アチャコちゃんの京都日誌

あちゃこが巡る京都の古刹巡礼

879 あちゃこの京都日誌  新シリーズ 新天皇の国紀 ㉒

2021-09-03 07:30:45 | 日記

 

その4 白河天皇の登場 「強い生命力が皇室の条件」

法金剛院と待賢門院と西行と | 芳村直樹のブログ待賢門院イメージ

藤原氏が考案した政権を牛耳る手法は、天皇の母方の祖父になることだった。天皇の父は天皇だから、后に自らの娘を送り込んで外祖父になる。しかし、それに対抗する手法があった。つまり天皇の実の父親、即ち上皇ならもっと力が発揮出来るはずだ。それが「院政」だ。天皇が早々に幼い息子に譲位し継続して権力を維持する。白河天皇の以前にも例はあるが、明確な意図を持って、しかも長期にわたったのが白河上皇が最初なので、歴史上「院政の開始」としている。現代でも社長が引退後も会長や相談役となって権力を維持することを、「院政だ」と言われる。決して良いことに使われない言葉だ。この後、天皇よりも上皇が力を持ち、複数の上皇がいると、最も力を持っている上皇を、「治天の君」というようになる。要は権力の分散だ。新たな闘争の始まりとなる。その根本を作ったのが白河上皇(天皇)だ。

わかりやすく解説】白河天皇が始めた院政の仕組み、そのメリットとは ...白河天皇イメージ

まずは、『神皇正統記』(北畠親房)から見て行くと、世の中には不満が募っていて、院政の開始についても批判的である。父の後三条天皇が、藤原道長、頼道時代の摂関家全盛期から政治の実権を取り戻したものの、後継天皇をないがしろにしたとして、神皇正統記では「世も末」と酷評している。そして最後に、57年間世の中を治め「治天の君」と呼ばれるようになる。77歳で崩御するまで、世の中を思うがままにしたとし、「すごろくのサイコロ、鴨川の水、そして比叡の僧兵」を自分の意の通りにならないものと嘆き、それ以外は自らの思い通りにしたと書かれている。

さて、白河天皇は、父後三条天皇の第一皇子で二十歳の時に、父の病いが重くなり即位したわけだが、後三条天皇在位中から、藤原摂関家の支配が弱体化しているのが幸いした。さて、白河天皇の「三大不如意」は、先ほども書いたが、「鴨の水、双六のサイコロ、比叡の山法師。」天皇の意の通りならないものと言う話だが、当時の鴨川は暴れ川で、しばしば氾濫し多くの死人を出した。天候はどうにもならない。また、サイコロは言うまでもなく確率の問題だ。どちらも何人も意のままにならない。一方比叡の山法師は、しばしば御輿を担いで朝廷に強訴に及んだ。白河天皇の最大の悩みの種だったのだ。実際、年表で確認すると白河天皇即位早々1073年の6月には『京都大洪水』の記載があり、2年後の6月にも同様の記載があり現在のような梅雨時のゲリラ豪雨があったものと思われる。また、強訴については毎年のように記載があり、1092年9月には延暦寺僧徒による訴えで高級公家が流罪になっている。また、比叡山と奈良興福寺の争いや、天台宗の寺門派と山門派の争いではしばしば京都洛中を戦場にする有様だった。このように、庶民の辛酸をよそに、白河上皇は皇室の一時代の政治体制を構築した。結果、しばらく親から子への継承が続く。しかし驚くべき事態が起こっていた。白河上皇は76歳まで生き、子の堀河天皇は早世し、そして孫の鳥羽天皇には早期の退位と曾孫の崇徳天皇の即位にまで口出ししている事だ。しかも崇徳天皇の実父は、白河上皇その人であるらしい事だ。記録には、鳥羽天皇が息子であるはずの崇徳に対し「叔父子」と呼んでいたことが書かれてあり、当時からうわさされていたようだ。お相手は待賢門院璋子(しょうし)で、鳥羽の皇后になる前に、白河上皇のもとで育てられた。そして孫の鳥羽に差し渡した後も関係を続け、崇徳を儲けた。とにかく皇位継承を担う天皇はアレがお強いのである。しかし現代では考えられない異常な家族関係の中であった。遺伝子を残すという事は大変だ。

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878 あちゃこの京都日誌  新シリーズ 新天皇の国紀 ㉑

