただろうか。本堂から庭園など一周しても20分ほどの境内なので、椅子に腰かけて異常な宮廷事情を想像して見た。なんだかそれも良いか、と思えた。

 

64番 広隆寺  秦氏 聖徳太子ゆかりの古い寺

 

京都市右京区太秦蜂岡町32

山号  蜂岡山

宗派  真言宗単立

本尊  太子像

開基  秦河勝

別称  蜂岡寺 秦公寺 太秦寺

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京福電鉄嵐山鉄道、通称「嵐電」本線の広隆寺駅の前に大きな山門が見える。嵐電は京都の街並みにすっかり溶け込んでいるので、古風なお寺の前を電車が横切っていても全く違和感なくむしろ京都の風物詩とも言える。路線図を貼りつける。駅名を眺めるだけでワクワクする。

さて、このシリーズでは大寺院である清水寺や東寺などは取り上げず、一般にはなじみは薄いが重要な寺院を中心に書いている。ただ今回の広隆寺は誰もが知る大寺院である。国宝指定第1号の弥勒菩薩半跏像で有名だ。言うまでもなく聖徳太子創建の太子信仰の中心寺院である。現在の本尊は、その太子像となっている。

しかし開基は秦河勝という人物である事は余り知られていない。秦氏の事実上の祖である。太古の日本は秦氏をはじめとする高麗氏、小野氏、土師氏、八坂氏などの唐や半島からの渡来人の高い技術のお陰で発展した。中でも秦氏は織物の技術を中心に太秦地区を中心に山城地域の開拓に貢献した。太秦「うずまさ」は、うずたかく積み上げられた織物を現わす言葉である。おそらく中国や朝鮮半島の政争に敗れ苦難の末、日本に渡って来たのであろう。その結果古代朝廷の発展に貢献したのだ。その秦氏と聖徳太子との深い関係が伝わるのが広隆寺である。

本堂奥の「霊宝殿」に安置される国宝仏像の豊富さに驚く。展示されないものも含めると、9個の国宝、34個以上の重要文化財を保有する。詳しい由来はさて置いて講堂本尊の阿弥陀如来坐像の存在感や弥勒菩薩の美しさにしばらく浸っていたい。今回訪問したのは、11月22日お火焚き祭の日であった。 

 

その日は、聖徳太子の御命日という事で、太子への供養と信者たちの願いを込めて護摩木を燃やして、祈祷を行う。ちょうど紅葉の季節の真っただ中で、境内の鮮やかな紅葉も同時に楽しめる。昼過ぎに本堂では丁重な法要が行われる。その後、管主を先頭に山門の前に備えられた護摩壇に火が点けられる。その際の修行僧たちの所作の美しさと、注目すべきは管主様が美しい女性であることだ。古代の尼御前の醸し出す清廉な美しさはこのようなものであったかと思う。そしてその日だけ秘仏の聖徳太子像が御開帳される。本堂での読経の後、順番に一人一人戒壇内に通してもらう。童形の太子像は普段閉じられているので鮮やかな彩色も残っている。その感動だけでもこの日訪ねる価値がある。

 「広隆寺お火焚き」の画像検索結果

 

その後、御火焚きの方にまわって、写真にあるように「ご利益」を頭に頂いて、帰路についた。このように京都の寺はなるべく重要行事に合わせて訪ねて行きたい。因みに、こちらの境内社の大酒神社では、京都三大奇祭の一つ「牛祭」があり、1012日に異相の仮面をつけた神様が牛にまたがり、周囲を赤鬼・青鬼が松明をもって巡行する。そして薬師堂の前で祭文を読み上げると周囲の参詣者から一斉に悪口雑言が浴びせられ神様たちは急いで堂内に逃げ込むと言う奇祭だ。残念ながら、是非見てみたいと思うが現在はしばらく行われていない。京都にはまだまだ解明されない奇妙な行事や風習がいっぱいあるのだ。

 

65番 退蔵院  国宝瓢鮎図を鑑賞し思いに耽る

 

