しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
よかったら見てください。

朝の露 <永遠の契約>

2022-09-27 | イザヤ書
「まことに、わたしは主。公正を愛し、不法な略奪を憎む。わたしは真実をもって彼らのわざに報い、永遠の契約を彼らと結ぶ。」(イザヤ61:8新改訳)
イスラエルがイエス・キリストを主として受け入れた時、どんなに素晴らしい祝福にあずかるかを記したのが本章である。▼特に1、2節は主イエスがナザレの会堂で朗読された箇所で、人々に向かって「あなたがたが耳にしたとおり、今日、この聖書のことばが実現しました」(ルカ4:21同)と仰せられたのであった。町の人々はみなおどろき、この人は大工の息子なのになぜこんなことを言うのか、と言い合って主を信じなかったと記されている。だがやがてキリストが地上再臨されると、イスラエルは砕かれて回心し、心からメシアとして迎えるであろう。そのとき、永遠の契約が交わされ、彼らは祝福された祭司の民となる。▼霊的にいえば、この祝福はすでに回心したキリスト者に与えられていて、私たちは聖霊を受け、主の花嫁として栄冠をかぶらせられ、美しい宝玉で飾られている。福音は異邦人をかくも驚くべき救いに入れて下さった。



朝の露 <永遠の誇り>

2022-09-26 | イザヤ書
「あなたは捨てられ、憎まれて、通り過ぎる人もなかったが、わたしはあなたを永遠の誇り、代々の喜びに変える。」(イザヤ60:15新改訳)
ここはエルサレムがおどろくべき復興を遂げて、宝石のように輝くときが来るとの預言である。もちろんそれはキリストが地上再臨され、エルサレムに着座されると成就する。しかしイザヤの筆はさらに将来をも展望して、新天新地の都エルサレムの栄光をも描く。▼たとえば「国々はあなたの光のうちを歩み、王たちはあなたの輝きに照らされて歩む」(3)は「諸国の民は都の光によって歩み、地の王たちは自分たちの栄光を都に携えて来る。都の門は一日中決して閉じることがない。そこには夜がないからである。こうして人々は、諸国の民の栄光と誉れを都に携えて来ることになる」(黙示録21:24~26同)と明らかに同じ栄光を描写していることがわかる。この永遠の都エルサレムこそ、天地創造以前から神が計画されたもので、イエス・キリストの妻と呼ばれる都であり、新しい復活世界の中心である。今は福音によって、世界中からここに住む人々が集められ、整えられている時代であり、携挙がその完成となる。



朝の露 <復讐の衣を身に>

2022-09-22 | イザヤ書
「主は義をよろいのように着て、救いのかぶとを頭にかぶり、復讐(ふくしゅう)の衣を身にまとい、ねたみを外套(がいとう)として身をおおわれた。」(イザヤ59:17新改訳)
人類歴史の終わりに、神の復讐のときがある。黙示録を見れば、どんな人もその事実を否定できない。「地の王たち、高官たち、千人隊長たち、金持ちたち、力ある者たち、すべての奴隷と自由人が、洞穴(ほらあな)と山の岩間に身を隠した。そして、山々や岩に向かって言った。『私たちの上に崩れ落ちて、御座に着いておられる方の御顔と、子羊の御怒りから私たちを隠してくれ。神と子羊の御怒りの、大いなる日が来たからだ。だれがそれに耐えられよう。』」(黙示録6:15~17同)▼いまは、どんな罪人でも、十字架のあがないを信じれば救われるという福音時代だが、永遠に続くわけではなく、神の定めた終わりがある。神が絶対的に愛であると同時に、絶対的に義であることを思えば、契約違反に対する刑罰があるのは当然ではないだろうか。御怒りの大いなる日が来る前に、悔い改めて救いを受け入れることがどんなに大切か。「すべての人よ目をさませ」、と御霊はおおせられる。

