しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
よかったら見てください。

朝の露 <わたしの聖なる山>

2022-09-19 | イザヤ書
「また、主に連なって主に仕え、主の名を愛して、そのしもべとなった異国の民が、みな安息日を守ってこれを汚さず、わたしの契約を堅く保つなら、わたしの聖なる山に来させて、わたしの祈りの家で彼らを楽しませる。彼らの全焼のささげ物やいけにえは、わたしの祭壇の上で受け入れられる。なぜならわたしの家は、あらゆる民の祈りの家と呼ばれるからだ。」(イザヤ56:6,7新改訳)
旧約聖書はイエス・キリストによってすべての謎が解け、意味があきらかになる。ここもそうで、安息日を守るとは御霊により歩むこと、わたしの祈りの家とは、キリストを内に宿したキリスト者自身が「祈りの家」にされたという意味である。▼旧約時代なら聖なる山とはエルサレムを意味し、祭礼ごとにイスラエルの民が神殿に参詣して祈り喜んだことを指すが、私たちはいつでもどこでも、主の臨在のもとに聖なる喜びを享受(きょうじゅ)できる状態に入れられた。主がサマリヤの婦人に言われたとおりだ。「女の人よ、わたしを信じなさい。この山でもなく、エルサレムでもないところで、あなたがたが父を礼拝する時が来ます。救いはユダヤ人から出るのですから、わたしたちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。しかし、まことの礼拝者たちが、御霊と真理によって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はそのような人たちを、ご自分を礼拝する者として求めておられるのです。神は霊ですから、神を礼拝する人は、御霊と真理によって礼拝しなければなりません。」(ヨハネ4:21~24同)▼今は恵みのとき、救いに日と呼ばれるが、じつにすばらしい時代が到来しているのである。

そこで、異邦人として生まれ、父なる神を礼拝する民として召された私たちは、礼拝が自由にできるということを、心から大切にすべきである。荘厳なオルガンや大会堂、いたれりつくせりの場所において礼拝することはもちろん悪くはないが、それは主が共におられると言う事実に取って代わることはできない。▼サマリアのスカルと言う町、その町外れにあったヤコブの井戸、そこは何の変哲もない共同の水くみ場だった。だが、女性はそこで「わたしは在りて在る者」と言われた神に出会ったのである。彼女は生活を整え、何もかも最上の状態で貴婦人のように飾ってイエスに出会ったのではなかった。むしろ反対であった。零落し、失意と無力感の底にあったのでは?と想像する。▼が、一つだけハッキリしていることがあった。「渇きをおぼえていた」ことだ。人はそれを愛とか真理、その他の名称でよぶかもしれない。彼女自身の言葉でいえば「キリストと呼ばれるメシアにお会いしたい」という渇きであった。礼拝とは、このようなたましいの渇きをおぼえながら神を求める人間の姿勢を指すのだ。じつにそこが礼拝の場となる。なぜなら、そこにイエスはご自分のほうから近づかれるからである。私たちの集う教会が、毎週、スカルの井戸端のようになったとしたら、いかにすばらしいことだろう。



朝の露 <良いものを食べよ>

2022-09-15 | イザヤ書
なぜ、あなたがたは、食糧にもならないもののために金を払い、腹を満たさないもののために労するのか。わたしによく聞き従い、良いものを食べよ。そうすれば、あなたがたは脂肪で元気づく。」(イザヤ55:2新改訳)
イザヤ書を読んでいると、新約聖書を読んでいる気持ちになることがある。ここもそうで、主イエスが祭りの日に、神殿の庭に立ち、人々に呼びかける御声のようだ。イザヤ福音書と呼ぶ人がいるのもうなずける。「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」(マタイ11:28~30同)▼連日テレビやネットで流されるニュースや情報の洪水、わざわざ受信料を払ってそれを見ている私たち、そこには永遠にふさわしい価値ある情報が、どれだけあるというのだろうか。もしかすると、反対に、それらにより、知らず知らずのうちに私たちの心に意図的な思想や価値観が作られているのかもしれない。イザヤが食糧にもならず、飢えもいやされないものになぜ金を払うのか?と言うのが痛いほどよくわかる。▼イエス・キリストが語り、示されたいのちのことばは、まったく違う。そこには永遠のいのちがあふれ、私たちの心を喜びと満足で満たす天的生命が躍動している。どうしてそれがわからないのか。むだなことをやめ、わたしのところに駆けよって来なさい。イザヤの内におられた御聖霊が、今も全世界に呼びかけておられるのである。

