僕は本当に人に恵まれていると思う。
すごく良い方々に出会えて、必要な時に、それぞれの方からその時々に僕に必要な意見を与えていただいたり、話を聞かせていただける。
僕には尊敬する方々が卓球関係だけでも大勢いるけど、元オリンピック代表選手や元日本代表選手に元世界選手権チャンピオン、国内でも全日本選手権でランク入りされていた方々などなど、そういった物凄い方々から直接でも間接的にでも、リアルなお話を聞かせていただけるから、僕は本当に幸せだと思う。
つい先日も、僕にとっての特別コーチから直接指導をいただく時間を得た。
いろいろな話も聞かせていただいた。
そのコーチは高校生の頃、「インターハイでは優勝することが目標じゃなくてノルマだったんだよね。だから、直前の合宿はそれに向けたメニューだから、あれは本当に辛かったよ」
その具体的な内容と、なぜそういう内容なのかその理由も聞かせていただいた。
その話をホームのコーチにすると、「昔はそうだったよね、私もそうだったよ」と聞かせてもらった。
毎日積み重ねるものがそういう時代だったのだ。
そして特別コーチからは練習の最後に言葉をいただいた。
「頑張らなくても良いから結果を出してくれ。それだけでいい。」
「頑張り過ぎて本番でダメな奴っていっぱいいるのよ。頑張ることと結果を出すことって全然別だからね」
このことは今までも度々言われてきたこと。
でも今回は今までにないくらいに深く刺さった。
多分、考え方は十人十色で様々な形、方向性があると思う。
どれが正しくてどれが間違っているとは一概に言えるものではない。
言葉も同じ。
本人の感覚を言葉で表現する際、その表現にどの単語を当てはめるかも人それぞれ。
同じ感覚でも表現方法は人によって異なるものだから、それが別のものなのか同じ感覚なのか、それをどう判断するかはその人次第。
自分の尺度だけでその言葉を受け止めると、間違った解釈をし兼ねない。
消化吸収をするのは自分。
自分で噛んで飲み込むことが大切。
時には食べやすいように調理もしなきゃいけない。
赤ちゃんのように咀嚼をしてもらわなきゃいけないようだと、大人として対等には接してもらえない。
だからこそ、要は自分次第なのだ。
僕が指導を受ける世代は、僕よりも年上の方ばかり。
だから、いわゆる「根性論」ど真ん中の世代なのだ。
現代のスポーツ科学はどんどん進化していて、一昔前の常識は非常識とされることも多々ある。
僕だって部活をやっていたころは「勝手に水を飲むな!」と叱られたものだ。
今じゃ考えられない。
練習前に数キロ走って、それから練習。
それを毎日繰り返す。
僕なんかはまだまだ甘っちょろいもので、本当に強い学校はそんなレベルじゃない。
そういう話を経験者から聞かせていただいてきたし、学校だけでなく昭和の時代の実業団やナショナルチームの様子も聞かせていただいてきた。
改めて思う。
「根性」という要素は必要不可欠。
スポーツ科学がどれだけ進化しても、栄養学や睡眠学、メンタル面などがどれだけ解明され進化していっても、人と争う競技において底辺をなすのはやっぱり「根性」のように思う。
僕に指導くださる世代を指導した更に上の世代というのは、今で言えばそれこそ超根性論世代で、その方々がどれくらい凄かったのか、なぜに凄かったのかを知れば、自ずと根性の必要性が見えてくる。
ただし、注意すべきは「根性」という基準が令和・平成と昭和、あるいはそれ以前では思いのほか大きく異なるということ。
なにもスポーツに限ったことではなく、歴史を学べば自ずと見えるものでもある。
昭和初期から明治・大正、江戸時代からそれ以前など、おそらくは根性という水準は現代とは桁違いなはず。
これは生活環境の変化によるもので、時代によって常識は異なるから、根性の基準も当然違って当然。
上の世代はその良しあしを理解しているから、自分たち世代のそのやり方を必ずしも強要はしない。
時代に合わせた工夫を凝らし、指導してくれる。
でも、きっと心の中にはどこか自分を抑えた感情があって、もっと厳しくやった方が効率的だと思っているところもあると思う。
その点の相互理解こそが、ある意味信頼関係を生むんじゃないかとも思うのだな。
話が逸れた。
スポーツにおいて「綺麗」の反意語は「泥臭い」となるけど、その「泥臭い」は何をもって泥臭いのか?
僕はそこにも「根性」が必要不可欠な要素、というよりもその大部分を占めるように思えてきた。
僕の世代だからそう思えるのかもしれない。
だけど、今改めて思うのは、やっぱり根性だな、ということ。
現代の理論や最新の情報はもちろん広く学び、承知したうえで、でもやはり僕世代的な根性論を貫く必要があるように思う。
上の世代の方々からすれば笑われるような程度の根性だけれど、「まぁあいつなりに根性見せてるから良いんじゃない」と言ってもらえるくらいはやらないと、どうも格好がつかないし、多分、僕自身後悔する。
だから、やる。
そして、ただ頑張るだけでなく、結果を出すために、クレバーに取り組む。
積み重ねて、より良い引き出しをより多く持つ。
でも、引き出しは引き出さなければその価値はない。
だから、引き出す力も必要だし、それも磨き続けていく。
新しい発想をいただいて、今まで見ていたものを違った角度からも見れるようになった気がして、すると、日々の活動がより厚みを増し、より楽しく感じてくるものでもある。
全ては自分次第。
全ての要因はまず自分にある。
もっと正直に、根性論的発想で活動をあらためていこうと思う。
効率的に考え行動することは大切。
でも、遠回りがプラスになることがあるのもまた事実。
もっと自分に素直でいようと思う。
よし、頑張っていこう!
