しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
よかったら見てください。

朝の露 Ⅰペテロ5章 <堅く信仰に>

2020-02-14 | 1ペテロ書

ヒヤシンス

「堅く信仰に立って、この悪魔に対抗しなさい。ご存じのように、世界中で、あなたがたの兄弟たちが同じ苦難を通ってきているのです。」(Ⅰペテロ5:9新改訳)

主イエスが荒野で四〇日断食された後、悪魔がやってきて誘惑した。最初は「石をパンに変えてみよ」、二回目は「神殿の屋根から身を投げよ」、三回目は「私を拝めば世界を与えよう」と・・。それに対し、主はご自分のことばで答えず、「・・・と書いてある」と、三度とも聖書のことば(申命記)を引いて誘惑を退けられた。これからわかるのは、堅く信仰に立つとは「堅くみことばに立つ」ことと同一だということ。▼パウロも「これらすべての上に、信仰の盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢をすべて消すことができます。救いのかぶとをかぶり、御霊の剣、すなわち神のことばを取りなさい」(エペソ6:16、17同)と述べている。悪魔が誘惑して来たとき、私たちは自分の言葉で答えず、神のおことばそのもので答えることが肝要である。▼エデンの園でエバが悪魔に誘惑されたとき、神のことばそのもの「その木から食べるとき、あなたは必ず死ぬ」(創世記2:17同)と答えていれば、魔手を逃れていたであろう。◆主は人となられたとき、神としてのあり方をお捨てになり、ご自分を空しくして(無にして)しもべの姿をとられた(ピリピ2:6,7)。しもべは、自分の独立した意志を持たない。というより自分の意志すべてを主人にささげ、明け渡し、主人の意志をわが意思とする。それがしもべの姿をとる、ということである。主は人として生きられた時、父の御心を自分のすべてとされた。だから荒野での誘惑のとき、ご自分のことばではなく、父の心つまり申命記のことばで答えられたのであった。◆それが人として、悪魔に勝利する唯一の道だからである。私たちもおなじで、父から離れた自分のことばを持つとき、敵に敗北し、奴隷となるしかない。あなたの心がみことばにまったく占領され、日々の歩みがみことばの具現化となるとき、それが「もはや我生くるにあらず、キリストわが内に生くるなり」になる。なぜならキリストは父のおことば(御心)で生きておられ、そのキリストがあなたのすべての生となり、文字通り、「父御子御霊の交わり」に入れられるからである。

 

 


朝の露 Ⅰペテロ4章 <残された時を>

2020-02-08 | 1ペテロ書

赤ベゴニア

「それは、あなたがたが地上での残された時を、もはや人間の欲望にではなく、神のみこころに生きるようになるためです。」(Ⅰペテロ4:2新改訳)

使徒ペテロは本書で幾度も、人が地上に生きる期間の短さを強調する。たとえば「この世に寄留している時を、恐れつつ過ごしなさい」(1:17)と述べ、「あなたがたは旅人、寄留者なのですから」(2:11)とも言い、ここでは「地上での残された時」と、その短さを指摘する。▼そこで私たちも、今は万物の終わりが近づき、大牧者なるイエス・キリストが天から下って来られる再臨の時が、そこまで来ていることを心に留めるべきではないだろうか。残念にも多くの人々は、自分の人生がすでに残された時に入っているなどと夢にも考えておらず、未来永劫続くかのように錯覚している。悪魔が目の前に、欲望という木にたわわに下がっている果実を見せびらかし、世の終わりを見せないようにしているからにちがいない。「私は今、地上での残された時を過ごしているのだ」、心からそう考える人は幸いである。◆本章でペテロは「さばきが神の家から始まる時が来ている」(17)と述べているが、これは何を指すのであろう。まず私たちが思い浮かべるのは、主の終末預言にあることばである。主は、世の終わりには産みの苦しみといわれる苦難が襲い、とくに主の弟子たちは信仰のゆえに迫害を受けると言われた。「そのとき、人々はあなたがたを苦しみにあわせ、殺します。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての国の人々に憎まれます。」(マタイ24:9同)◆しかしこれは、ほんとうの意味で子羊の妻なる教会が生まれるための過程とみるべきであろう。心から主のみを慕い求めるキリスト者が産み出されることが神の御心なのだから。「あなたのほかに、天では私にだれがいるでしょう。地では私はだれをも望みません。」(詩篇73:25同)