告げよ主に 告げよ今 内にある悩みを み恵みに富める主は 聞き給わん親しく
告げよ主に 友にさえ 語り得ぬ事ども み恵みは深き海 飛び込みてきよまれ
試みを受けし主は 罪人の友なり 試むる者いずこ 仇よ とくしりぞけ
告げよ主に 告げよ今 慰めは主にあり 力あるみ手を伸べ 主は支えん汝が身を
   主のもとに降ろせ 汝が重き荷のすべてを 
   み恵みに富める主は 取り給わん 残らず
      <告げよ主に 新聖歌35 詞:Elisha A.Hoffman,1839-1929>

朝の露 <わたしは誓う>

2022-09-14 | イザヤ書
「これは、わたしにはノアの日のようだ。ノアの洪水が、再び地にやって来ることはないと、わたしは誓った。そのように、わたしはあなたを怒らず、あなたを責めないと、わたしは誓う。」(イザヤ54:9新改訳)
このみことばは、直接にはイスラエルに対する神の誓いをあらわす。この誓いにより、イスラエルはどんなに迫害され、世界に散らされても消滅しなかったのである。▼さらに彼らが民族として存続したことにより、神のことば・聖書が存在し続け、そこから御子イエスの出現、福音と異邦人の時代が展開し、ノアの子孫全体から救われる人々が起こされ、教会の完成と新世界の実現となっていくことがあきらかになった。つまり旧約に記されたイスラエルに向かう神の尽きない愛は、ひいてはノアの子孫全体へ向けられた祝福の預言でもあったことがわかる。▼パウロが叫んだのも当然であろう。「彼らは、福音に関して言えば、あなたがたのゆえに、神に敵対している者ですが、選びに関して言えば、父祖たちのゆえに、神に愛されている者です。神の賜物と召命は、取り消されることがないからです。あなたがたは、かつては神に不従順でしたが、今は彼らの不従順のゆえに、あわれみを受けています。それと同じように、彼らも今は、あなたがたの受けたあわれみのゆえに不従順になっていますが、それは、彼ら自身も今あわれみを受けるためです。神は、すべての人を不従順のうちに閉じ込めましたが、それはすべての人をあわれむためだったのです。ああ、神の知恵と知識の富は、なんと深いことでしょう。神のさばきはなんと知り尽くしがたく、神の道はなんと極めがたいことでしょう。」(ローマ11:28~33同)


朝の露 <彼は私たちの病を負い>

2022-09-13 | イザヤ書
「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。それなのに、私たちは思った。神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと。」(イザヤ53:4新改訳)
主イエスが十字架につけられた時、ゴルゴタの刑場に集まった人々と、そばを通る人たちはみな、この男は自分を神と称したため罰と苦しみを受けているのだと思い、口々にののしった。「通りすがりの人たちは、頭を振りながらイエスをののしって言った。『おい、神殿を壊して三日で建てる人よ。十字架から降りて来て、自分を救ってみろ。』同じように、祭司長たちも律法学者たちと一緒になって、代わる代わるイエスを嘲って言った。『他人は救ったが、自分は救えない。キリスト、イスラエルの王に、今、十字架から降りてもらおう。それを見たら信じよう。』また、十字架につけられていた者たちもイエスをののしった。」(マルコ15:29~32同)▼しかし御聖霊はその七百年以上前、彼が「私たちの病を負い、私たちの痛みを担った」からこそ苦しみを受けているのだと証ししておられたのである。ああ主は、十字架上で、両脇の死刑囚(強盗犯)からさえ軽蔑され、非難され、ののしられた。神の子はそこまで低いところにご自身を落とし給うた。▼人間の信仰的無知は今も変わらない。そもそも人は自分の力や能力で、キリストの受難が持つ意味を悟ることはできない。バプテスマのヨハネのように、神に目を開かれた者だけが、「見よ、世の罪を取り除く神の子羊」と告白することができるのであり(ヨハネ1:29同)、人の目を開くことができるお方は神の聖霊だけである。

