安い税金と小さな政府を切望するふきあえずのブログ

安全で暮らしやすい日本をつくりたい
そんな想いを綴っていくブログにしたいと思います

神道の寄進や浄財は基本的に商売の理論の延長でしかない

2023-03-11 01:50:17 | 日記
新宗教に対する寄付やお布施を勘違いしている人がとても多いのに驚きます

四国八十八か所には、昔から「お接待」という風習があります
「お接待」とは、四国八十八か所を回るお遍路さんに、一夜の宿をお貸ししたり、お茶やお菓子、ご飯などの賄いをすることです
随分廃れたとはいえ、こうした、心温まる昔ながらの風習が、いまだに四国では見られます
ところが。。。弘法大師空海をこよなく敬愛し、信仰している私の知り合いの方がいるのですが
その方が「お接待」の本当の意味を知らなかったのに驚いた経験があります
その方が、お接待を素晴らしい風習だとして弘法大師をほめちぎるのですが、実はその意味を理解していなかったのです

「お接待」とは、実は「布施行」なのです
それも、「在家の仏教徒(優婆塞うばそく:出家していない仏教徒のこと)の仏道修業」そのものなのです
昔、お釈迦様の時代に、お釈迦様は弟子たちにこう教えていました
「お前たちは乞食ではない、だから布施を受けるときは毅然として受けなさい、お前たちは在家の者たちに布施の尊さを教えているのである」
釈迦教団の出家者たちは、心の修業をする人びとでした
ですから、厳しい心の修業をしており、在家の人々に、心の大切さを説く仕事をしていました
そういう尊い修行者に対して布施をすることは、これは在家の人々にとって、「心の修業」つまり
「尊いものに自らの収入の一部を分け与える。。。布施する」という仏道行為だったのです
つまり、「何が一番尊い事なのか?」を教えるために、布施行というものがあったのです
在家の人たちは修行者や釈迦にお布施をするが、お釈迦さまが在家の人々に与えるのは、実は「心の教え」そのものでした
お釈迦様は、「心の教え」こそが本当に尊いものであり、それを伝える僧侶たちに供物を布施することは尊い事である、と教えていたのです
この前提をよく覚えておいてください。。。仏道修行の「布施行」とは商売じゃないんです
「お金を払って品物を買う」。「お金を払ってこの世的な利益を得る」というものではないのです

そしてももう一つ、仏道修行の布施行には、重要な修行徳目がありました、それが「三輪清浄(さんりんしょうじょう)」です
三輪とは「施者」、「受者」、「施物」の三つを言います
つまり、布施を出す者の心、布施を受け取る者の心、布施そのもの、この三つに穢れがあってはいけなかったのです
布施を出す者が盗みを行っていたり、人をだましていたり、布施を出しても見返りを求めていたりすると、清浄ではないとされます
布施を受ける人の場合も施者と同じ、心に穢れがあってはダメなのです
そして、施物。。。つまり、人を騙して得たお金だとか、人を殺して得たお金だとか、そういうものは布施として認められません
こうしたことが、釈迦教団では重要な布施の徳目としてありました

また、仏教には「心の教え」がありましたが、なぜ「心の教え」が尊いとされていたのでしょうか?
それはつまり、仏教には霊的な世界観の教えがあったからだ、と言っておきたいと思います
人間は偶然にできたタンパク質の塊じゃない。。。人間の本質は魂であり、本来は霊である
だから、人間の死後、どのような世界に帰ることになるか?は非常に重要なことだったわけです
仏教は「善因善果、悪因悪果」を教えました
心と行いが良ければ良い世界(天界)に帰り、悪ければ悪い世界、つまり地獄に帰ることになる。。。
世界宗教となった宗教には、いずれも生前の生き方に応じて死後の世界の善悪が分かれる、という教えがありました
それが世界宗教の普遍性であり、世界基準なのです

そしてここからが本題ですが。。。これを日本神道に当てはめたらどうなるでしょうか?
実は、神道には死後の世界があるようでないのです
実際、神道の神主さんなどに、「死後の世界」について聞いても、ほとんどの人が「分からない」と答えます
それはそうです。。。神道では、あの世の世界ですら曖昧な世界であり、天国地獄があるのかさえも、教えの中に存在しないのです
つまり、「善因善果、悪因悪果」がはっきりしないのです
恨みつらみをもって死に、死後に怨霊になっても、「あんたは神様だ」と言って祀り上げてしまいます
怨霊をなぜ神様扱いするか?それは、「生きた人に祟りが来ないようにするため」です
つまり、この世に生きている人が安泰に暮らすために、怨霊を神様として祀り上げるわけです
だから、「怨霊が地獄に落ちて悪魔になってる」なんてことを言い出しては困るわけです(笑)
でも、実際には怨霊になった人は地獄に落ちているでしょう。。。
そして、地獄に落ちた人を神様に祀り上げる人などいないでしょう。。自分も地獄に引きずり込まれては困りますのでね