 


朝の露 Ⅰペテロ3章 <無言のふるまい>

2020-02-07 | 1ペテロ書

紅梅

「同じように、妻たちよ、自分の夫に従いなさい。たとえ、みことばに従わない夫であっても、妻の無言のふるまいによって神のものとされるためです。」(Ⅰペテロ3:1新改訳)

目は口ほどにものを言い、とあるが、舌と目に続き、「無言のふるまい」は第三の言葉である。カインとアベルが神に供え物を持って来たとき、その立ち居振る舞いが自然に心の状態をあらわしたのであろう。「主はアベルとそのささげ物に目を留められた。しかし、カインとそのささげ物には目を留められなかった。」(創世記4:4,5同)▼夫婦で何年も起居を共にしていれば、相手の信仰がどのようなものか、自然にわかってくるであろう。心を尽くし、すべてを尽くして神を愛し、神に仕えているなら、未信者の夫(または妻)でも信仰の何たるかを悟り、神の大切さを理解するものである。▼心の敬虔さは、ちょうど花の芳香のように、黙っていても周囲に広がり伝わって行く。だからそれを何十年も嗅いでいる伴侶が理解しないはずはない。私たちは家族への証しという点で、もういちど信仰のあり方をふりかえってみたい。ところで、その香り高いふるまいによって、すべての時代を通してキリスト者を捉えて来たひとりは、なんといってもベタニアのマリアだと思う。おそらく彼女は主イエスが家に寄られるたびに、足もとに座って主のことばに(全身を耳にして)聞き入っていたにちがいない(ルカ10章)。主はその心のあり方をひじょうに喜ばれ、姉マルタが自分の手伝いをするよう求めたときもマリアを守られた。▼そのことがマリアを(他のだれも成し得なかった)香り高い行動にみちびいた。すなわち、マリアは「純粋で非常に高価なナルドの香油を1リトラ取って、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった」(ヨハネ12:3同)のである。主はあがないのそなえものとして、御自身を十字架にささげられる。私はその主の御愛をほめたたえるため、できるかぎりのことをしよう。今がそのときだ。こうして彼女は葬りの日を待っていられなくなり、愛の津波に押し出されるかのように、あるだけのナルド香油を主にお注ぎしたのであった。はたせるかな、マリアの後、主に香油を注ぐことができた女性はひとりもいなかったのである。▼最高級のナルド香油の芳香は簡単には消えない。ゴルゴタの十字架に向かわれた主は汗と血にまみれておられたが、その衣服とおからだから何とも言えぬ香りがあたりに漂ったのではないか。私はそう想像する。怒号、嘲笑、唾棄、怒り、ありとあらゆるののしりに満ちたドロローサの道、だが主からあたりに漂ったのはナルドの芳香であった。「あなたが初穂による穀物のささげ物を主に献げる場合には、火にあぶった穀粒、新穀のひき割り麦を、あなたの初穂による穀物のささげ物として献げなさい。あなたはその上に油を加え、その上に乳香を添える。これは穀物のささげ物である。祭司は、そのひき割り麦の一部とその油の一部、それにその乳香のすべてを覚えの分として焼いて煙にする。これは主への食物のささげ物である。」(レビ記2:14~16同)


朝の露 Ⅰペテロ2章 <あわれみを受けた>

2020-02-01 | 1ペテロ書

パンジー黄色

「あなたがたは以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、あわれみを受けたことがなかったのに、今はあわれみを受けています。」(Ⅰペテロ2:10新改訳)