京都市右京区花園妙心寺町35

山号  妙心寺塔頭

宗派  臨済宗妙心寺派

開基  波多野重通、無因宗因(開山)

本尊  

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嵐電の帷子ノ辻駅で、本線から北野線に乗り換えて妙心寺駅に向かう。また、京都駅からはJR嵯峨野線花園駅の直ぐ前だ。妙心寺は、臨済宗の大本山の寺で、五山の下だが「算盤面」の名の通り山内は、石畳の通路を巡るあたかも寺内町の様相である。南総門から入りすぐ右手が「龍泉庵」だが普段拝観していない。まずは仏殿を挟んで反対側(西側)の退蔵院を訪ねる。妙心寺搭頭の中ではトップクラスの敷地を誇る。創建も古く、妙心寺創設後すぐの室町初期である。如拙作の日本最初の水墨画と言われる「国宝・瓢鮎図」が余りにも有名だ。レプリカが方丈の前で見られるが、前に広がる庭園も素晴らしい。西側の「元信の庭」も枯山水の石組の豪快な庭だ。暫く瞑想する人も多い。そして昭和の名園「余香苑」に行く。京都では重森三玲が有名だがここは中根金作の作庭だ。門を入ると紅垂れ桜の見事な枝が迎えてくれる。春の満開時に訪れればどんなだろうと想像する。そして左に「陽の庭」右に「陰の庭」とコントラストが楽しめる。瓢鮎図を意識したのだろう「ひょうたん池」の回りを巡る池泉回游式の庭園には、湧き水が池に流れ込む、その心地よい水落の音が耳に馴染みよい。なお、瓢鮎図は禅の公案を示すものであり、小さな瓢箪で大きななまずをどうして捕まえるか?31人の高僧が大真面目に答えている。さて、我々はどんな答えがあるのだろう。

 「退蔵院瓢鮎」の画像検索結果

 

66番 東林院 沙羅双樹の庭 「諸行無常の響きあり」

京都市右京区花園妙心寺町

山号  妙心寺塔頭

宗派  臨済宗妙心寺派

開基  山名豊国  創建 細川氏綱

本尊  

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妙心寺塔頭をもう少し訪ねる。東林院は、妙心寺境内の東の端に隠れるようにして存在している。普段は拝観していなく宿坊として運営している。また、泊まらずとも精進料理の昼食がいただける。拝観のお目当ては「沙羅双樹の庭」である。御釈迦様が入滅した時、一斉に花開いたと言われる。一瞬に咲き一瞬に散ることで諸行無常の象徴となっている。水の流れ、祇園精舎の鐘の音とともに平家物語の冒頭の文章で無常の象徴で有名だ。

創建は細川氏綱で「三友院」として始まり、その後開基とされる山名豊国が「東林院」と改め、その後山名氏の菩提寺として続く。「沙羅双樹の庭」以外にも、「千両の庭」や「飛竜の宿り木」など狭い方丈内だが見どころは多い。

パンフレットには、「ただぼんやりする 何もしない贅沢があります」と書いてある。

67番 桂春院  一人で物思いに耽りたい庭園

 

 

京都市右京区花園寺ノ中町11

山号  正法山

宗派  臨済宗妙心寺派

開基  津田秀則

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妙心寺塔頭寺院は、通常拝観出来るのは退蔵院、大心院そしてこちら桂春院の3つだけだ。桂春院は、比較的新しい歴史で織田信長の長男信忠の次男、要するに信長の孫にあたる津田秀則が創建した見性院が始まりだ。寺の名前は父母の戒名から一文字ずつ取ったものだ。寺の経緯より、庭園の素晴らしさが特徴だ。清浄の庭、侘びの庭、思惟の庭、真如の庭とそれぞれ趣の違う庭園が楽しめる。方丈に茶席を設けてゆっくり観賞できるようになっている。筆者が伺った時はカップルが恋?を語っていたが、本来は一人で物思いに耽りたいものだ。

 