罪の闇路にさ迷う者を 哀れと思し神は 
  御子を遣わし招きたまえり 疲れし者よ来たれ
世人の罪を身に負いたまい 十字架につきしイエスは 
  救い主なり 担い来たりし 重き汝が荷を下ろせ
主のみことばに 聞き従わば 永遠のいのちを得べし
  招きの声を聞かば ただちに行きて救いを受けよ
悲しき知らせ 他人事ならじ もろきは人のいのち
  されど救いを受けなば 永遠に生くるを得べし得べし
今ぞ、今ぞ 主の恵みの日は今ぞ 
  救いの時の過ぎ行かぬまに 来たり救いを受けよ
          <罪の闇路に 聖歌412 詞:中田重治 1909>

朝の露 <回復は速やかに>

2022-09-21 | イザヤ書
「そのとき、あなたの光が暁のように輝き出て、あなたの回復は速やかに起こる。あなたの義はあなたの前を進み、主の栄光があなたのしんがりとなる。」(イザヤ58:8新改訳)
そのときとは、イスラエルが心から神に従うようになった時のことで、主が地上に再臨されるとき起きるであろう。▼しかし旧約の王国時代、彼らの生き方は偽善以外のなにものでもなかったことを、イザヤはここでするどく指摘する。うやうやしく祈り、断食し、こうべを垂れて神の前に出ているが、日常生活はその反対ではないのか。弱い者たちをいじめ、飢えた人たちを見ても知らん顔、貧しくて、家も着る物も満足に持たない人たちを放っておき、老いた肉親がいるのに、なんだかんだと理由をつけて世話をしない。これを偽善と言わずしてなんと言おう。▼ユダ王国はすでにイザヤの時代に内部崩壊(ないぶほうかい)が始まっていたことがわかる。バビロン捕囚によって消えたのは必然であった。そして主イエス当時の社会もこれと同じだったから、ローマに滅ぼされた。悲しむべきことに、キリスト再臨のときまで、世界全体もこの状態をくり返していくだろう。

主がお話しになった「金持ちとラザロ」の話は私たちの心を打つ(ルカ16:19以下)。乞食ラザロは全身おできだらけ、犬どもが彼のおできをなめても追い払えず、衰弱しきって金持ちの門前に寝ていたが、なにも恵んでもらえず死んでしまった。皮肉にも相前後して金持ちも死んで、前者はパラダイスに連れて行ってもらったが、後者の金持ちは火の燃えるよみに落ちて行った。▼この話からわかるように、死後の世界に救いの機会はない。人間は地上に生きる間だけが、永遠の運命を決めることができるのである。「心をつくして神を愛すること」、「自分とおなじように隣人を愛すること」が、どれほど大切か、この話はそれを示している。人はこの二大命令を行わず、どんなに宗教に熱心だったとしても、その信仰は無意味である。ルカ16:19~31を熟読し、それに自分に生き方を重ね合わせてみたいと願う。


朝の露 <平安あれ>

2022-09-20 | イザヤ書
「わたしは唇の実を創造する者。平安あれ。遠くの者にも近くの者にも平安あれ。わたしは彼を癒やす。―主は言われる―。」(イザヤ57:19新改訳)
背き続けるイスラエルだが、神はなお憐み深く、「わたしはイスラエルを癒やす」と仰せられる。▼これはイエス・キリストの出現によって実現した。当時の宗教指導者たちはモーセ律法を教条的に解釈するだけで、なんの平安も与えることができず、逆に民衆をしばり苦しめていたが、そこに神の子が天のことばをもって現れたのである。たとえばマタイ五章からはじまる山上の垂訓を聞いた人々は、どんなにおどろき、慰められたことだろう。その豊かさはまさしく「神による唇の実」であり、いのちのことばそのものであった。主の口から出るおことばは、悩み苦しむ人々に心からの平安を与え、肉体の病さえ、ひとことばで治ってしまうものであった。▼人々はイエスを十字架につけたが、復活を止めることはできなかった。そしてよみがえられた主は「平安があなたがたにあるように」とお語りになったのである。神のことばは二千年後の今もなお、世界の人々を癒やし続けている。人が作った薬は、副作用があるが、主のおことばにはない。人が作った薬は高価だが、主のみことばはただである。キリスト者はどこまでも、神のおことばを伝えなければならない。