しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
よかったら見てください。

朝の露 Ⅰペテロ5章 <長老のひとり>

2017-08-11 | 1ペテロ書

丹波の山「そこで、私は、あなたがたのうちの長老たちに、同じく長老のひとり、キリストの苦難の証人、また、やがて現れる栄光にあずかる者として、お勧めします。」(Ⅰペテロ5:1新改訳)

ペテロは本書冒頭で、自分を使徒と呼んだが、ここでは「あなたがたと同じく、長老のひとり」と述べている。長老とは、今でいえば教会を指導する牧師を指す。▼すでに当時から牧師(長老)にもいろいろな人がいた。金儲けばかり考えて牧会する者、権力をふるって威張る者、羊(信徒)への愛からでなく、仕方なく務めに当たる者などである。そこでペテロは、群れの上に立つのでなく、模範となるのが牧者であり、再臨の主の御前に立つ日を意識しながら、心をこめて務めに当たりなさいと勧めたわけである。考えてみれば、羊(信徒)は牧師の私物ではない。「わたしの羊」とあるように、主イエスのものであり、ひとりひとりに主の所有印がついている、それを地上で託されたのが長老、すなわち牧師である。だから一匹一匹の羊が持っている、かけがえのない価値、払われている血潮の代価、それを畏れつつ意識するのが当然なのだ。しかもこの上なく大切しているご自身の羊を、主は牧師を信任してゆだねてくださったのである。その厳粛さ、牧会という務めの崇高さを日々強くおぼえなければ、とてもできない務め、それが牧師職にほかならない。▼そもそもペテロは三度、主を否んだあと、復活の主から、「わたしを愛しますか」と三度問われ、「わたしの羊を飼いなさい」と三度命じられた(ヨハネ21章)。つまり、彼ほど大牧者キリストの愛とゆるし、信任を体験した人はいなかったのである。▼ともあれ教会は神と兄弟への愛を失えば、死んだも同然だ。たとえ十字架が高くそびえていても。


朝の露 Ⅰペテロ4章 <キリストの名のために>

2017-08-05 | 1ペテロ書

谷川渓谷「もしキリストの名のために非難を受けるなら、あなたがたは幸いです。なぜなら、栄光の御霊、すなわち神の御霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです。」(Ⅰペテロ4:14新改訳)

わが国では、ほとんどの人々がキリスト教を表面的にとらえ、深く知ろうとしない。このような状況で、聖書を神のことばと信じ、きよい生き方を心がければ、さまざまな誤解や嘲笑を受ける可能性が大きい。ましてキリストの再臨と最後の審判、永遠の復活と不信仰者の滅びなどを真面目に証しすれば、正常な神経を持っているのかと疑われることもあるだろう。だから心ひそかに信仰を持ち、波風を立てず生きよう、と願うキリスト者が増えるのは当然かもしれない。▼だが初代教会も事情は同じだったのである。たとえばパウロがアテネで語った時、「死者の復活のことを聞くと、ある者たちはあざ笑い、ほかの者たちは、『このことについては、またいつか聞くことにしよう』と言った」(使徒17:32同)とある。私たちも、嘲笑や無視にひるまないで語り続けた使徒たちに続こう。万物の終わりが近づき、すべての人々が最後の審判の法廷に引き出される時が迫っているのだから。▼さばきの日は近づけり、さばきの日来たらば、正しき者と不義なる者は、ことごとく分かたれん。備えはいかにや、さばきの日のために、備えはいかにや人々よ(聖歌635)


朝の露 Ⅰペテロ3章 <神の右の座に>

2017-08-04 | 1ペテロ書

あやめ「キリストは天に上り、御使いたち、および、もろもろの権威と権力を従えて、神の右の座におられます。」(Ⅰペテロ3:22新改訳)

ペテロは、ただの想像からこのように言っているのではない。オリーブ山で多くの仲間たちといっしょに、栄光の中、天に昇って行かれる主イエスを実際に見たのであった。「主イエスは、彼らにこう話されて後、天に上げられて神の右の座に着かれた。そこで、彼らは出て行って、至る所で福音を宣べ伝えた。」(マルコ16:19,20同)▼さらに十日後降られた聖霊を受け、天地がひとつになったような霊的状態に置かれて宣教に従事した。その証拠に、彼はたびたび、「神の右に上げられたイエスが、御父から約束された聖霊を受けて、・・・この聖霊をお注ぎになったのです」(使徒2:33同)とか、「このイエスを君とし、救い主として、ご自身の右に上げられました」(同5:31同)と、さながら天の宝座を見ながら伝道しているかのように説教している。▼キリストの御昇天は作り話などでなく、事実起きたことであり、大祭司として神の右に着座しておられることも不動の事実である。すべての能力、権威、権力の支配者はこのイエス・キリストに握られていることを思うと、私たちは限りない喜びに満たされる。