ツァラアトに冒された人が、主のもとにひざまずいて懇願したとき「イエスは深くあわれみ、」手を伸ばして癒された(マルコ1:41)。また数千人の人々が三日間、主と共にいて食べる物もなかったとき、「われこの群衆をあわれむ」と言われ、七つのパンと少しの魚から奇蹟の食事を与えられた(マルコ15:32)。▼人となった神から流れ出たのは、「あわれみという大河」であり、旧約では秘められていた栄光であった。福音書だけで、あわれみという語が二〇回近く出て来る。十字架で死の苦しみを受けつつある中でさえ、御子から発光したのはまばゆいばかりのあわれみであった。「あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」(ルカ23:43同)とあるように。もし二千年続いている主のあわれみがなかったら、私たちに救いの機会はなく、永遠の闇だけが待ち受けていることはたしかだ。◆ペテロが異邦人キリスト者に「あなたがたはあわれみを受けた」というとき、決して見下して言っているのではない。彼は自分自身もあわれみを受けた器であることを、深く自覚していたのである。大祭司の庭で三度も主を否定したし、十字架のイエスから遠く離れた所に逃げて、近づかなかった。主の公生涯のあいだ、従っていたことはたしかだが、やることなすこと、みなトンチンカンなことばかりであった。肉性丸出しの行動しかしなかったペテロ、およそ十二弟子のリーダーとしてはふさわしくなかったペテロ、その彼をイエスは召し、すべてをゆるし、「わたしはこの岩の上に教会を建てる」と言われたのである。これこそ、彼への無限のあわれみでなくして何であろう。パウロしかり、すべての聖徒たちしかり、である。◆教会歴史中に聖徒、・・・の父、偉大な器などと呼ばれる人々がキラ星のように並んでいるが、ほんとうは皆「神のあわれみ」を受けた罪びとにすぎない。使徒中の使徒とたたえられるパウロでさえ、「私は罪人のかしらです」と告白しているのだ。いま、私たちお互いがもっとも必要としているのは、神の深いあわれみを自覚しながら生きることである。なぜなら、そこから謙遜、喜び、ゆるし、感謝、徳といわれるすべてのものが流れ出るからだ。「『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない』とはどういう意味か、行って学んで来なさい。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」(マタイ9:13同)

 


朝の露 Ⅰペテロ1章 <生ける望み>

2020-01-31 | 1ペテロ書

菜の花

「私たちの主イエス・キリストの父である神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせ、生ける望みを与えてくださいました。」(Ⅰペテロ1:3新改訳)

十字架に主が死なれてから三日目、ペテロたちは隠れ家にひっそりと閉じこもっていた。そこに突如、「平安があなたがたにあるように」とのお声が聞こえ、イエスが一同の真ん中に立たれたではないか(ヨハネ20:19)。まちがいなく死んだ方が、まちがいなくそこに立っておられる。▼復活を何度も予告されていたのに理解できなかった弟子たちは、はじめてそれが事実であったことを目の前で見たのであった。弟子たちが歓喜、狂気、陶酔、有頂天に満たされた(→詳訳ヨハネ20:20)のは当然であり、その場面を想像しただけで、私たちさえ喜びに満たされる。今や信仰者の復活は全教会の希望である。再臨の時、高らかに鳴り渡るラッパの響き、御使いの大号令、すべての墓が開かれ、聖徒たちが歓声とともに出て来る時がそこまで迫った、と私は信じる。◆バプテスマのヨハネは、「花嫁を迎えるのは花婿です。そばに立って花婿が語ることに耳を傾けている友人は、花婿の声を聞いて大いに喜びます。ですから、私もその喜びに満ちあふれています」(ヨハネ3:29同)と証しした。ヨハネは旧約最大と人物といわれるので、新約時代に救われ、新生し、御霊を宿したキリスト者(ほんとうに新生を体験した者)の幸いは想像を絶するものである。彼らは子羊の妻となるので、新しい世界の中心に置かれ、具体的には使徒ヨハネが示された新しい神の都・天のエルサレムとなる。旧約時代の信仰者たちは、自分もそのひとりになることをどんなに望み、願ったことであろう。しかし、それはかなわなかった。「私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとから、天から降って来るのを見た。」(黙示録21:2同)◆しかし今日、毎週礼拝にやって来る人たち、喜び輝いている顔は多くない。まもなく永遠の結婚式につらなる当事者なのに、どうしてはちきれんばかりの喜びと輝きがないのであろうか。