神道の寄進や浄財についても同じことが言えます
神道の寄進は、「あの世」もなければ「天国・地獄」の区別もないので、寄進や浄財を投げ入れるのは何のためかというと
基本的に「現世利益のため」という事になります
「結婚」「出世」「金儲け・商売繁盛」「家内安全」「厄除け」
こうしたことです
神社では、たまに社殿を建て替えるための寄進などもありますが、これもまた、成仏を願うためというよりも、商売繁盛のためなどでしょう
つまり、心の教えを広げたり、来世の幸福を祈ったりするためではないわけです
基本的に神道の寄付行為はギブ&テイク、つまり、商売と同じ理論という事になります。。。身もふたもない言い方ですけどね
「お金を出すからおかげ(現世利益)を頂戴ね」というわけです
しかも、お願いする相手が怨霊だったり妖怪だったりするわけですね(笑)

まあこうしたことが本日の結論です
異論がある方もいらっしゃるでしょうが、基本的に日本人が「布施の精神」を誤解しているのも
神道の現世利益を求める祈り方や礼拝に根本的な原因があるような気もします

それでは、長くなりますのでこのへんで
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日本神道の本質は半唯物論的ご利益信仰?

2023-03-08 00:16:58 | 日記
詳細は申せませんが、私は仕事柄、高齢者とのお付き合いがとても多い人間です
ですので、個人的お付き合いのある高齢者もとても多いわけですが、その限られた人間関係の中でも、「信仰」を持つ方はとても多く
その「信仰」が原因と思われる、「霊障」がとても多いことに驚くことがあります

特に多いのが、「お札」と称するものを持っている高齢者ですね。。ヘビの絵が描かれたものや
我々には意味不明な梵字が書かれたような「お札」など、諸々ですね
梵字などは、修験道の開祖の役行者(えんのぎょうじゃ)が、優婆塞(得度していない在家の仏教徒)でもあったことから
神道系の修験道の「お札」などが、そういう梵字で書かれてるものも沢山ありますし
それから、稲荷信仰や犬神信仰や大蛇信仰のお札やお守り、掛け軸などですね。。。こうしたものも案外多いようです
私が見るに、信仰深くてお札や掛け軸などを沢山持っている人に、重度の霊障になっている人が多く見受けられる傾向があります
これはまあ「触らぬ神に祟りなし」とよく言いますけれども、その「神」に触ってしまったわけです

そういう、信仰深くて、かつ霊障になっている人に多いのが、アニミズム系の「ご利益信仰」ですね。。。これは明らかだと思います
私がよく話題に出す高齢者女性Aさんも、以前は滝つぼに祀られている竜神信仰の熱心な信仰をお持ちでした
そのAさんが数年前、私に助けを求めてきたときに、私に切々と語った言葉が
「こんなに長年まじめに信仰を続けてきたのに、いまさら何でこんな思いをして苦しめられなければならないのでしょうか?」
ということでした。。。そう、つまり、信仰を長く熱心に続ければ続けるほど霊障は酷くなり、抜き差しならないものになるのです
こうした信仰に共通しているのが、だいたい「ご利益系の信仰」なのです
Aさんも、最初は軽い気持ちで信仰に入ったようですが、人生の折々において、「信仰のご利益を得た」という事で
このご利益信仰から離れられなくなったようです

こういうご利益信仰にどっぷりつかった方の傾向として、「この世の出世やお金などが得られれば信仰する」という傾向が強いのです
要するに、物欲が強い傾向があるのです。。。出世欲や名誉欲なども同じです
ですから、非常にこの世的で唯物論的傾向が強いのが特徴です
この手の信仰をお持ちの方は、傾向としては「神頼み」で、利益や出世、名誉を求める傾向があります
何かが上手くいかなかったときには、「信仰心が足りなかった」と考える傾向もあります
つまり、S学会系の信仰も同じですが、「上手くいかない人は信心が足りない」と考える傾向があり、ますます信仰にのめり込みます
私が見ている限り、そこには「微妙なすり替え」があるように思うのです

