突然ですが、一般的な日本人の感覚では、戦前と戦後、どちらの経済がより自由主義に近かったと思いますでしょうか?
今でこそ株式は高配当のものが多くなり、IPO(Initial Public Offering 新規公開株)などのシステムも充実してきました
これは海外投資家による投資を呼び込む、という、日本市場をもっとオープンにする意図があったものと思われますが
実は最近まではそうではありませんでした
日本の株式市場は、戦後長らく低配当と持ち合い株式の仕組みで、株式所有者よりも経営者を優遇する政策が採られておりました
このことは、一般的にはあまり認識のある方はいらっしゃらないかもしれません、当たり前だという認識があるかもしれないですが
これをわかりやすく言うと、会社とは誰のものなのか?ということなのです
株主の権利を重く見れば、会社は株主のもの
逆に株主の権利を制限すれば、会社は経営者と社員のもの、ということなんですね
実は戦前の日本は、今よりももっと株主の権利が大きい、アメリカ型の資本主義に近いものでした
会社が資金調達するときには株を新規発行して資金調達する、これが一般的な会社の資金調達のあり方だったのです
このことは、ほとんどの方が知らない、忘れられた事実だろうと思います
では、なぜそのような資金調達の方法が取られていたのか?
その理由は、戦前の経済では今のように銀行融資による資金調達が一般的でなかったからです
ですから、戦前は「名家」であるとか「資産家」であるとか、そういうお金持ちのブルジョワが沢山存在していたのです
大会社の株主はその配当金だけで優雅な生活が可能で、そういう資産家が金融を牛耳ってきた、そういう形の経済だったのです
当時の会社の経営者は株主の影響から逃れられず、どちらかというと短期的に利益が出る経営方針を採らされる傾向がありました
今のアメリカがまさにそうですね、四半期ごとの短期間に会社の決算があり、利益について株主がどんどん経営に口を出してきます
これが戦前の日本にもあったことですね
戦争によって変わった資金調達システム
実はこの戦前の自由主義的な資本主義経済を一変させたのが、先の戦争ということになります
実際にどんなことが行われたかを列記していきましょう
①政府主導による株主の弱体化
まず最初に政府による株主の弱体化が行われました
利益追求型の株主によって会社の経営に口を挟まれることを、時の政府が「よろしくない」と考えたということです
その理由はいくつかありますが、その一番大きな理由は、「戦時の計画経済」です
今のような平和時なら自由でも良いけれども、他国との交戦状態では、軍事物資の調達は最優先課題です
当時の日本には欧米によって貿易を制限されている状態でしたので、鉄鉱石などの貴重な物資を軍事物資優先で加工する必要がありました
そのために、株主が利益優先で口を挟むと政府が優先したい産業に資源が供給されない、ということが起こります
そこで政府が、当時は半軍事政権ですが、考えたのが、株主の権利を制限して、国によって優先する産業に資金を投入する
というものでした
現実に、法改正によって株主の権限が制限されたのち、株式公開による資金調達はほとんどなくなり
代わって出てきたのが「メインバンク制度」です
②銀行の統合と政府主導によるメインバンク制度の構築
戦前の日本の経済は欧米を手本にしていたため、銀行も比較的自由に融資をしていたし、銀行の数自体も沢山ありました(1000行以上あった)
それらは今で言う銀行ではないのかもしれませんが、それらが目的性を持って統合されたのが戦時体制時です(数十行まで統合)
統合された民間銀行は、中央銀行によって厳しく指導を受け、融資先をいくつかにランキングされ
(一説ではA、B、C、の3ランクぐらいに分けられていたという)
重工業、特に軍事物資を作る重工業や原材料の加工工業企業などには高い目標が設定され、どんどん融資が行われました
優先企業には1つないし2、3の銀行が融資引き受けを行いました
それが今のメインバンク制度です
注目したいのは、そのメインバンク制度を指導した主体です
これはまぎれもなく中央銀行、今の日本銀行です
日本銀行は、今も基本的には同じですが、民間銀行に「指導」という形で融資に介入し
どんどん「貸し出し」や「社債引き受け」を行なわせました
つまり、この頃からメインバンク制度は採用されてきたんですね...そして民間銀行はどんどんお金を作り出しました
どうやって?勿論、「信用創造」です...詳しくは過去記事参照
どんどん貸し出して、市場に資金を回して行ったんですね
こうして見てくると、一つ気がつくことがあります
実は、この戦中のメインバンク制度、戦後もそのまま残っているんですね
そして、戦後の高度経済成長を作り出してきたのも、実は民間銀行の「信用創造」だったのです
しかし、そこには大きな制約がありました
それが...日銀の窓口指導です
日銀の窓口指導とは?
