健常者の頃に卓球経験のある選手が車椅子でプレーすると、その経験が逆にマイナスに働く。
俗にいう「器用貧乏」な状態になるという。
確かに、その考えは理解できる。
なまじ知識や経験があるが故に、当時とは違う身体能力(と表現しておく)にもかかわらず、当時と同じことをしようとし、それが結果的にミスをより多く生み、失点となり試合で負けるというのだ。
あるいは、健常者的発想が車椅子利用者という現実とギャップがあり、それがミスを生じさせるというもの。
健常者のような格好の良いフォームで打つ、格好の良いプレーをする、それを前提として考えると、そこにはやはり現実とのギャップがあり、それがミスを生じさせ、結果的に負けを呼ぶというのだ。
格好よく打てても、1本決まっただけだと、試合で勝つなんて到底無理。
だから、健常者の経験は無い方が良いのかもしれない。
そんな意見さえあるというのだ。
間違っているとは言わない。
でも、僕はその考えを採用しない。
器用貧乏?
それを通り越したレベルに達すれば、誰もそんなことは言わないはず。
杭は中途半端に出すとダメだけど、利用できるくらいに出し過ぎればそれでいい。
そういうレベルにまで高めればいいだけの話。
どんなことだって経験は財産だと思っている。
それを無駄にはしたくないし、無下に扱いたくもない。
もうずいぶん前だけど、車椅子バスケット、車椅子ラグビー、パラ水泳のそれぞれのコーチのみなさんも口をそろえて言ってた。
「それは財産であり、アドバンテージですよ」
と。
ということで、自分をしっかり磨いていこうとあらためて思う。
最近は新しいことへもチャレンジし、思いのほか良い手ごたえをつかめたりもしている。
それは間違いなく健常者の経験があればこそだと思っているし、積み重なったものの恩恵でもあると考える。
そして健常者時代の経験が、プレーだけでなくトレーニングやモチベーションなどなど、全方位で僕を押してくれることを実感する。
僕を評価するのは僕以外の人。
僕以外の人に、経験は財産だと思わせなければいけない。
でなければ、それはただの自己満足で終わる。
それがどうなるのか、自分の努力次第なのだな。
ということで、明日も充実した一日を過ごそうと思う。
俗にいう「器用貧乏」な状態になるという。
確かに、その考えは理解できる。
なまじ知識や経験があるが故に、当時とは違う身体能力(と表現しておく)にもかかわらず、当時と同じことをしようとし、それが結果的にミスをより多く生み、失点となり試合で負けるというのだ。
あるいは、健常者的発想が車椅子利用者という現実とギャップがあり、それがミスを生じさせるというもの。
健常者のような格好の良いフォームで打つ、格好の良いプレーをする、それを前提として考えると、そこにはやはり現実とのギャップがあり、それがミスを生じさせ、結果的に負けを呼ぶというのだ。
格好よく打てても、1本決まっただけだと、試合で勝つなんて到底無理。
だから、健常者の経験は無い方が良いのかもしれない。
そんな意見さえあるというのだ。
間違っているとは言わない。
でも、僕はその考えを採用しない。
器用貧乏?
それを通り越したレベルに達すれば、誰もそんなことは言わないはず。
杭は中途半端に出すとダメだけど、利用できるくらいに出し過ぎればそれでいい。
そういうレベルにまで高めればいいだけの話。
どんなことだって経験は財産だと思っている。
それを無駄にはしたくないし、無下に扱いたくもない。
もうずいぶん前だけど、車椅子バスケット、車椅子ラグビー、パラ水泳のそれぞれのコーチのみなさんも口をそろえて言ってた。
「それは財産であり、アドバンテージですよ」
と。
ということで、自分をしっかり磨いていこうとあらためて思う。
最近は新しいことへもチャレンジし、思いのほか良い手ごたえをつかめたりもしている。
それは間違いなく健常者の経験があればこそだと思っているし、積み重なったものの恩恵でもあると考える。
そして健常者時代の経験が、プレーだけでなくトレーニングやモチベーションなどなど、全方位で僕を押してくれることを実感する。
僕を評価するのは僕以外の人。
僕以外の人に、経験は財産だと思わせなければいけない。
でなければ、それはただの自己満足で終わる。
それがどうなるのか、自分の努力次第なのだな。
ということで、明日も充実した一日を過ごそうと思う。