つまり、「上手くいかないのは自分の努力精進が足りないから」と考えるのが、まっとうな人の考え方ですが
ご利益型の信仰をお持ちの方はどちらかというと、「自分の努力不足や考え方の間違い」を反省する傾向が少ないのです
これが、「信仰しても救われない」人の傾向性ですが、長年熱心に信仰を続けていると
「こんなに信仰深いのに、何で私は救われないのか?」と、本当に意味が分からなくなってしまうようなのです
私は最近、弘法大師空海への熱心な信仰を持っていたある男性が、死後迷ってお孫さんに「供養しろ」と何度も言ってくるのを真の当たりにして
「信仰が、ご利益を求める事が中心の信仰になると、自分の生き方の間違いに気がつかなくなる」という事に気づきました
そうです、弘法大師への信仰であっても、弘法大師に「ご利益」を求めるだけの信仰では、死後救われないのです

もちろん、神社への参拝を悪いことだとは私は思わないんですが
神道は、基本的にご利益型の信仰がとても多いのです。。。
信仰形式も「学業成就にご利益がある」とか「結婚や縁結びにご利益がある」、「お金儲けにご利益がある」などです
本来、信仰にはそのような現世利益ばかりを求めるべきではなく、ちゃんと、来世の幸福も約束されるべきだと私は思います
神道の根本的な欠点として、私は「神道の世界観には天国も地獄も存在せず、この世しかない」ということをあげておきたいと思います
不十分ながら、キリスト教には「来世の幸福」や「天国に帰るための思想」がありましたし
最近のご利益型で唯物論的な仏教ではなく、原始仏教にはもっとカッチリとした「来世の幸福」のための思想がありました
ここは、最近のアニミズム傾向を強める、最近の神社ブーム、パワースポット巡りブームに警鐘を鳴らしておきたいと思います
「触らぬ神に祟りなし」なんですよ皆さん。。。現世利益を求めてパワースポット巡りばかりしていると
余計なおまけまでくっついてきて、あとで取り返しがつかないことになる。。。やもしれません

今日は長くなるのでここまでとします
いつも私のつたない日記をご覧いただき、誠にありがとうございます

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信仰と霊力

2023-03-04 11:57:24 | 日記
以前、とある高齢女性の霊障問題の相談にのっていた時のことですが、随分強い悪霊に、私自身も狙われたことがあります
高齢者の方に多い病気の症状で「パーキンソン病」というのがあり、手足の震えが止まらず、マヒが起こったりする症状がありますが
全部だと言うつもりはないのですが、これは私の感想から言うと「憑依」である可能性が高いと思っています
その高齢女性もパーキンソン病が出ていたのですが、他にも色々と「霊障」と思われる症状があり
こちらは別に霊障問題の相談にのるつもりは全くなかったのですけれども、仕事ではなく成り行きで、色々と話を聞くことになりました

その時に分かったこととして、主に問題は二つあり
一つは、その方が若いころから長らく、とある「水神様」を信仰していた、ということ
二つ目は、その方の家は古井戸を埋めて建てた家で、屋敷に「○○○○大権現」と名乗る屋敷神が住み着いていたこと
この二つ目については、別の霊能者に見てもらったところ、「払うことはできない」と言われて、「お祀りするしかない」と言われていたようです
事の真相は分かりませんが、除霊など素人の私には、普通に考えて手が出せる代物ではないと考えるのが普通でしょう
本当に、私はこうした霊ものを扱うのは素人なのです
ですから、当然お金を頂くつもりもなければ、今後も仕事として除霊をするつもりも全くありません、それは前提です

一つ目の問題ですが、実は別の霊能者が言うには、「水神様を祀っていた教祖女性が亡くなってから非常に悪い状況にある」そうで
当然のことながら「教祖として間違った信仰を立て、信者を間違って導いてしまった」ことから、死後は無間地獄行きになっていると推測されます
前述の書籍「妖怪にならないための言葉」などによると、水神とは、その正体はヘビの霊であることがほとんどらしく
高齢女性の体が徐々に不自由になり、お祀りもままならなくなったことから、色々な霊障を起こし始めたようなのです
今の私には分かるのですが、こうした「教祖」をやって、多くの信者を抱えると、「教えを間違えました」では済まないらしく
当然ながら、多くの人の心を惑わせた罪によって、その人は長らく地獄の最深部に行くことになります
なので、当然普通の悪霊のように「説得して何とかなる」レベルの問題ではなく
成仏させることは諦めて、憑依している者から遠ざける以外にないわけです
ところがですね。。。これが滅茶苦茶念力が強いんですよね。。。私もその高齢女性と関わっている1、2カ月は
ずっと心臓に針を刺されたような痛みが続き、「これはいずれ心筋梗塞を起こすかもしれない」と本気で自分の体を心配しました
高齢女性の方も、もう10日以上、心臓を掴まれるような痛みが続き、全身をグルグル巻かれるような苦しさの中で耐え抜きました

結局、どうしたかと言うと、その女性教祖からもらった掛け軸やお守りなど、ありとあらゆるものを「私が」処分して
何度も何度も悪霊払いを行って、その上で高齢女性に家から出て高齢者施設入りしてもらって、1年以上かけてやっと最終解決しました
屋敷神である○○○○大権現様も、お祓いをして、一時的には出て行っていただきました。。。今はどうなっているかは分かりませんが(笑)
高齢女性が最終的に助かった理由はですね、私は実は一点しかないと思っています
その理由はですね、私は彼女にこう言わせたんですよ
「私はこれまでの信仰を一切捨て去ります」
「私はこれから、仏・法・僧の三宝に帰依します」

私がこの話で何が言いたいかと言いますとね
実は、「霊力と信仰は切っても切れない関係がある」ということなんです
別の霊能者からは、「障りを起こされないように、ご機嫌を損ねないようにお祀りするしかない」と言われたそうですが
実は、こういう「悪霊」をお祀りすると、彼ら悪霊の霊力はますます強くなるんです
日本神道おいては、「怨霊もまた神なり」で、菅原道真や崇徳上皇といった、代表的な怨霊までお祀りしておりますが
これが、「日本神道が妖怪化している」原因なのではないかと私は思うのです
要するに、仏教のように「善悪を分けて死者に生前の生き方を反省させ、引導を渡す」という正当な成仏じゃないわけです
間違った者をますます増長させながら、信仰することで霊力を高めさせ、間違ったことを広めていく。。。こうなっているわけですね

前回の続きで、日本神道妖怪化説の続きを書いてみました
引き続き、考察を進めていこうと思います
いつもつたない我が日記をご覧くださり、ありがとうございます
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物部が勝利した世界。。。仏教が日本に広がらなかったらどうなったか?土着信仰と仏教の違い

2023-03-02 04:10:40 | 日記
前回の続きです
日本古来の信仰というのは、基本的に「神降ろし型」です
なので、神降ろしをする神官や巫女がいて、神事が行われ、神託に基づいて政治が行われるのが基本であったわけです
武内宿禰のように、霊の言葉を降ろすような人もいたことはいましたが
重要事項について。。。基本的には政事(まつりごと)に関して神官が神におうかがいをたて、神がそれに答えるという形で
神託によって政治決定を行うスタイルであったと思われることから
神託儀式に関する決まり事や作法については決まった形があるものの、心の教えについてはほとんど説かれなかったと思われるのです

逆に仏教と言うのは、仏陀の言葉を弟子が口伝によって伝えていたものが、後世に教えとしてまとめられ編纂されたもので
心の教えを中心として、仏への信仰をたてるスタイルです
聖徳太子がなぜ、仏教を国教と定めたのかについては、十七条憲法に記載があるのでここに示します
「二に曰く、篤く三宝を敬へ。三宝とは仏・法・僧なり。則ち四生の終帰、万国の極宗なり。何れの世、何れの人かこの法を貴ばざる。はなはだ悪しきもの少なし。よく教えうるをもって従う。それ三宝に帰りまつらずば、何をもってか枉(ま)がるを直さん。」
現代語に直すと
「第二条 篤く三宝をうやまえ。三宝とはこれ仏、法(仏の説く教え)、僧(僧団・仏陀サンガ)なり。すなわち生命が最後に帰するべきものであり、万国において最も尊い信仰である。いつの世も、いずれの者も、この教えを尊ばないものはない。世には極悪人は少なく、大抵の者はよく教導することで善良な者となるが、しかしそれは仏法僧の三宝に帰依することをもって教えなければ、他に何をもって教え導くことができるだろうか」

分かりやすく言うと、これは国の教育方針そのものであり、具体的に仏法僧の三宝に帰依しなければ、人間の心のゆがみを正すことができない
そのように十七条憲法には書かれているのです
つまり、私たちが忘れてはならないこととして、日本の精神文化のもととなる道徳教育を行ったのは仏教による宗教教育であったわけです