日本銀行は戦後長らく目立たないように行動をしていたため、ほとんど注目を集めることがなかったこの「窓口指導」
実は、この銀行の「信用創造」システムに注目して、日本の戦後経済を鳥瞰すると、面白いことが見えてきます
それは、政府主導で行われた金利政策や公開市場操作(いわゆる売りオペ・買いオペ)といった金融政策は
本当のところ、ほとんど役に立ってきていないということ
そしてこれが一番重要なことですが
日本経済が加熱して金利が上がっても、経済がますます加熱することがあり
経済が冷え込んでいる時に金利を下げても、全く効果がなかったり
こうしたことがある中、実は一番効果を上げてきた、隠された経済刺激策、経済抑制策こそが
「日銀の窓口指導」なのだと、私は確信しています
日銀の窓口指導は、民間銀行に対しては法律と同じ、逆らえば何をされるかわからない
それほどの影響力をもっているからこそ、日銀は「奥の手」「隠し球」として、その手を隠してきたのです
日銀は口では窓口指導などしていないといいます
これ自体が大嘘なのですが
たとえ金利が下がって借りやすい状態になっても、日銀が民間銀行に融資を抑制させれば、民間融資は増えない
これが、最近になって徐々に見えつつある...事実なのです
1990年代の終わり頃、政府は大規模な経済対策を行いましたが、日銀は民間銀行へ「融資をさせない」方向に指導をしていました
これはれっきとした事実であり、その結果、経済はほとんど良くなりませんでした
MMT現代貨幣理論を深く勉強していると、実は銀行の信用創造こそが経済の血液そのものだと分かります
日銀は「窓口指導」の影響力を、長らく、政治家にも、財務官僚にも、民間人にも隠してきました
これほどまで経済が冷え込んでいる昨今、もうそろそろ、隠された官僚主義を取り払って真実に目覚める必要があるのではないでしょうか?
私にはそう思えてなりません
今でこそ株式は高配当のものが多くなり、IPO(Initial Public Offering 新規公開株)などのシステムも充実してきました
これは海外投資家による投資を呼び込む、という、日本市場をもっとオープンにする意図があったものと思われますが
実は最近まではそうではありませんでした
日本の株式市場は、戦後長らく低配当と持ち合い株式の仕組みで、株式所有者よりも経営者を優遇する政策が採られておりました
このことは、一般的にはあまり認識のある方はいらっしゃらないかもしれません、当たり前だという認識があるかもしれないですが
これをわかりやすく言うと、会社とは誰のものなのか?ということなのです
株主の権利を重く見れば、会社は株主のもの
逆に株主の権利を制限すれば、会社は経営者と社員のもの、ということなんですね
実は戦前の日本は、今よりももっと株主の権利が大きい、アメリカ型の資本主義に近いものでした
会社が資金調達するときには株を新規発行して資金調達する、これが一般的な会社の資金調達のあり方だったのです
このことは、ほとんどの方が知らない、忘れられた事実だろうと思います
では、なぜそのような資金調達の方法が取られていたのか?
