今、NHKの放送を見ながらブログを書いています。
原爆によって悲惨な目に遭った広島や長崎の人達のニュースを子供の時から毎年の様に見ます。
若い時にその被害の一部を広島や長崎に残された資料で見る事もありました。
写真や遺品に触れる事で色々な感情がこみ上げてきます。
しかし、そこから知る事が出来るのは、あくまでも表面的な事で、原爆によって一般の国民を大量に殺してしまう事が、いかにヒドイ事かを知るのは、かなり後の事でした。
一瞬で人の命と都市を破壊すれば・・・
その後に残るのは、スラム化した町と貧乏にあえぐ市民。
日本中が敗戦でひどい状態なので、国や他の地域からの助けは有りません。
現在なら、、、
被災地に自衛隊が行き、大型の機械と訓練された隊員たちの救助。
ボランティアによる助け。
他の地域・組織や国から資金も提供されます。
原子爆弾による被災地には人々が自力で生きて行くための協力者は存在しません。
そこに残っているのは死体と放射能だけ。
被爆から40年過ぎた1985年頃から長崎に行く機会が多くなり、その被爆の影響が未だに消えていない現実を知り驚きました。
その当時はまだ多くの被爆者がいました。
外観で被害に遭った人の苦しみや、放射能で被害に遭った人が受けている病気との戦いが続いているのです。
そういう人々が身近な所に存在しているのです。
原子爆弾どころか、戦争による影響もほとんど知らない自分にとり大きなショックでした。
その影響は人々の心や身体だけでなく、長崎と言う都市そのものにも大きく残っていました。
当時の私は土地に関わる仕事をしていたので、長崎に行くようになって数年後には、長崎でも幾つかの取引に関わったり、土地探しなどもしたのですが、中心地に近い土地でも、誰の所有地なのかハッキリしない土地が幾つもありました。
長崎に長く住む老人にその事を聞くと、被爆後に家を失った人々が指定された地域に集団で簡易な小屋を建てて暮らしたらしい。
その人達にも経済的な格差が有り、助けの有る者は出て行き。
仕事がある人はその土地を地主から買ったりしたらしい。
ですから、その指定された地域は虫食い状態になった。
それでも大きな地主も同じ被災者として協力は惜しまず、資金力の弱い人達には「毎月、いくらでも良いから」と、口約束で土地を売ったのです。
正式な売買契約書も無く、あるのは受け取りの証だけ。
40年も経てば、口約束をした人たちは亡くなり、次の世代になっているケースも多い。
現実の地価も全く違います。
40年も経てば所得も物価も上がり、全額を一度に支払える額ですが、元々の契約が怪しいので、それでは次の世代の地主は納得しない。
バブル景気に向かっている最中で、土地の価格は上がる一方の時代でしたから、地主の気持ちも解からないではない。
口約束はお互いに時間が経過すればするほど自分にとり都合の良い話に変化していき、その接点は遠ざかって妥協点を見つける事は難しい。
そういう地域は虫食い状態なので、車が通れるような道も有りませんし、所有者が明確でない為に公共の上下水道の開発も出来ていません。
そんな土地が長崎市の中心地に近い所に存在していました。
それから30年以上が過ぎている現在はどうなっているのでしょう・・・