五、後鳥羽の君主意識 権威(地位)だけではなく自由(精神)もすべて上皇が与えるもの。
ここまででどうしても確認しておかねばならないのが、後鳥羽上皇の君主意識である。ここは、本郷和人氏『承久の乱』に分かり易く書いている。同書「第5章後鳥羽上皇の軍拡政策」の中で、後鳥羽と義時の国家観の違いを説明している。
まず、後鳥羽は、「伝統的な国家観」を持っていたとした。つまりすべての頂点に皇室がいて、貴族には政治、寺社には文化・宗教、武家には治安維持というように役割分担があり、それを「権門」といい、相互補完しながら最終的には天皇を支えるという事だ。一方、それらに対して大臣・将軍・僧正というように権威を与えるのが天皇であり、征夷大将軍もその例外ではない。それに対して、義時の国家観は「在地領主の為の政権を在地領主が支える。」独立した関東政権であり「東国国家論」とも言うべきものであった。相対立するようだが、その共存を考えたのが実朝だったのではないか。つまり東国支配に留まる鎌倉幕府が、朝廷の権威を最大限に利用し安定的に治め、地盤を固めることによっていずれは西国も支配下に治めて行くという目論見だ。その後、江戸時代になって「大政委任論」(天皇から政治運営の大権を委任されている。従って、幕末に「大政奉還」と言う概念に行きつく。)という考え方が出て来たが、それを先取りするような考え方だ。その為には、朝廷と対立するのではなく、幕府の強化のために皇族将軍を招いて、むしろ朝廷崇拝を一層高めるという政策だ。
北条義時
その為に実朝は、朝廷の忠実な近臣になろうとした。天皇⇨将軍⇨御家人という統治ラインを考えたのである。実朝が、初代頼朝の右大臣を越えて太政大臣にまで地位を挙げたのは、このような深い読みがあったと見るべきだ。幕府にとって「対立」には何のメリットもないのである。しかしそれは義時と後鳥羽では成り立たず、御家人たちからは、実朝は朝廷へ迎合したとしか見えなかったのだ。
さらに、後鳥羽の国家意識は、極端なものであった。三種の神器を欠いた即位であったことによるコンプレックスが終生付きまとった。従って、強い「復古主義」の実践者となった。延喜・天暦の醍醐天皇・村上天皇の時代に憧れた。それは、勅撰和歌集に「新古今和歌集」と命名したことに顕著に現れている。(古今和歌集は醍醐天皇の勅撰)従って、自らも朝廷儀式の勉学に励んだ。時には、公家衆にもきつく叱責したようだ。また、自由闊達を標ぼうするが、自由も闊達も後鳥羽が考え与えるものであって、部下である公家たちが天皇や上皇の権威を冒すような振舞いがあれば、「戯れと雖も、頗る恐れあり」(明月記)と叱責した。突然に激怒するようなこともあったようだ。権威(地位)だけではなく自由(精神)もすべて上皇が与えるもので個人の自由ではなかった。そのような神経質な対応は、いつの時代でも人望を得ることはない。そのような後鳥羽にとって、義時は「自由に振舞う不埒者」に見えたのだ。義時討伐の精神的背景はここにある。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます