双極性障害という診断名がつき、振り返れば思い当たる出来事の数々。
しかし、今更そのことに言い訳をしても仕方ないと思っている一方で、
あの時の私の立場をわかってほしい。
遠ざかっていった人たちに理解してほしいと、何故か今朝起きぬけに思っている。
包括支援センターというところへ、縁あって就職して以来、
何もわからないところからの出発だった。
わからないなりに、周りの人たちの助けを得ながら業務にあたってきた。
そして、わからないなりに、未熟なりに行きつき、
思うことがある。
それは、
全ての行動や言動には訳がある。
と。
表面の言葉や態度だけでは、
本意は掴めていないかもしれないと、
汲み取っていないかもしれないと、そう思うようになった。
何故なら自分自身がそうだからだ。
声にならない声に耳を傾ける。
恰好をつけた絵空事のような言葉になるが、
今はそう思えるようになった。
人は自分が経験したことでしか判断できない側面がある。
それも理解できるようになった。
しかし、双極性障害という病気は、
外見ではわかりにくい普通の人のことが多く、
理解されにくい。
うつ病ほど認知はされていない現状。
まがりなりにも福祉に関わる人間だからこそ、
精神疾患を持ちながら社会復帰することの大変さ、
理解をしてもらいにくい社会に戻ることの不安を、
身を持って体験したほうが、
今後同じ立場の人たちに接するとき、対等でいられるのではないか。
それだけが、この病気になったメリットではないかと考えることもある。
自分の心身が耐えうるかどうか。
経験をアウトプットできるだけの力があるか。
自分はなんでもできるような気持ちになる。
これも双極性障害の躁状態症状のひとつでもある。
だから、症状として出来そうもないことを言っているのか、
ひとりの人間として役立ちたくて言っているのか、
自分でも区別がつかない。
こういう状態の時は、主治医に相談することにしている。
先生としては、生活面のこともあるため、
復職を考えてくれている。
できれば私も復職をして、
声なき声を聴けるような人として仕事をしたいと思う。
そんなことを思った朝。