すごく良い方々に出会えて、必要な時に、それぞれの方からその時々に僕に必要な意見を与えていただいたり、話を聞かせていただける。
僕には尊敬する方々が卓球関係だけでも大勢いるけど、元オリンピック代表選手や元日本代表選手に元世界選手権チャンピオン、国内でも全日本選手権でランク入りされていた方々などなど、そういった物凄い方々から直接でも間接的にでも、リアルなお話を聞かせていただけるから、僕は本当に幸せだと思う。
つい先日も、僕にとっての特別コーチから直接指導をいただく時間を得た。
いろいろな話も聞かせていただいた。
そのコーチは高校生の頃、「インターハイでは優勝することが目標じゃなくてノルマだったんだよね。だから、直前の合宿はそれに向けたメニューだから、あれは本当に辛かったよ」
その具体的な内容と、なぜそういう内容なのかその理由も聞かせていただいた。
その話をホームのコーチにすると、「昔はそうだったよね、私もそうだったよ」と聞かせてもらった。
毎日積み重ねるものがそういう時代だったのだ。
そして特別コーチからは練習の最後に言葉をいただいた。
「頑張らなくても良いから結果を出してくれ。それだけでいい。」
「頑張り過ぎて本番でダメな奴っていっぱいいるのよ。頑張ることと結果を出すことって全然別だからね」
このことは今までも度々言われてきたこと。
でも今回は今までにないくらいに深く刺さった。
多分、考え方は十人十色で様々な形、方向性があると思う。
どれが正しくてどれが間違っているとは一概に言えるものではない。
言葉も同じ。
本人の感覚を言葉で表現する際、その表現にどの単語を当てはめるかも人それぞれ。
同じ感覚でも表現方法は人によって異なるものだから、それが別のものなのか同じ感覚なのか、それをどう判断するかはその人次第。
自分の尺度だけでその言葉を受け止めると、間違った解釈をし兼ねない。
消化吸収をするのは自分。
自分で噛んで飲み込むことが大切。
時には食べやすいように調理もしなきゃいけない。
赤ちゃんのように咀嚼をしてもらわなきゃいけないようだと、大人として対等には接してもらえない。
だからこそ、要は自分次第なのだ。
僕が指導を受ける世代は、僕よりも年上の方ばかり。
だから、いわゆる「根性論」ど真ん中の世代なのだ。
現代のスポーツ科学はどんどん進化していて、一昔前の常識は非常識とされることも多々ある。
僕だって部活をやっていたころは「勝手に水を飲むな!」と叱られたものだ。
今じゃ考えられない。
練習前に数キロ走って、それから練習。
それを毎日繰り返す。
僕なんかはまだまだ甘っちょろいもので、本当に強い学校はそんなレベルじゃない。
そういう話を経験者から聞かせていただいてきたし、学校だけでなく昭和の時代の実業団やナショナルチームの様子も聞かせていただいてきた。
改めて思う。
「根性」という要素は必要不可欠。
スポーツ科学がどれだけ進化しても、栄養学や睡眠学、メンタル面などがどれだけ解明され進化していっても、人と争う競技において底辺をなすのはやっぱり「根性」のように思う。
僕に指導くださる世代を指導した更に上の世代というのは、今で言えばそれこそ超根性論世代で、その方々がどれくらい凄かったのか、なぜに凄かったのかを知れば、自ずと根性の必要性が見えてくる。
ただし、注意すべきは「根性」という基準が令和・平成と昭和、あるいはそれ以前では思いのほか大きく異なるということ。
なにもスポーツに限ったことではなく、歴史を学べば自ずと見えるものでもある。
昭和初期から明治・大正、江戸時代からそれ以前など、おそらくは根性という水準は現代とは桁違いなはず。
これは生活環境の変化によるもので、時代によって常識は異なるから、根性の基準も当然違って当然。
上の世代はその良しあしを理解しているから、自分たち世代のそのやり方を必ずしも強要はしない。
時代に合わせた工夫を凝らし、指導してくれる。
でも、きっと心の中にはどこか自分を抑えた感情があって、もっと厳しくやった方が効率的だと思っているところもあると思う。
その点の相互理解こそが、ある意味信頼関係を生むんじゃないかとも思うのだな。
話が逸れた。
スポーツにおいて「綺麗」の反意語は「泥臭い」となるけど、その「泥臭い」は何をもって泥臭いのか?
僕はそこにも「根性」が必要不可欠な要素、というよりもその大部分を占めるように思えてきた。
僕の世代だからそう思えるのかもしれない。
だけど、今改めて思うのは、やっぱり根性だな、ということ。
現代の理論や最新の情報はもちろん広く学び、承知したうえで、でもやはり僕世代的な根性論を貫く必要があるように思う。
上の世代の方々からすれば笑われるような程度の根性だけれど、「まぁあいつなりに根性見せてるから良いんじゃない」と言ってもらえるくらいはやらないと、どうも格好がつかないし、多分、僕自身後悔する。
だから、やる。
そして、ただ頑張るだけでなく、結果を出すために、クレバーに取り組む。
積み重ねて、より良い引き出しをより多く持つ。
でも、引き出しは引き出さなければその価値はない。
だから、引き出す力も必要だし、それも磨き続けていく。
新しい発想をいただいて、今まで見ていたものを違った角度からも見れるようになった気がして、すると、日々の活動がより厚みを増し、より楽しく感じてくるものでもある。
全ては自分次第。
全ての要因はまず自分にある。
もっと正直に、根性論的発想で活動をあらためていこうと思う。
効率的に考え行動することは大切。
でも、遠回りがプラスになることがあるのもまた事実。
もっと自分に素直でいようと思う。
よし、頑張っていこう!