生まれつきのままの人は誰でも、ソロモン王に見られるような繁栄と地上的な富には、この上なく敏感だ。金や銀、宝石などの物質には心がしびれ、よだれを流さんばかりに慕い求める。目の前に積まれた札束や豪華な物品には、われを忘れて夢中になる。▼しかしそんな生き方に疲れ、空しさだけが手に残ったとき、私たちははじめて「われにかえる」ことができる。そのようにして、渇きをおぼえながら主の所に来た人々だけが、「彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷が私たちを癒やしている」ことを聖霊によって悟るのである。▼上記の強盗犯のうちの一人は、苦しみの中で、死ぬ寸前に主イエスの苦しみが自分のそれと違うことに気づいた。そして、息も絶え絶えに願った。「イエス様、あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください」(ルカ23:42同)と。そのときイエスは、すぐ「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます」(43)と仰せられたのであった。この強盗犯は、たぶん、残された時間があと数分しかないとき、地球上の宝をすべて集めたよりはるかに尊く、無限の価値をもつ「救い」という宝をいただいたのである。


朝の露 <主がシオンに戻られる>

2022-09-12 | イザヤ書
「あなたの見張りの声がする。彼らは声を張り上げ、ともに喜び歌っている。彼らは、主がシオンに戻られるのを目の当たりにするからだ。」(イザヤ52:8新改訳)
この章はエルサレムの回復を預言しているが、その完成はイエスが地上再臨される時である。▼かつて主イエスはロバの子に乗り、群衆の歓呼に包まれてエルサレムに入城された。それに続く十字架、復活を経て、四〇日後にオリーブ山から昇天されたが、ふたりの御使いが「やがて主は必ずここに天から戻って来られる」と宣言したことが、使徒一章に記されている(→使徒1:11)。冒頭の聖句、「彼らは、主がシオンに戻られるのを目の当たりにする」とは、それを指している。▼その日、全世界は復活の栄光に輝く主イエス・キリストがはなよめを伴い、シオンの都に入場されるのを見るであろう。「主はすべての国々の目の前に聖なる御腕を現わし」とあるから、世界中の国々が驚きをもって入場を見守るにちがいない。かつてエルサレムに入城されたナザレのイエスは、大祭司やサンヒドリンの議員といった時の指導者層から憎まれ、ゴルゴタの死に追いやられた。朱に染んだ悲惨な十字架の姿、布にくるまれて墓に入れられたイエス、その同じ御方が栄光と御稜威に輝き、世界の王としてエルサレムにお入りになる。しかしその手には傷があり、脇腹にも傷がある。世界はおどろきのあまり、口をつぐんでしまうであろう(イザヤ52:15)。廃墟となっていたエルサレムが回復するのもその時である。▼「門よ おまえたちの頭を上げよ。永遠の戸よ 上がれ。栄光の王が入って来られる。栄光の王とは だれか。強く 力ある主。戦いに力ある主。門よ おまえたちの頭を上げよ。永遠の戸よ 上がれ。栄光の王が入って来られる。栄光の王 それはだれか。万軍の主 この方こそ栄光の王。」(詩篇24:7~10同)▼その日、喜びに満ちた御使いたちの叫びは全天全地にひびきわたる。