2021-09-02 10:52:21 | 日記

その2 後三条天皇の登場 「院政の始まり」

後三条天皇の政治を覚える - 替え歌で覚える日本史

 壮年期になって満を持して登場した後三条天皇は、次世代を切り開くように次々と親政により政治の実績を積み上げた。代表的なものは、荘園整理令だ。藤原頼通の政権時代に急激に拡大した摂関家所属の荘園は、タックスヘブンの様相を呈していた。これは正に摂関家を外戚に持たない天皇にしかできない改革である。次は、焼失したままの大極殿の再建だった。三条天皇時代に内裏が焼けたことで、道長が天皇の徳の無さといじめたことは書いたが、当時はどの天皇の時代も、必ずと言って良いほど内裏が罹災した。徳の無さというより、落雷への知識不足であり、むしろ官僚貴族たちの管理面の甘さだった。後三条天皇は、大極殿の復活のみならず大規模に内裏全体の再建を命じた。その財政基盤を確立する為に、宣旨枡を制定し全国ばらばらだった枡を統一し徴税の安定を図った。荘園例とともに高度な判断力と摂関家から解放された政治権力の強さがうかがえる。当然、※大江匡房などの門閥に拘らない助言者を抜擢登用したことも大きい。

 さて、院政の始まりを後三条と見るか、次の白河天皇と見るかだが、そこには皇位継承の思惑が深く関わっていることは無視できない。そもそも摂関政治という天皇をないがしろにする政治形態に対して、院政というある種同じような政治形態を望む道理がない。後三条天皇の場合真相は、子の白河天皇の後に弟の実仁親王に継がせようと、早々に譲位しその後の継承を意図通りにしたかったようだ。白河天皇の中宮に摂関家出身者がいて、その中宮を白河が深く寵愛していたから、もしその間に子が出来たら将来また摂関政治の復活になるとの懸念だ。そこには、道長を祖父に持ちながら摂関家に反発する後三条の母の※陽明門院(禎子)が深く希望したと思われる。当時相当な高齢であったはずだが、並々ならぬ執念とも言える。結果、実仁親王の早世でそのことは実現せず、しかも白河天皇は父への反抗もあり子の輔仁(堀河天皇、母は藤原賢子)へと継承していく。このように皇位継承の経緯を見ると、後三条天皇母子の藤原摂関家への恨みは相当強いものであったことがうかがえる。一方、摂関家側も以前のような影響力を発揮する力もなくなっていたことは間違いいない。 従って、本格的院政の始まりは、やはり白河天皇の時代になるとされる。

 

※大江匡房 平安時代後期の公卿、儒学者、歌人。後三条天皇治世下では、天皇が進めた新政(延久の善政)の推進にあたって、ブレーン役の近臣として重要な役割を果たした。

※陽明門院(禎子内親王) その誕生時、祖父道長と父三条天皇の間がしっくりいかない最中のことであり、道長は男子でなく皇女の誕生に不機嫌であった。従って、その後禎子と摂関家の関係は悪化していく。

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878 あちゃこの京都日誌  新シリーズ 新天皇の国紀 ㉑

2021-09-02 10:52:21 | 日記

その2 後三条天皇の登場 「院政の始まり」

後三条天皇の政治を覚える - 替え歌で覚える日本史

 壮年期になって満を持して登場した後三条天皇は、次世代を切り開くように次々と親政により政治の実績を積み上げた。代表的なものは、荘園整理令だ。藤原頼通の政権時代に急激に拡大した摂関家所属の荘園は、タックスヘブンの様相を呈していた。これは正に摂関家を外戚に持たない天皇にしかできない改革である。次は、焼失したままの大極殿の再建だった。三条天皇時代に内裏が焼けたことで、道長が天皇の徳の無さといじめたことは書いたが、当時はどの天皇の時代も、必ずと言って良いほど内裏が罹災した。徳の無さというより、落雷への知識不足であり、むしろ官僚貴族たちの管理面の甘さだった。後三条天皇は、大極殿の復活のみならず大規模に内裏全体の再建を命じた。その財政基盤を確立する為に、宣旨枡を制定し全国ばらばらだった枡を統一し徴税の安定を図った。荘園例とともに高度な判断力と摂関家から解放された政治権力の強さがうかがえる。当然、※大江匡房などの門閥に拘らない助言者を抜擢登用したことも大きい。

