「また、主に連なって主に仕え、主の名を愛して、そのしもべとなった異国の民が、みな安息日を守ってこれを汚さず、わたしの契約を堅く保つなら、わたしの聖なる山に来させて、わたしの祈りの家で彼らを楽しませる。彼らの全焼のささげ物やいけにえは、わたしの祭壇の上で受け入れられる。なぜならわたしの家は、あらゆる民の祈りの家と呼ばれるからだ。」(イザヤ56:6,7新改訳)
旧約聖書はイエス・キリストによってすべての謎が解け、意味があきらかになる。ここもそうで、安息日を守るとは御霊により歩むこと、わたしの祈りの家とは、キリストを内に宿したキリスト者自身が「祈りの家」にされたという意味である。▼旧約時代なら聖なる山とはエルサレムを意味し、祭礼ごとにイスラエルの民が神殿に参詣して祈り喜んだことを指すが、私たちはいつでもどこでも、主の臨在のもとに聖なる喜びを享受(きょうじゅ)できる状態に入れられた。主がサマリヤの婦人に言われたとおりだ。「女の人よ、わたしを信じなさい。この山でもなく、エルサレムでもないところで、あなたがたが父を礼拝する時が来ます。救いはユダヤ人から出るのですから、わたしたちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。しかし、まことの礼拝者たちが、御霊と真理によって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はそのような人たちを、ご自分を礼拝する者として求めておられるのです。神は霊ですから、神を礼拝する人は、御霊と真理によって礼拝しなければなりません。」(ヨハネ4:21~24同)▼今は恵みのとき、救いに日と呼ばれるが、じつにすばらしい時代が到来しているのである。
そこで、異邦人として生まれ、父なる神を礼拝する民として召された私たちは、礼拝が自由にできるということを、心から大切にすべきである。荘厳なオルガンや大会堂、いたれりつくせりの場所において礼拝することはもちろん悪くはないが、それは主が共におられると言う事実に取って代わることはできない。▼サマリアのスカルと言う町、その町外れにあったヤコブの井戸、そこは何の変哲もない共同の水くみ場だった。だが、女性はそこで「わたしは在りて在る者」と言われた神に出会ったのである。彼女は生活を整え、何もかも最上の状態で貴婦人のように飾ってイエスに出会ったのではなかった。むしろ反対であった。零落し、失意と無力感の底にあったのでは?と想像する。▼が、一つだけハッキリしていることがあった。「渇きをおぼえていた」ことだ。人はそれを愛とか真理、その他の名称でよぶかもしれない。彼女自身の言葉でいえば「キリストと呼ばれるメシアにお会いしたい」という渇きであった。礼拝とは、このようなたましいの渇きをおぼえながら神を求める人間の姿勢を指すのだ。じつにそこが礼拝の場となる。なぜなら、そこにイエスはご自分のほうから近づかれるからである。私たちの集う教会が、毎週、スカルの井戸端のようになったとしたら、いかにすばらしいことだろう。