 

 


朝の露 Ⅰペテロ2章 <尊い、生ける石>

2017-07-29 | 1ペテロ書

谷川渓谷「主のもとに来なさい。主は、人には捨てられたが、神の目には、選ばれた、尊い、生ける石です。」(Ⅰペテロ2:4新改訳)

およそ家の建築には、詳細な設計図とそれに則(のっと)って準備された部材が必要である。もし設計図に合わなければ、どんなに高価な材料で作られていても、役に立たないとして廃棄される。▼イエス・キリストはこの世の指導者(建築家)たちから、無用の長物として捨てられたが、そのゴミ捨て場こそゴルゴタの十字架だった。主はそれほど軽んじられ、疎まれ、憎まれたのだ。▼世には落伍者、無用者のレッテルを貼られている多くの人々が存在するが、主のみもとに来るなら、生きる価値を見出すことができる。ペテロが、「主のもとに来なさい」と勧めているのはその意味である。▼イエス・キリストがご支配される神の国と、罪に支配されたこの世では、人を測る物差しの目盛りが正反対であることに気づかなければならない。創造の神に失敗作や駄作などがあるだろうか。あらゆる人がまちがいなく傑作品として造られていることは、主のもとに来てこそ初めてわかるのである。▼ナチズムの指導者ヒトラーは、ゲルマン人が最優秀民族であり、他民族は劣れる民、なかでもユダヤ人は最下等の民族で、世界に存在する価値がないとした。彼は障害者も生きる意味を持たない、と断じたそうである。その結果がいかに悲惨であったかは歴史が物語っている。▼①生くる甲斐も無しと独(ひと)り定めたりし者を、死をも賭(と)して救いませる深きイエスの愛よ。③君の御手に支えられて道を歩むわれに、御名をほむる賛美(たたえ)歌の絶ゆるときはあらじ。折返十字架!十字架!そこに君は着きて死にたまえり、十字架!十字架!そこにわれの罪も共に死せり。(新聖歌111)


朝の露 Ⅰペテロ1章 <主のことばは、とこしえに>

2017-07-28 | 1ペテロ書

黄色い花「『人はみな草のようで、その栄えは、みな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。しかし、主のことばは、とこしえに変わることがない。』とあるからです。あなたがたに宣べ伝えられた福音のことばがこれです。」(Ⅰペテロ1:24,25新改訳)

人生は草花の一生のように短く、はかない。「花のいのちは短くて、苦しきことのみ多かりき」(林芙美子)。日本人はこの思想で死の事実も受け入れ、あきらめ(諦観)によって心の平安を得ようとする。当然、そこには一種の静けさのようなものはあるが、沸き立つ喜びがない。▼しかし福音はそうではない。はかない人間の中に神のことば、すなわちイエス・キリストが宿ることによって、人は死から救い出され、永遠に生きる者へ変えられる時代が始まった、と告げる。あの日、つまり十字架上で神の子と信じ仰ぐイエスが死に、墓に葬られたとき、主の弟子たちは何もかも終わった、と意気消沈した。その点では、今の日本人と変わらなかったのだ。▼そのイエスがよみがえり、目の前に現れた。それはどんな言葉を用いても表現できない驚きと喜びであった。むろん本書を記したペテロもそのひとりである。彼は実際に復活した主のおからだにさわってみた。骨と肉があり、血が流れ、あたたかい体温を感じたにちがいない。さらに目の前で魚を召しあがる様子も見た。それでいながら、閉じた部屋に自由に現れ、自由に消えるという事実も・・・。どんなことばでも説明しきれない、新しいいのちの世界、しかも夢ではない現実の世界、弟子たちはそれが確実に到来したことを体感したのだ。復活の驚きと喜び、これが福音の中心にある。「ですから、あなたがたは、心を引き締め、身を慎み、イエス・キリストの現れのときあなたがたにもたらされる恵みを、ひたすら待ち望みなさい。」(Ⅰペテロ1:13同)▼もし復活がイエス・キリストだけに終わるなら、嬉しいことにはちがいないが、喜びも半分であろう。そうではなく、主がふたたび現れるとき、キリスト者も主と同じ姿に復活する。これが驚天動地の希望、喜びなのである。イエス・キリストの現れのときあなたがたにもたらされる恵み、とペテロが言うのはそれだ。貴方や私は彼らから問われている。「兄弟よ、この希望と信仰をすべてとして生きているか?毎日、抑えきれない喜びに押し出されるようにして生きているか?」と・・・。