少数派シリーズ/気象・季節・暦
チコ情報◇「七五三」昔の子供は長く生き延びることが大変で3歳・5歳・7歳に祝った
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■平安から鎌倉時代には子供の成長を願い3歳・5歳・7歳とそれそれ別々に行っていた
NHK番組「チコちゃんに叱られる」を参考にしました。国立歴史民俗博物館・新谷尚紀(しんたに・たかのり)名誉教授の見解です。/「七五三」は3歳の女の子、5歳の男の子、7歳の女の子が、11月15日に神社に参拝する伝統行事。その背景には、昔は病気・疫病・食料難などで、子供が長く生き延びることが大変だった。新谷氏が調査した近畿地方の、ある墓地の埋葬者の亡くなった年齢区分(1899~1945年)を見る。151人のうち、産まれる前26人(17%)、1歳未満45人(30%)、2歳未満6人(4%)、5歳未満9人(6%)、その他65人(43%)。86人・全体の約6割が、5歳未満で亡くなっている。このように明治から昭和戦前でさえ子供の多くが亡くなっており、江戸時代以前はさらに子供の死亡率が高かったと推察される。幼い子供が生き延びるのが難しい時代で、「七五三」を祝う背景にはこうした親の切なる願いから始まったと言える。但し現在のように3歳・5歳・7歳をまとめて祝うことはなく、歴史的にはそれぞれ別々の儀式だった。
「3歳の祝い」 平安時代には、男女を問わず3歳に祝った。当時の子供は男の子も女の子も、坊主頭だった。3歳になると髪を伸ばし始めるとされて、「髪置き」と言い真綿を頭に乗せる儀式があった。「白髪になるまで元気に生きて」の意味が含まれ、長生きを願った。この時代は医療が発達しておらず、3歳まででも生き延びるのは並大抵ではなかった。
「7歳の祝い」 平安時代中期には、7歳の祝いがあった。乳幼児以降7歳になるまで、着物は身体の前を紐(ひも)で結ぶタイプだった。7歳になって初めて大人のように着物を帯で巻くことになり、「帯解き」「紐落とし」と言う儀式を行った。帯は身体の成長に合わせてサイズを自由に変えられるため、「このまますくすくと成長してほしい」「帯の着物に着替え、大人になる準備」を祝った。
「5歳の祝い」 平安末期から鎌倉時代にかけて、政治や社会は武士が実権を握ることになった。年齢が戻り、5歳の祝いは最初、武士の間で広まり、5歳になった男の子は「袴着」(はかまぎ)と言って袴をはく儀式が行われた。大名や武士にとって極めて大事なことが、「跡継ぎ」になる男の子がいること。子供がいなければ、大名はお家断絶・身分剥奪・領地没収、家臣が路頭に迷う一大事。何よりも子供が成長して、「世継ぎ」「跡継ぎ」になることを喜ばしいとする重要な儀式だった。
■童謡「♪とうりゃんせ」は7つになって“神の子”から“人の子”になる戒めと親の願いが
江戸時代に作られたわらべうたの「♪とうりゃんせ」の歌は、「7歳の祝い」に関することが潜んでいる。「♪このこのななつのおいわいに おふだをおさめにまいります ~ いきはよいよい かえりはこわい ~ 」~7歳の時に神社に参る歌だ。病気などでいつ死ぬか分からず、7歳になるまでは「神様に命運を託された子」と考えられ、例えばお供え物を盗み食いしたり悪いことをしても罰(ばち)が当たらないとされた。しかし7歳の祝いを神社で済ませた後は「人の子」になり、神様の子ではないから悪いことしたら罰が当たるよ!だから、神社の帰り道は怖いという戒め。歌の意味は怖いが、7歳まで無事生き延びた・これからは一人前として生きよう!の願いも含まれていると新谷氏は言う。
■「七五三」と呼ぶようになったのは明治でその後デパートの商魂によって広まる
元々はばらばらに行われていた儀式だったが、江戸時代になると5代将軍・徳川綱吉が3歳の長男を、たまたま11月15日に盛大に祝ったことによる。その後、商人・町民の間に広まり、11月15日に3歳・5歳・7歳をまとめて祝うことが定着した。明治になると、全国の国民の間に広がる。その先鋒となったのが百貨店で、子供の着物販売の宣伝に利用された。その際に、「七五三」の名称が使われた。なお戦後になって、3歳・7歳が女の子、5歳は男の子の祝いとすることが一般化した。
投稿者の感想|子供の成長と長生きを心から願う親の気持ちに感動した。“ええ話やな~”と聞いていたが、番組の最後になって少々ガッカリした。バレンタインチョコ・クリスマスプレゼントなど外国では厳然な風習だったものを、日本では商品販売に利用されてしまった。同様に、日本の「七五三」を流行らせたのもデパートやメーカーの『商魂』だった。昔の人々の切なる願いを踏みにじるような気がしてならない。とは言えジイジとなった投稿者は、やはり子や孫の成長・長生きを願うばかりだ。
NHKの同番組を参考に、投稿者(5歳+〇〇歳)がその他の内容
を付け加えました。従って番組のイメージとは異なります! バカ~!
