「堅く信仰に立って、この悪魔に対抗しなさい。ご存じのように、世界中で、あなたがたの兄弟たちが同じ苦難を通ってきているのです。」(Ⅰペテロ5:9新改訳)
主イエスが荒野で四〇日断食された後、悪魔がやってきて誘惑した。最初は「石をパンに変えてみよ」、二回目は「神殿の屋根から身を投げよ」、三回目は「私を拝めば世界を与えよう」と・・。それに対し、主はご自分のことばで答えず、「・・・と書いてある」と、三度とも聖書のことば(申命記)を引いて誘惑を退けられた。これからわかるのは、堅く信仰に立つとは「堅くみことばに立つ」ことと同一だということ。▼パウロも「これらすべての上に、信仰の盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢をすべて消すことができます。救いのかぶとをかぶり、御霊の剣、すなわち神のことばを取りなさい」(エペソ6:16、17同)と述べている。悪魔が誘惑して来たとき、私たちは自分の言葉で答えず、神のおことばそのもので答えることが肝要である。▼エデンの園でエバが悪魔に誘惑されたとき、神のことばそのもの「その木から食べるとき、あなたは必ず死ぬ」(創世記2:17同)と答えていれば、魔手を逃れていたであろう。◆主は人となられたとき、神としてのあり方をお捨てになり、ご自分を空しくして(無にして)しもべの姿をとられた(ピリピ2:6,7)。しもべは、自分の独立した意志を持たない。というより自分の意志すべてを主人にささげ、明け渡し、主人の意志をわが意思とする。それがしもべの姿をとる、ということである。主は人として生きられた時、父の御心を自分のすべてとされた。だから荒野での誘惑のとき、ご自分のことばではなく、父の心つまり申命記のことばで答えられたのであった。◆それが人として、悪魔に勝利する唯一の道だからである。私たちもおなじで、父から離れた自分のことばを持つとき、敵に敗北し、奴隷となるしかない。あなたの心がみことばにまったく占領され、日々の歩みがみことばの具現化となるとき、それが「もはや我生くるにあらず、キリストわが内に生くるなり」になる。なぜならキリストは父のおことば(御心)で生きておられ、そのキリストがあなたのすべての生となり、文字通り、「父御子御霊の交わり」に入れられるからである。