68番 源光庵  禅の窓・忠臣元忠の血天井

 

京都市北区鷹峯北鷹峯町47

山号  鷹峯山

開基  徹翁義亨 (復古堂)

宗派  曹洞宗

本尊  釈迦如来

別称  復古禅林

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さて、ここからは北区鷹峯を巡る。この辺りは、光悦村と呼ばれている。江戸時代初め京都の芸術家の頭目である本阿弥光悦は、家康からこの地を拝領し一大芸術村を構築した。源光庵の近所には、光悦寺と常照寺という寺院があるがいずれも本阿弥家の寺である。

光悦寺の方は、光悦の死後その庵を寺にしたもので多数の茶室と庭が楽しめる。筆者は、そのエントランスに注目したい。幅1mほど奥行き数十mの紅葉のトンネルを山門に向かう参道は、京都一の寺院エントランスだと豪語している。訪ねる寺は、まず源光庵。数年前に「そうだ京都に行こう。」のキャンペーンで紹介され一躍人気寺院になった。丸い「悟りの窓」と四角い「迷いの窓」を通じて眺める四季の移ろいが楽しい。〇は、拘りのない宇宙であり純粋な悟りを現わし、□は、「生老病死」という人の根本的苦悩を現わす。本堂右横の庭園に向かってこの窓があり、そこに座ったり寝転んだり日がな一日過ごす。まさに贅沢な時間だ。秋の紅葉が一番人気だが、寒いが雪景色も一層趣深い。

寺の創建は室町時代で当初、臨済宗大徳寺派だったが、江戸時代に曹洞宗に改宗した。京都には数少ない曹洞宗寺院である。北山を借景とした枯山水庭園の苔むした趣が良い。「稚児の井」という古井戸からは今でも名水が汲める。

 元忠

しかし本当に注目してもらいたいのは、「血天井」だ。関ケ原の戦いに至る前段階で、家康は京都伏見城を出て奥州の上杉征伐に出かける(実は反石田勢力を徳川に味方させるため)。従って、その留守中に石田三成一派が伏見城を攻める事が予想された。留守居役の鳥居元忠の役目はただ一つ、時間を稼ぐ事だった。主力の兵を残そうとした家康に対して、「天下をお取りになる殿の為に・・・。」と、残兵は最小にするように進言した。彼は家康からの感状(戦場で手柄を後日保証する為その場で部下に渡す書状)を、私と殿との関係でそんな形式は不要だと拒んだくらいの忠臣である。その元忠はすでに死を覚悟していた。事実数十倍の三成勢に対して十二分に時間を稼ぎ、関ケ原での家康勝利を実現させた。後日、伏見城に戻った家康は、元忠始め自害した部下を丁寧に葬るが、床板にしみ込んだ血の跡は取れず、その為床を天井板にして長く弔う事とした。その寺院が京都には数か所ある。七条東大路の養源院、西賀茂の正伝寺、宇治の興聖寺、三千院近くの宝泉院、そしてここ源光庵だ。生々しいその血痕を見上げて欲しい。ぞっとする。(怖)

 

69番 常照寺 現世に未練を残す吉野大夫のゆかりの寺

 

京都市北区鷹峯北鷹峯町45

山号  寂光山

宗派  日蓮宗

開祖  日乾 本阿弥光瑳

本尊  三宝尊

別称  鷹峯檀林

 

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𠮷野門

常照寺は、本阿弥光悦の子の光瑳(こうさ)の創建である。しかし有名なのは、江戸時代伝説の遊女吉野大夫ゆかりの寺であることだ。遊女とは言え大夫クラスは芸能に長けた文化人である。吉野大夫は豪商灰屋紹益が身請けされ若くして亡くなった。美人薄命の典型である。入り口の山門は𠮷野門と言われ、大夫の寄進であり今でも朱色が鮮やかに残る。また、境内奥の茶室には「吉野窓」と言われる底辺がやや欠けた丸窓がある。完全な悟りの境地ではなく未だ俗世間に未練を残す女の情念が表されている。

