しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
よかったら見てください。

朝の露 <主を喜ぶことは>

2021-02-09 | ネヘミヤ記

「さらに、彼は彼らに言った。『行って、ごちそうを食べ、甘いぶどう酒を飲みなさい。何も用意できなかった人には食べ物を贈りなさい。今日は、私たちの主にとって聖なる日である。悲しんではならない。主を喜ぶことは、あなたがたの力だからだ。』」(ネヘミヤ記8:10新改訳)

城壁は第六の月(エルル)に完成し、翌七月には伝統に従って仮庵の祭りが行われた。その様子が本章に記されている。人々は城壁内、水の門前にある広場に集まり、祭司であり学者でもあるエズラが律法を朗読して意味を解き明かすと、全会衆が泣いた。自分たちがいかに神の律法に違反し、罪を犯して来たかを悟ったからである。なんと感動的な光景であろう。この姿こそイスラエルが真に神の民として再出発するために必要であり、神のことばがその自覚をもたらしたのであった。人々は多くの患難と忍耐を経て、70年ぶりに聖地に帰還し、さらにこのときまでに同じほどの年月が経過していたと思われる。彼らはエズラとネヘミヤの指導により、みことばに導かれて神のみもとに心が帰ったのであった。本当の意味で聖地帰還が実現したといえよう。引き続いて喜びがわき起こった。「主を喜ぶことは、あなたがたの力だ」と指導者たちが勧めたからである。この一言は特に有名で、世々のキリスト者たちに信仰と勇気を与えて今日に及ぶ。◆イスラエル全会衆の前には高壇があり、そこに立った学士エズラが律法の書を朗読した。そして自分たちの罪深さを悟ったのであった。私たちキリスト者の前にも聖書があり、それは新約聖書と旧約聖書から成る。中心にはイエス・キリストと十字架が立っている。イスラエルの人々は泣いたが、私たちも泣く。それから大きな喜びに入れられるのだ。なぜなら、神のこひつじイエス・キリストが私たちの義、聖、あがないになってくださったことを聖霊の感動により、知ることができるからである。やがてイスラエルは世の終わりに、永遠の聖地・ナザレのイエスに「帰還」するであろう。大いなる涙と悔い改めをもって。

 


朝の露 <系図書き> 

2021-02-08 | ネヘミヤ記

「これらの人々は自分たちの系図書きを捜してみたが、見つからなかったので、彼らは祭司職を果たす資格がない者とされた。」(ネヘミヤ記7:64新改訳)

ユダヤ人は家系図をひじょうに大切にする民族で、この点が異邦人と大きく異なっている。バビロンに捕らわれて七十年、自分たちの生命さえ維持するのもやっとなのに、系図はどんなことがあっても離さず保存したのだった。主イエス・キリストがダビデの子孫として生まれ、メシア預言の成就であることも、系図が保存されていたからこそわかったことである。また黙示録をみれば、来るべき患難時代にイスラエル十二部族が重要な役割を果たすことが記されているが、これも部族や氏族の家系が保たれていなければ不可能である。▼これと比較すると、私たち異邦人はそれこそ十把ひとからげの存在で、系図もあいまい、彼らから軽んじられるのも無理はない。しかし私たちは系図をはるかに超えたイエス・キリストの救いにあずかった。なんと感謝な事実であろう。「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。この人々は、血によってではなく、肉の望むところでも人の意志によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。」(ヨハネ1:12,13同)▼初代教会にはキリスト者とユダヤ人のあいだに、系図についての論争があったのかもしれない。パウロはテモテに命じている。「私がマケドニアに行くときに言ったように、あなたはエペソにとどまり、ある人たちが違った教えを説いたり、果てしない作り話と系図に心を寄せたりしないように命じなさい。そのようなものは、論議を引き起こすだけで、神に委ねられた信仰の務めを実現させることにはなりません。」(Ⅰテモテ1:3,4同)

 


朝の露 <敵のたくらみ>

2021-02-04 | ネヘミヤ記

「私がメヘタブエルの子デラヤの子シェマヤの家に行ったところ、彼は引きこもっていた。そしてこう言った。『神の宮、神殿の中で会い、神殿の戸を閉じておこう。彼らがあなたを殺しにやって来るから。きっと夜分に殺しにやって来る。』」(ネヘミヤ記6:10新改訳) 

ネヘミヤは多くの敵に囲まれていたが、もっとも信頼してよいはずの祭司、預言者たちまで現地人と内通し、彼を陥れようと企んでいたのだから大変であった。▼シェマヤの勧めに従い、祭司でもないネヘミヤが、いのち惜しさに、もし神殿内に入ったら大きな罪を犯すことになる。そうなればユダヤ人のネヘミヤに対する信頼は一挙に崩れ去ることがあきらかであった。敵はそれをねらい、シェマヤを買収したうえ、さもネヘミヤの味方であるかのようにふるまわせ、彼を陥れようとしたわけである。▼この有様を見ると、主イエスに対し、あらゆる企みを設け、なんとかして罠にかけようとした祭司やパリサイ人、議員たちと良く似ていることにおどろかされる。御聖霊が主を守られたように、ネヘミヤも神から悟りと知恵を与えられ、この難局を通り抜けたのであった。▼現代の私たちキリスト者も状況は同じといってよい。主イエスは「いいですか。わたしは狼の中に羊を送り出すようにして、あなたがたを遣わします。ですから、蛇のように賢く、鳩のように素直でありなさい。人々には用心しなさい」(マタイ10:16、17同)と仰せられた。信仰生涯はある意味で、地雷原を行くのと同じである。そのとき唯一頼りになるのは聖書を通して私たちに語られる御霊の声であると知りたい。▼ペテロがヤッファに滞在していたとき(→使徒10章)、三人の使いが訪れ、カイサリアのコルネリウス家に来てほしいと願った。ユダヤ人が異邦人の家に行くことはあり得ないことであったから、ペテロはさぞ驚いたことであろう。どんな罠が待ち受けているかわからないのだから・・・。しかしそのとき、御霊が「ためらわずに彼らと一緒に行きなさい。わたしが彼らを遣わしたのです」(使徒10:20同)と言われた。そこでペテロは彼らといっしょに行き、その上、なんと異邦人の家に宿泊したのである。その結果、異邦人に聖霊が注がれ、それを目撃するという教会史上特筆すべきことが起きたのであった。▼だから私たちが細心の注意を払いつつも、御声に従い、大胆に勇気をもって行動するなら、神の栄光は暗黒の権威をうち破って現わされるにちがいない。

