「そこで、私は、あなたがたのうちの長老たちに、同じく長老のひとり、キリストの苦難の証人、また、やがて現れる栄光にあずかる者として、お勧めします。」(Ⅰペテロ5:1新改訳)
ペテロは本書冒頭で、自分を使徒と呼んだが、ここでは「あなたがたと同じく、長老のひとり」と述べている。長老とは、今でいえば教会を指導する牧師を指す。▼すでに当時から牧師(長老)にもいろいろな人がいた。金儲けばかり考えて牧会する者、権力をふるって威張る者、羊(信徒)への愛からでなく、仕方なく務めに当たる者などである。そこでペテロは、群れの上に立つのでなく、模範となるのが牧者であり、再臨の主の御前に立つ日を意識しながら、心をこめて務めに当たりなさいと勧めたわけである。考えてみれば、羊(信徒)は牧師の私物ではない。「わたしの羊」とあるように、主イエスのものであり、ひとりひとりに主の所有印がついている、それを地上で託されたのが長老、すなわち牧師である。だから一匹一匹の羊が持っている、かけがえのない価値、払われている血潮の代価、それを畏れつつ意識するのが当然なのだ。しかもこの上なく大切しているご自身の羊を、主は牧師を信任してゆだねてくださったのである。その厳粛さ、牧会という務めの崇高さを日々強くおぼえなければ、とてもできない務め、それが牧師職にほかならない。▼そもそもペテロは三度、主を否んだあと、復活の主から、「わたしを愛しますか」と三度問われ、「わたしの羊を飼いなさい」と三度命じられた(ヨハネ21章)。つまり、彼ほど大牧者キリストの愛とゆるし、信任を体験した人はいなかったのである。▼ともあれ教会は神と兄弟への愛を失えば、死んだも同然だ。たとえ十字架が高くそびえていても。