「常照寺吉野窓」の画像検索結果

吉野窓

本堂正面には「鷹峯檀林」と大きな扁額がかかっている。実質開基の日乾(日蓮宗)がここを檀林(学寮)とした。今で言う学校である。「檀」とは、栴檀、白檀の檀であり香しい植物の事のようで、檀那の檀も同じ漢字だ。梵字で「ダン」を現わす文字としてよく使われる。一方、「壇」は、土を盛った拠点のような意味で、天壇など地名に多く出て来る。壇蜜は「壇」。檀ふみ・檀れいは「檀」なのだ。因みに、「庵」は「菴」でも良いが表千家の茶室「不審菴」だけは「菴」でなければいけない。また京都岡崎の山縣有朋の無鄰菴の「隣」は「隣」でも「鄰」でも良い。さらに斎藤の斎は、それぞれ本人に聞かなくてはならない。今熊野は新熊野でも(いまくまの)と読む・・・・。以上、読者には関心がない事を書いた。(泣)

 

 

70番 正伝寺

京都市北区西賀茂北鎮守菴町72

山号  吉祥山

宗派  臨済宗南禅寺派

開基  東巖慧安

本尊  釈迦如来

正式名 吉祥山正伝護国禅寺

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鷹峯から坂道を降りて、途中「お土居跡」を横に見ながら、玄琢下の交差点を北へ紫竹通りを5分ほど行けば、正伝寺山門に至る。「お土居」とは、秀吉が京都洛中を防御するために造った広大な堤である。市内には数か所その形跡が窺えるところがあるが、この辺りが北限ではないかと思う。いずれ詳しく書こうと思う。「玄琢」とは、江戸時代初期の医師であり医学研究者の野間玄琢の居住地であった為についた地名だ。特に徳川家光の疱瘡を診察し治した事で有名になった。映画「柳生一族の陰謀」(主役萬屋錦之助)では、家光役の松方弘樹はあばた顔で演じていたのは印象的だった。「夢じゃ夢じゃ、夢でござる。」の萬屋錦之助の名セリフが記憶にある。やや脱線した。

話は、正伝寺であった。正伝護国禅寺という正式寺名を持つ格式の高い臨済宗寺院である。創建時は、烏丸今出川にあったがすぐ現在地に移る。秀吉から家康の時代は塔頭も多く広大な敷地であったようだが、現在は山門から本堂へ500mほどの上り坂に往年の繁栄は感じない。建造物は一番奥の「鐘楼」と「本堂」までほとんどない。本堂直前の坂道はやや急だが、そこまではなだらかな上り坂を10分くらい歩く。見どころは、庭園と血天井だ。庭園は枯山水とは言え白砂とサツキで表わす「獅子の児渡しの庭」というこじんまりしたものである。7、5、3の刈込で河を母獅子が児を渡す故事を現わしているそうだ。以前、住職にその由来を詳しく聞こうとしたら、「喝!そんな小難しい事はどうでも良い。感じたままを感じるのだ・・・。」と一喝された。むしろはるか東方向に見える比叡山の山並みを借景にした風景を堪能したい。先日、雪模様の時に白銀の庭をしばらく眺めていたら、静寂の中、突然「喝!」本堂屋根から大量の雪が落ちてきて肝を冷やした。

血天井の説明は別項に譲る。こちらはなかなか生々しい。また襖絵は狩野山楽の作と言われ重要文化財だが、必見は「写経の観音様画像」である。本堂正面左の壁一面に慈悲深い観音様の画像が掲げてある。そして、前の机に虫メガネが置いてある。「何々?」と手に取って画像を見ると、描かれた線はすべてお経であった。米粒以下の小さい文字で延々と観音様が描かれていて、遠目には何の違和感もなく絵画のすばらしさに加え写経の根気には驚嘆しかない。先代か先々代かの御住職が描いたもののようだった。京都の寺院はこのような行く度に新たな発見があるものだ。

 

 

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