 


朝の露 <強い抗議の声>

2021-02-03 | ネヘミヤ記

「そのため、一日に牛一頭、選り抜きの羊六頭が料理され、私のためには何羽かの鳥が料理された。それに、十日ごとに、あらゆる種類のぶどう酒がたくさん用意された。それでも私は、この民に重い負担がかかっていたので、総督としての手当を要求しなかった。」(ネヘミヤ記5:18新改訳)

ネヘミヤはペルシャ王によってユダヤ総督の任命を受けて聖地に来たから、人々から手当をもらう権利があった。その上、地位から生じる種々の会合や接待の責任があり、そのための費用も捻出しなければならなかったのである。だが聖地で暮らす同胞の経済的困難、借金も払えずに畑を抵当に入れ、子どもたちも奴隷にされる状態を見た時、彼は総督手当を返上し、大集会を開いて互いに負債を帳消しとする約束をさせた。その苦労は大変なものであり、しかも一方では城壁再建工事を敵の脅迫下で進める必要があったから、神を仰ぐ信仰がなければとてもやっていけなかったはずだ。彼の戦いを見る時、神の国を建設する働きの尊さと、妨害する敵に向かう信仰のあり方を学ばずにはいられない。▼聖地に帰還した数万のユダヤ人たちが作る小さな共同体は敵意に満ちた異邦人に囲まれ、安閑としてはいられなかった。にもかかわらず、その中に比較的裕福な人々と貧しい人々の差ができ、金の貸し借りが起き、前者は後者を奴隷にするという事態が発生したのであった。猛獣に囲まれた羊たちが内部争いをしているようなもので、遠からず皆ほろぼされてしまう。まさに存続の危機だったから、ネヘミヤは命がけで立ち上がり、神の前に「負債を帳消しにする」よう訴え、それが認められたのであった。▼教会も内部争いをしていれば、決して無事ではすまない。虎視眈々と狙う悪魔がいることを忘れたら食い尽くされるだけである。だからこそ主は最後の夜、十二弟子たちに何度もお命じになった。互いに愛し合いなさい、これがわたしの与える命令であると・・・。山を移す信仰があっても、死人を生き返らせる賜物があっても、その他どんなすばらしい能力があっても(使徒パウロが言うごとく)、愛し合うことができない教会は無意味、無価値である。大きな信仰と力を求める前に、となりの兄弟に冷たい水を一杯与えることができる愛を私にください、と祈ろうではないか。

 


朝の露 <片手に武器、片手で工事>

2021-02-02 | ネヘミヤ記

「どこででも、角笛が鳴るのを聞いたら、私たちのところに集まって来なさい。私たちの神が私たちのために戦ってくださるのだ。」(ネヘミヤ記4:20新改訳)

城壁再建工事を中断させようと、アラブ人、アンモン人、アシュドデ人(たぶんペリシテ人)たちはユダヤ人攻撃の相談を始めた。▼そこでネヘミヤは同胞に臨戦態勢をとらせ、すべての人々が槍や剣を持ち、夜も昼も見張り人を立たせた。もちろん工事は続行され、人々は片手に槍を持ち、もう一方で仕事をしたのである。片時も緊張を解いてはならないわけで、この上なく困難をきわめた日々であった。すべての責任を負ったネヘミヤは「私たちの神が私たちのために戦ってくださるのだ」と言って一同を激励した。このことばは、かつてモーセやヨシュアが幾度も口にし、民を奮い立たせた有名なことばである。悪魔との戦いが激しければ激しいほど、上に立つ者の信仰が人々の生死を分ける。モーセ、ヨシュア、ダビデその他のリーダーが困難の嵐に耐え、神を仰いで立ち続けたからこそ、イスラエルは勝利したのであった。そしてここではネヘミヤがそれを引き継いだのである。▼21世紀の今、私たちが教会を建て上げる戦いもこれとそっくりではないだろうか。この世はあらゆる勢力をもって信仰をあざ笑う。万物の創造者、全世界の救い主イエス・キリストを一匹の蚤のごとくみなし、過小評価する。しかしキリスト者はそれにおびえてはならないし、恐れる必要もない。ネヘミヤが「彼らを恐れてはならない。大いなる恐るべき主を覚え、自分たちの兄弟、息子、娘、妻、また家のために戦いなさい」(ネヘミヤ記4:14同)と言ったとおりである。世界に氾濫するネット情報、不信仰から出たゴミ山にひとしいそれらをあさる鳥のようなことをやめ、聖書の活けることばと約束に目を留めよ。そうすれば私たちも、あの主イエスのように、嵐の湖上を平然と歩けるのだ。「これらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を得るためです。世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。」(ヨハネ16:33同)