ここで、神道を含む日本古来の土着信仰と、仏教の信仰との違いを明確にしておきましょう
日本古来の信仰は基本的に儀礼・儀式を中心とした神託によるもので、その都度、神官や巫女による神降ろしにより方針が示されます
しかしながら問題があるのは、神託と言っても、その言葉が本当に神から授けられたものであるのか?その神はどういう神なのか?
これが分からないわけです
同じように神を名のっていたとしても、部族や豪族によって、神の定義も当然違えば、降ろされる神託もまったく違うわけです

具体的に言うと、神武天皇の信仰する神と、神武と敵対した長髄彦(ナガスネヒコ)の信仰する神は別物であるわけです
仮に、長髄彦が信仰していた神が正しい神託を降ろしていても、神武天皇に敗れれば、その正しさは受け入れられないわけです
ですから、日本に土着の豪族が混在していた時代には、「何が正しい事なのか?」を定義することが極めて難しかったわけです
つまり、神も「勝てば官軍」なのであって、理不尽なことですら、勝った方が「正義」として受け入れられるわけです
しかし、戦争に勝った方が正義だとされてしまえば、負けた側には理不尽な思いが残り、以後も何度も争いが起きてしまいます
聖徳太子が十七条憲法の第一条で「和をもって尊しとなし、さからうなきを宗とせよ」と言っているのは
要するに、当時は豪族間で熾烈な争いがあったということを物語っているわけです

一方、仏教という宗教はどうなのか?と言いますと、これはその教えの中に「普遍性」があるわけです
部族や豪族の違いを超えて、「何が正しいのか?」ということが、仏陀の教えとして、お経の中に入っているわけです
具体的には、戒定慧、四諦(苦集滅道)八正道、六道輪廻、六波羅蜜など、実に様々な法門が説かれ、普遍的な教えがあり
各人が法(教え)をよりどころとして、心の教えを学ぶことができるわけです
ここがね、日本古来の土着信仰と仏教の違いなんですね。。。。
要するに聖徳太子は、各部族がそれぞれ独自の信仰をもって「自分の神が正しい」ということばかり言っていては
国がまとまらない、ということをよく理解していたわけです
そして、天皇家の信仰である天照大神への信仰も含め、土着の信仰では「教えに普遍性が乏しく、心の教えの内容が少ない」
ということも理解していたのだと思います
だからこそ、「篤く三宝を敬え」なのでしょう
各人の心を正すための普遍性な心の教えが、日本神道には欠けていたという事です。。。だからこそ仏教を取り入れたと思います

話は変わりますが、前々回の日記で、「妖怪にならないための言葉」という本を取り上げました
あまりネタバレはいけませんが、この本の中に「物部系の豪族神を裏側の妖怪世界に封じ込めたのが行基菩薩である」、と書かれています
行基菩薩は奈良時代の人ですが、この方が本格的に仏教僧として活躍し仏教僧としての手本を示すことで、物部系の豪族神たちを裏側に封じ込めた
とはどういうことなのかを、私なりに解説してみようと思います

行基菩薩は仏教寺院をたくさん作りましたが、それによって仏教信仰を流行らせ、普及させ、その教えを広げていきました
一方、物部系の豪族神とは物部守屋を中心とする人たちのことでしょう
物部守屋は仏教を入れることに反対して聖徳太子と蘇我馬子の連合軍と戦い、最後には敗れています
物部の主張は外国文化を排斥する攘夷運動。。。つまり飛鳥時代の尊王攘夷運動であったわけです
この物部守屋をはじめとする物部豪族神たちは、おそらくは戦いに敗れた死後も仏教に帰依することはなかったのでしょう
そして行基菩薩が出てきて日本各地に仏教寺院を沢山建立し、仏教信仰の基盤を作っていきました
そうすることで、だんだんと日本霊界の中で物部系は封じ込められ、片隅に追いやられていったのだと思います
もちろん神道の信仰は神仏習合によって仏教と結びついているので、神道が表側となることで物部系の信仰は裏側になるのでしょう
当然のことながら、裏側の信仰は仏教を否定しています。。。なので、信仰が立たない、信仰心がない、というのは当然なのでしょうね

遅くなりましたので今日はここまでにします。。。また後日、続きも書いてみようと思います
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日本神道の問題点。。。怨霊もまた神なり

