逆順でたどる平安京の天皇たち
98代 長慶天皇 現代になって認められた天皇
先帝 |
後村上天皇 |
次帝 |
後亀山天皇 |
生年~崩御 |
1343年?~1394年8月27日 |
在位 |
1368年頃~1383年頃 |
在位中年号 |
正平・建徳・文中・天授・弘和・ |
御所 |
住吉行宮・吉野行宮・天野行宮・栄山寺行宮 |
御陵 |
嵯峨東陵 |
父・母 |
父 後村上天皇 母 藤原氏 |
昨日のニュースで、今上陛下・妃殿下が沖縄に慰霊の旅に出られた、と聞いて思わず涙した。在位中の訪問はこれが最後と思われる。しかも、高齢であり、特に美智子妃殿下は頸椎のヘルニアが酷く激痛に悩んでおられるのである。日本人が、いつも皇室への敬意を無くさないのは、どんな時でも、天皇皇后両殿下が、日々国民の安寧のみ願っておられるのが分かるからである。
さて、長慶天皇である。何と、正式に98代天皇に認められたのは、大正の時代になってからだ。長く即位した形跡を認定されずにいたのだ。後醍醐天皇の直系の孫であることは間違いないのだが、吉野の山中で生まれ多くの人生を隠遁生活に終始した。
従って、御所はなくすべて「行宮」(行宮とは本来旅先・遠征先の天皇の行在所の事)となっている。また、即位の真偽についても、江戸時代に水戸光圀が「大日本史」の中で、即位を主張したが決まらず、結局明治以降の学者の判断まで待たねばならなかった。大正15年遂に、勅書をもって正式に98代長慶天皇として皇統に加わった。従って、在位中の業績や功績は何も残っていないが、次の後亀山天皇が南北朝統一に同意し、天龍寺に入った時、それに従わず終生吉野にいたと、伝わる。
正成の3男で相当な戦略家であったらしい。
即位後、すぐ南朝のシンボル的武将楠木正儀が、和平派に転じ北朝に降った。あろうことかその正儀を主将に北朝方の攻撃にあって、数少ない配下の武将70名以上が打ち取られ、天野行宮から吉野に還幸する羽目に陥ったり散々な目にあっている。
記録にはほとんど残っていない天皇だが、強靭な意志の強さがうかがえる。
あくまでも後醍醐天皇の遺言に従って、北朝に屈しなかったのである。
次回は、いよいよ南北朝動乱の中心人物、後村上天皇そして後醍醐天皇の登場へ
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