その理由は、戦前の経済では今のように銀行融資による資金調達が一般的でなかったからです
ですから、戦前は「名家」であるとか「資産家」であるとか、そういうお金持ちのブルジョワが沢山存在していたのです
大会社の株主はその配当金だけで優雅な生活が可能で、そういう資産家が金融を牛耳ってきた、そういう形の経済だったのです
当時の会社の経営者は株主の影響から逃れられず、どちらかというと短期的に利益が出る経営方針を採らされる傾向がありました
今のアメリカがまさにそうですね、四半期ごとの短期間に会社の決算があり、利益について株主がどんどん経営に口を出してきます
これが戦前の日本にもあったことですね
戦争によって変わった資金調達システム
実はこの戦前の自由主義的な資本主義経済を一変させたのが、先の戦争ということになります
実際にどんなことが行われたかを列記していきましょう
①政府主導による株主の弱体化
まず最初に政府による株主の弱体化が行われました
利益追求型の株主によって会社の経営に口を挟まれることを、時の政府が「よろしくない」と考えたということです
その理由はいくつかありますが、その一番大きな理由は、「戦時の計画経済」です
今のような平和時なら自由でも良いけれども、他国との交戦状態では、軍事物資の調達は最優先課題です
当時の日本には欧米によって貿易を制限されている状態でしたので、鉄鉱石などの貴重な物資を軍事物資優先で加工する必要がありました
そのために、株主が利益優先で口を挟むと政府が優先したい産業に資源が供給されない、ということが起こります
そこで政府が、当時は半軍事政権ですが、考えたのが、株主の権利を制限して、国によって優先する産業に資金を投入する
というものでした
現実に、法改正によって株主の権限が制限されたのち、株式公開による資金調達はほとんどなくなり
代わって出てきたのが「メインバンク制度」です
②銀行の統合と政府主導によるメインバンク制度の構築
戦前の日本の経済は欧米を手本にしていたため、銀行も比較的自由に融資をしていたし、銀行の数自体も沢山ありました(1000行以上あった)
それらは今で言う銀行ではないのかもしれませんが、それらが目的性を持って統合されたのが戦時体制時です(数十行まで統合)
統合された民間銀行は、中央銀行によって厳しく指導を受け、融資先をいくつかにランキングされ
(一説ではA、B、C、の3ランクぐらいに分けられていたという)
重工業、特に軍事物資を作る重工業や原材料の加工工業企業などには高い目標が設定され、どんどん融資が行われました
優先企業には1つないし2、3の銀行が融資引き受けを行いました
それが今のメインバンク制度です
注目したいのは、そのメインバンク制度を指導した主体です
これはまぎれもなく中央銀行、今の日本銀行です
日本銀行は、今も基本的には同じですが、民間銀行に「指導」という形で融資に介入し
どんどん「貸し出し」や「社債引き受け」を行なわせました
つまり、この頃からメインバンク制度は採用されてきたんですね...そして民間銀行はどんどんお金を作り出しました
どうやって?勿論、「信用創造」です...詳しくは過去記事参照
どんどん貸し出して、市場に資金を回して行ったんですね
こうして見てくると、一つ気がつくことがあります
実は、この戦中のメインバンク制度、戦後もそのまま残っているんですね
そして、戦後の高度経済成長を作り出してきたのも、実は民間銀行の「信用創造」だったのです
しかし、そこには大きな制約がありました
それが...日銀の窓口指導です
日銀の窓口指導とは?
日本銀行は戦後長らく目立たないように行動をしていたため、ほとんど注目を集めることがなかったこの「窓口指導」
実は、この銀行の「信用創造」システムに注目して、日本の戦後経済を鳥瞰すると、面白いことが見えてきます
それは、政府主導で行われた金利政策や公開市場操作(いわゆる売りオペ・買いオペ)といった金融政策は
本当のところ、ほとんど役に立ってきていないということ
そしてこれが一番重要なことですが
日本経済が加熱して金利が上がっても、経済がますます加熱することがあり
経済が冷え込んでいる時に金利を下げても、全く効果がなかったり
こうしたことがある中、実は一番効果を上げてきた、隠された経済刺激策、経済抑制策こそが
「日銀の窓口指導」なのだと、私は確信しています
日銀の窓口指導は、民間銀行に対しては法律と同じ、逆らえば何をされるかわからない
それほどの影響力をもっているからこそ、日銀は「奥の手」「隠し球」として、その手を隠してきたのです
日銀は口では窓口指導などしていないといいます
これ自体が大嘘なのですが
たとえ金利が下がって借りやすい状態になっても、日銀が民間銀行に融資を抑制させれば、民間融資は増えない
これが、最近になって徐々に見えつつある...事実なのです
1990年代の終わり頃、政府は大規模な経済対策を行いましたが、日銀は民間銀行へ「融資をさせない」方向に指導をしていました
これはれっきとした事実であり、その結果、経済はほとんど良くなりませんでした
MMT現代貨幣理論を深く勉強していると、実は銀行の信用創造こそが経済の血液そのものだと分かります
日銀は「窓口指導」の影響力を、長らく、政治家にも、財務官僚にも、民間人にも隠してきました
これほどまで経済が冷え込んでいる昨今、もうそろそろ、隠された官僚主義を取り払って真実に目覚める必要があるのではないでしょうか?
私にはそう思えてなりません