2023-02-26 13:28:37 | 日記
昨日の書籍「妖怪にならないための言葉」を購入して、とりあえず一読し、私にもちょっとだけ、日本神道の問題点が見えてきました

妖怪などと言われても、「現代にそんなものいるはずがない」と思われるかもしれませんが
霊界世界、つまり死後の世界は人間の心の状態がそのまま現象化する世界であるので
人間の魂が動物の姿をとって現れたり、妖怪の姿をとって現れたりすることは、これはあり得ることです

私は今回この、「妖怪にならないための言葉」を読むことで、一つの結論に達しました
それは、日本人固有の宗教性によって、飛鳥時代に伝来してきた仏教もまた、「日本神道化」してきた歴史があるのだと
そういう結論に達しました。。。そのお話を今日はしたいと思います

日本は神仏習合という事で、仏教と神道が融合して一つの宗教になった感がありますが、実はそれで「失われたものが本当はあった」のです
一つの例として、1990年代に、自民党が一度野に下ったとき、まあ野党に転落したときですが、そのとき自民党が何を考えたか?
それは、当時の野党であった「社会党」などを取り込んで、政権与党に返り咲く、というウルトラCでした
そこで当時の社会党の党首であった村山富市という万人受けしそうな人の好いお爺さんを首相として神輿に担ぐことで、政権を取り戻しました
私の解釈では、これもまた、日本の持つ「妖怪性」の一つの表れだと思います
この事件によって、自民党は社会党化し、社会党もまた、自民党化してしまったのです。。。要するに、白と黒を混ぜて灰色にしたわけです

日本は蘇我氏と物部氏の戦いの末、物部氏が敗退し、仏教を受け入れましたが
その際、日本神道は確かに一部仏教化したけれども、仏教もまた日本神道化したのです
つまり、仏教が日本に入ってくることで妖怪化して、善悪を分ける考え方が弱くなってしまったわけです
「死ねばみんな仏様」という考え方は、きわめて日本的な仏教観ですが、実際には死んだ人の境涯は様々であって
死んだあと天国に帰る人もいれば、地獄に落ちる人もいるし、現世にとどまって不成仏霊になる人もあり、怨霊になる人もいます
これが「死ねばみんな仏様」なのかどうか?大いに問題があるわけです

私の今抱えている霊的な(霊障)問題を例にとるならば、生きている「ある方」に、その人のお祖父さんがとり憑いているわけですが
そのお祖父さんが言うには、「わしは生きていた時には熱心に信仰していた、そのワシが迷うのはおかしい」と言っているのです
信仰をしていても、自分の過去の生き方の間違いが理解できず、なぜ迷っているかがお祖父さんには分からないのです。。。
いま私は、現実にその問題に直面していて、少し困っているのです
だから、「正しい生き方と間違った生き方の違い」が分からないからこそ、信仰していても救われないのです
そのお祖父さんには、「あなたの心と行いを反省しないと、あなたは救われませんよ」と、何度説明しても
間違った信仰を長く続けていた場合は、それがなかなか受け入れられない、という事を私は知りました
それほど難しいのです
そのお祖父さんは今も、お孫さんに「般若心経を読んでわしを供養せい」と、何度も脅してきているわけです
「でないと罰を当てるぞ」と言ってくるわけです

今回、「妖怪にならないための言葉」を読んだことで、私の中の「根本的な問題」に結論が出ました
妖怪は正と邪を分けることを嫌い、物事を曖昧にして自分は反省しない。。。ということですが
まさに、日本神道の神々にはそういう側面が多々見受けられます
古事記や日本書紀の世界には、仏教のように天国と地獄の明確な区別がなく、善悪の区別なく、怨霊でさえ「神様」として祀ってしまいます
死んだらみんな「神様」なんです
ご利益をくれるなら、狐も神様、狸も神様、犬も神様、蛇も神様です。。。
それを祀ることで、迷っている蛇や狐でさえ神様にしてしまうので、何が正しいのかさえ分からなくなります
これはもう、仏教が日本に入ることで、最終的に心の教えがなくなり形骸化した、という事なのだろうと思います
そういう仏教では、熱心に信仰した人ほど救われない、ということになります。。。本当に悲しいことです

日本人がなぜ宗教の違い、宗教の善悪が理解できないのか?今回それが私にはよくわかりました。。。合点がいきました
と同時に、私の中にある妖怪性についても、きちんと反省し修正したいと思いました

今日はこれまでとします
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