今号は、ゴールデンウィーク明けにGOICHIさんとダブルソロ公演を控える元TOKYOマイムカレッジ生のバンバンさんの日記をお届けします。リレー日記2度目のご登場です。なお、本日記は、3月の清水きよし先生のクラス発表会の前日に頂きました。
手話とタップとパントマイム
パントマイムを始めて7年半、パントマイムを通して見る世界は本当に素敵です。
“病院で言葉の通じない相手を笑顔にしなさい”というミッションが舞い込み、困った末に挑戦したのがパントマイムでした。その仕事がたまたまうまくいき、パントマイムの世界にずぶずぶとはまっていきました。
数年経って、尊敬する先輩から「タップをするとパントマイムが上手くなるよ」と言われ、タップダンスを始めました。あっという間に、タップに夢中になりました。果たしてパントマイムは上手くなったのでしょうか。
さらに数年経ち、今は手話を使って仕事をしています。
さて、手話とタップとパントマイム、この3つ、似ているのです。
音声言語では表現できないもの、こと、あらゆる思いを表現できるのです。
パントマイムは身体全体の動きで。
手話は手の動きと表情で。
タップは音で。
声を使わないコミュニケーション。
まずは、手話とパントマイムについて考えてみます。
聾者の手話は表現がとても豊かです。見ていると情景まで見えることがあります。しかし、手話はあくまでも言語です。動きが意味をもつ記号なのです。パントマイムは同じ動きでも、そこに記号性はなく、見る人がそこに意味を見出します。パントマイミストが伸ばした指の先に見えるものは人それぞれです。手話の動きの意味は基本的に一つですが、パントマイムの動きの意味は見る人の数だけあります。そこは大きな違いです。
手話を使うようになって、声を出さないパントマイムのルールの中で、つい手話でセリフを言いそうになってしまいます。そんなことをしてしまうと、せっかく想像力で自由に絵を描いているのに、突然そこだけ写真になるような違和感が生じてしまいます。手を胸に置いてふっと前を向き、薄く微笑む、その動きに演じる人の思いが重なり、見る人に伝わり、見る人なりの情景を感じるのです。もし、次の瞬間、左手の甲の上で右手の手刀を切ると、そこには「ありがとう」という手話の意味が生じます。突然、自由な想像が削がれてしまうのです。なんとか大好きなパントマイムと手話をうまく癒合できないものか、それが今後の私の大きな課題研究となります。いつか作品にできるといいな。
さて、タップとパントマイムはどうでしょう。以前、タップの音を使ってパントマイムをしたことがあります。包丁の音をタップの踵の音で出すなどして料理をするパントマイムです。楽しい試みでした。
しかし、タップの音に意味をつけるのは窮屈です。タップの表現は自由なのです。ある時は、言葉であり、歌であり、想いであり、踊りであり、言葉では説明が難しい深い表現をすることができます。そして、一つの音が鳴っているのに、その音の聞こえ方は人それぞれなのです。私は私の耳で聞こえる音しか知りません。ほかの人がどんな音に聞こえているのか、知る由もありません。その点は、パントマイムと似ています。
ある日、タップを踏んでいる時に、ふと思いつきました。
パントマイムは何もないのにそこに景色が見えます。
では、音は聞こえるのでしょうか。
見る人によって、見える景色が違うように、もし聞こえるなら、見る人によって音も違うに違いない、と思うのです。その音は、見る人にとって、きっと理想の音なのではないか。
タップをしている時、「良い音を出したい」、ただそれだけです。自分の好きな音を追い求めて、努力に努力を重ねているのですが、理想の音はなかなか聞くことができません。
お!パントマイムなら聞けるのではないか。
そう思って、作品にしました。
その作品のお披露目は、この原稿を書いている今から数えて明日です。
ステージの上で、タップのパントマイムをします。
さぁ、どんな音が聞こえるのでしょうか。
楽しみでなりません。
やっぱり、パントマイムは楽しいです。
手話とタップとパントマイム。国を越えて、言葉を超えて、いつでもどこでも誰にでも伝えられる、この表現を使って、これから、もっともっと人生を楽しんでいきたいと思います。
バンバン