 さて、院政の始まりを後三条と見るか、次の白河天皇と見るかだが、そこには皇位継承の思惑が深く関わっていることは無視できない。そもそも摂関政治という天皇をないがしろにする政治形態に対して、院政というある種同じような政治形態を望む道理がない。後三条天皇の場合真相は、子の白河天皇の後に弟の実仁親王に継がせようと、早々に譲位しその後の継承を意図通りにしたかったようだ。白河天皇の中宮に摂関家出身者がいて、その中宮を白河が深く寵愛していたから、もしその間に子が出来たら将来また摂関政治の復活になるとの懸念だ。そこには、道長を祖父に持ちながら摂関家に反発する後三条の母の※陽明門院(禎子)が深く希望したと思われる。当時相当な高齢であったはずだが、並々ならぬ執念とも言える。結果、実仁親王の早世でそのことは実現せず、しかも白河天皇は父への反抗もあり子の輔仁(堀河天皇、母は藤原賢子)へと継承していく。このように皇位継承の経緯を見ると、後三条天皇母子の藤原摂関家への恨みは相当強いものであったことがうかがえる。一方、摂関家側も以前のような影響力を発揮する力もなくなっていたことは間違いいない。 従って、本格的院政の始まりは、やはり白河天皇の時代になるとされる。

 

※大江匡房 平安時代後期の公卿、儒学者、歌人。後三条天皇治世下では、天皇が進めた新政(延久の善政)の推進にあたって、ブレーン役の近臣として重要な役割を果たした。

※陽明門院(禎子内親王) その誕生時、祖父道長と父三条天皇の間がしっくりいかない最中のことであり、道長は男子でなく皇女の誕生に不機嫌であった。従って、その後禎子と摂関家の関係は悪化していく。

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877 あちゃこの京都日誌  新シリーズ 新天皇の国紀 ⑳

2021-09-01 08:33:35 | 日記

71代後三条天皇~72代白河天皇 天皇の逆襲、院政を確立する

Ri︎︎︎︎︎︎︎︎ぉ на Твитеру: "左 一般の藤原道長 右 なにふぁむ ...

 その1  藤原摂関家全盛期へ

 

この節では、天皇家の政治復権を果たした親子を見て行く。前節で書いたように、光孝・宇多天皇親子の血統が本流となり皇位継承がなされたが、次代の醍醐天皇の母の藤原胤子以降、朱雀・村上・冷泉・円融・花山・一条・三条とすべて藤原摂関家の娘が天皇の母となる。そして、後一条・後朱雀天皇の母は有名な藤原道長の娘彰子で、後冷泉の母も道長の娘の嬉子でありここにおいて藤原全盛期を迎える。その次の天皇で今回取り上げる後三条天皇は、宇多天皇以来170年ぶりに母が藤原氏ではなく皇女(三条天皇の子)である。つまり、藤原氏を外戚としない天皇が登場したのである。

 しかし話はそう簡単ではない。藤原摂関家(北家)は前節で紹介した基経・忠平以降も数々の陰謀を仕掛けて道長・頼通親子の時代を迎えていた。この章の主役後三条天皇の祖父三条天皇には、皇后と中宮がいた。一人は道長の娘妍子(けんし)、もう一人は娍子(せいし)で別の藤原氏(大納言藤原済時)の娘で地位に優劣はない。ところが、娍子には男子が産まれるが、妍子には女子しかできなかった。そこで道長の強烈ないじめとも言える退位勧告が始まる。三条天皇の眼病も内裏の火災も天皇の徳の無さが理由だと主張する。自らの外祖父の地位を守る為、敦成(後一条天皇)への譲位を迫る。三条天皇は娍子所生の敦明親王をなんとか次期天皇にしようとする条件闘争に出る。すでに天皇と言えども藤原摂関家にはこの程度の抵抗しか出来ない状況になっていた。そのような中、再度内裏が火災で焼けるという三条天皇の権威の無さを象徴するような事態となった。遂に譲位を決意するが、次のその次は敦明親王で押し切ろうとする。しかし、新天皇である後一条天皇が9歳で、新東宮(皇太子)敦明はすでに23歳という際どい状況に変わりはなかった。結局、三条上皇は翌年崩御し、結果敦明は身の危険を感じてか自ら東宮の地位を放棄する。道長の嫌がらせが想像できる。ただ、彼を後一条院という天皇経験者並みの地位を与えて厚遇した。やはりその恨みと、三条上皇の死後の怨霊を恐れたと思われる。さらに、道長が摂政に就任しここに藤原全盛期が成立する。

 藤原全盛期は、その後、後朱雀・後冷泉と続き、永く我が世の春を謳歌すると見られたが、子の頼通には後継男子に恵まれず、男子誕生が晩年であったため自分の兄弟たちとの権力争いに苦しむ。後冷泉の後継に摂関家を母に持たない尊仁親王(後の後三条天皇)とする時もかなり抵抗するものの、自らの異母弟たちに阻止される。藤原氏恒例の内紛のお陰とさらに、後冷泉天皇に一人の皇子もいなかったこともあり、結局その後継者とて後三条天皇が誕生する。東宮にあること23年、即位時35歳という満を持しての即位である。あたかも新時代を担う運命を背負うような即位であった。

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