しはん(わたくし)は「師範」だけど、勝手にそう名乗ってるわけじゃなく、正統な資格なんだよ。
わがメソッド(やり方)は実際に本になって世に出てるんで、わがはいはいわばその家元なんである。
そのメソッドは、世にある陶芸の基本技術をごっちゃに煮詰め、独自の物理学理論と言語表現とで磨き上げたもの。
教室では、そんな超理論的な説明による指導を受けることになる。
しはんの口語による説明には、オリジナルな表現が用いられる。
科学的で、ある意味文学的で、それは陶芸の歴史上、誰も用いなかった(どの本にも書かれなかった)レトリック。
なにしろ、しはんは物書きでもあるんで、ここは凝る。
とはいえ、難しい説明ってわけでもない。
「論理的である」とは、「専門的で難解である」ってことじゃなく、「細部をわかりやすく噛み砕いて体系立てられてる」ってことなんだから。
例えば昭和のナガシマさんあたりは、「ぎゅっとつかんでにゅっと伸ばす」なんて指導をするんだろうけど、令和におけるしはんの説明は、「指先の一点に圧を集中させ、土の伸び分を望む方向に運ぶ」なんて表現になる。
こんな言い回しが、果たして子供に通用するのか?というと、実は小1でもこれだけでうまくできてしまうんだ。
とにかく、誰も失敗しなくなる。
なにしろ、子供にがっかりさせたことがない。
「ぎゅっとにゅっと伸ばす」派の子は、自由でなんだかおもしろがってる感じに見えるけど、その心情はどうかな。
彼らは別に奔放で破天荒な作品をつくろうとしてるわけじゃなく、やり方がわからなくてそうなっちゃうんだ。
だけど科学的な説明さえ与えてやれば、どんな小さな子でも、土をコントロールできるようになる。
彼らはかしこい。
ただ、経験が足りないだけなんだ。
だから、土の扱いよりも、肉体の使い方を考えさせてやればいいんだ。
指の働きかけと、それに対する土の反応。
ここには純粋に物理的なつながりがある。
彼女たちはカンがいいから、すぐにそのことを学び、自分の指の動きと、つくってる形との相関関係を、感覚にフィードバックしはじめる。
これだけで、その日は成功だ。
大人たちには、もっと実践的な伝え方をする。
例えば、うちでろくろを回す連中は、ほぼ全員がハイドロプレーニング現象を理解してる(その語句に聞き覚えがなくても、現象の仕組みは心得てる)。
「内側からの働きかけは広さに関係し、外側のブレーキが高さ方向に力を誘導する」と言われても、一般人にはよくわからないだろう。
が、ろくろをやってる者には、一発で理解が行き届くはずだ。
そこに難しさはなく、わかりやすく解体された法則があるだけ。
そこさえ押さえれば、すぐに上達できる。
この教室における「できるようになる」は、「構造理解が進む」を意味してるんで、みんなすさまじい勢いでステージを駆け上がっていく。
そして、知的になる。
本質的な意味で陶芸を理解すると、作品世界の幅広い展開に応用がきくようになり、つまり創造的になっていく。
彼女たちをその境地にまで導きさえすれば、しはんはラクができる。
なので結果、しはんは余計なレクチャーよりも、お茶汲みばかりをしてるんである(あるレベルから先に達すると、ひとは先生を必要としなくなる)。
しはんのやることがなくなる一方で、生徒たちはますます自分の世界観創出にのめり込んでいく。
いよいよしはんには、掃除しかすることがなくなるわけだ。
こうして、創作活動の放牧場が出来上がる。
放し飼い〜。
つか、みんなしはんの話を聞け〜。
新人さんよ、こい〜。
しはんにレクチャーをさせろ〜。
東京都練馬区・陶芸教室/森魚工房 in 大泉学園
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