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チコ情報◇「七五三」昔の子供は長く生き延びることが大変で3歳・5歳・7歳に祝った
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■平安から鎌倉時代には子供の成長を願い3歳・5歳・7歳とそれそれ別々に行っていた
NHK番組「チコちゃんに叱られる」を参考にしました。国立歴史民俗博物館・新谷尚紀(しんたに・たかのり)名誉教授の見解です。/「七五三」は3歳の女の子、5歳の男の子、7歳の女の子が、11月15日に神社に参拝する伝統行事。その背景には、昔は病気・疫病・食料難などで、子供が長く生き延びることが大変だった。新谷氏が調査した近畿地方の、ある墓地の埋葬者の亡くなった年齢区分(1899~1945年)を見る。151人のうち、産まれる前26人(17%)、1歳未満45人(30%)、2歳未満6人(4%)、5歳未満9人(6%)、その他65人(43%)。86人・全体の約6割が、5歳未満で亡くなっている。このように明治から昭和戦前でさえ子供の多くが亡くなっており、江戸時代以前はさらに子供の死亡率が高かったと推察される。幼い子供が生き延びるのが難しい時代で、「七五三」を祝う背景にはこうした親の切なる願いから始まったと言える。但し現在のように3歳・5歳・7歳をまとめて祝うことはなく、歴史的にはそれぞれ別々の儀式だった。
「3歳の祝い」 平安時代には、男女を問わず3歳に祝った。当時の子供は男の子も女の子も、坊主頭だった。3歳になると髪を伸ばし始めるとされて、「髪置き」と言い真綿を頭に乗せる儀式があった。「白髪になるまで元気に生きて」の意味が含まれ、長生きを願った。この時代は医療が発達しておらず、3歳まででも生き延びるのは並大抵ではなかった。
「7歳の祝い」 平安時代中期には、7歳の祝いがあった。乳幼児以降7歳になるまで、着物は身体の前を紐(ひも)で結ぶタイプだった。7歳になって初めて大人のように着物を帯で巻くことになり、「帯解き」「紐落とし」と言う儀式を行った。帯は身体の成長に合わせてサイズを自由に変えられるため、「このまますくすくと成長してほしい」「帯の着物に着替え、大人になる準備」を祝った。
「5歳の祝い」 平安末期から鎌倉時代にかけて、政治や社会は武士が実権を握ることになった。年齢が戻り、5歳の祝いは最初、武士の間で広まり、5歳になった男の子は「袴着」(はかまぎ)と言って袴をはく儀式が行われた。大名や武士にとって極めて大事なことが、「跡継ぎ」になる男の子がいること。子供がいなければ、大名はお家断絶・身分剥奪・領地没収、家臣が路頭に迷う一大事。何よりも子供が成長して、「世継ぎ」「跡継ぎ」になることを喜ばしいとする重要な儀式だった。
■童謡「♪とうりゃんせ」は7つになって“神の子”から“人の子”になる戒めと親の願いが
江戸時代に作られたわらべうたの「♪とうりゃんせ」の歌は、「7歳の祝い」に関することが潜んでいる。「♪このこのななつのおいわいに おふだをおさめにまいります ~ いきはよいよい かえりはこわい ~ 」~7歳の時に神社に参る歌だ。病気などでいつ死ぬか分からず、7歳になるまでは「神様に命運を託された子」と考えられ、例えばお供え物を盗み食いしたり悪いことをしても罰(ばち)が当たらないとされた。しかし7歳の祝いを神社で済ませた後は「人の子」になり、神様の子ではないから悪いことしたら罰が当たるよ!だから、神社の帰り道は怖いという戒め。歌の意味は怖いが、7歳まで無事生き延びた・これからは一人前として生きよう!の願いも含まれていると新谷氏は言う。
■「七五三」と呼ぶようになったのは明治でその後デパートの商魂によって広まる
元々はばらばらに行われていた儀式だったが、江戸時代になると5代将軍・徳川綱吉が3歳の長男を、たまたま11月15日に盛大に祝ったことによる。その後、商人・町民の間に広まり、11月15日に3歳・5歳・7歳をまとめて祝うことが定着した。明治になると、全国の国民の間に広がる。その先鋒となったのが百貨店で、子供の着物販売の宣伝に利用された。その際に、「七五三」の名称が使われた。なお戦後になって、3歳・7歳が女の子、5歳は男の子の祝いとすることが一般化した。
投稿者の感想|子供の成長と長生きを心から願う親の気持ちに感動した。“ええ話やな~”と聞いていたが、番組の最後になって少々ガッカリした。バレンタインチョコ・クリスマスプレゼントなど外国では厳然な風習だったものを、日本では商品販売に利用されてしまった。同様に、日本の「七五三」を流行らせたのもデパートやメーカーの『商魂』だった。昔の人々の切なる願いを踏みにじるような気がしてならない。とは言えジイジとなった投稿者は、やはり子や孫の成長・長生きを願うばかりだ。
NHKの同番組を参考に、投稿者(5歳+〇〇歳)がその他の内容
を付け加えました。従って番組のイメージとは異なります! バカ~!
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