2011.10.12(水) 続き
永昌寺の山門前で三人目の語り部さんに交代して
今日のゴール地、田丸城址を目指します 14:25
人家の庭先に真赤に熟した柘榴がひとつ
パックリと開いた口に赤いルビーがこぼれそう
多気町より玉城町へと入り
外城田川、西外城田、東外城田と地名が続きお城があったことを匂わせます
今までの山並みももう低くなり平野になってきました
民家の間を縫って歩きます
巡礼導観音の石柱碑だけが残り今はもう集落の拠り所
道を挟んだ向かいには石佛庵があります、金毘羅さんも祀られて
地元の人は親しみを込めて「金毘羅さん」と呼ぶ
たくさんのお地蔵様に旅の無事を祈願
集落を過ぎてなだらかな坂道を登って行くと左手には見事な柿畑が広がります
低く剪定された木の幹は太く古木の感すらあります
枝先にはたわわに実った次郎柿でしょうか
年に数回、柿の木に苔が生えるので高速洗浄器で落としているそうです
昔は手作業で削っていたそうです
ゆるやかに下り始めると道端に国宝・・・と書かれたお地蔵様が
土に埋もれしまった為に農民の夢枕に立ち助け出されたという民話が残され
接待地蔵として近くのお寺に祀られて暫くは国宝扱いを受けたが保存状態が悪く
国宝ではなくなったとか
田園地帯が広がり始めると前方に玉城町の街並みが見えてきます
今では石垣だけになった田丸城址も見えてきました
JR参宮線の踏切を越えて
玉城町の街にやって来ました
城下町だけあって道がコの字の如く突き当たっては右へ左へとなり縦横に交差しません
新宮からここまでやっと辿り着きました
しかしまだ伊勢までもう少し
街角にある道標はレプリカで本物は田丸城の敷地内に建てられた玉城中学校の校庭にあります
ここで大阪、玉造神社を起点とする伊勢本街道と初めて合流します
一昨年歩いてきました
懐かしく思い出しました
外城田川の流れを引き込んだ外堀を渡り田丸城へと登ります
右手には村山龍平記念館
朝日新聞の創始者ですね
旧田丸氏族だったんですね
城跡は公園になっており散策路もあります
参宮線を走っていたのでしょうか
Cですから客車用の機関車でしたか?
舗装された坂道を上がると
現存する唯一の建物
富士見門(長屋門)
野面積みの石垣が残る城跡を訪ねて見ることにしましょう
バスが駐車場に待機してくれてますので空身です
やってきました 16:55
天守閣跡、すっかり陽が傾きました
南北朝動乱の時、後醍醐天皇を吉野に迎えに伊勢に下った北畠親房が玉丸山に城を築き
南朝方の拠点としたことが始まりとされてましたっけ?
後に織田信長の次男信雄が城主となるも金奉行の放火により焼失
この時代に今の大河ドラマのヒロイン「江姫」もいとこに当たる信雄を伊勢参宮のおりに
訪ねたのであろうということです
以降、蒲生氏郷、藤堂氏、
そして紀州家臣の久野氏と主が変わり
明治2年廃城となり取り払われてしまいました
その後昭和3年に御料林(国有林)となっていたのを
城地の払い下げに際して、村山龍平氏が購入し公園として地域に提供されたとのことでした
城跡からの玉城中学校と町並み
先程の道標の本物
中学校の校庭にありました
石垣だけが残る本丸跡に季節を違えたか枝垂桜が咲いてました
静かに陽が沈んで行きます
茜色のひととき
いつまでも佇んでいたいけれど
帰りなんいざウサギ小屋へ
17:20 大阪へ向けてバスは帰ります
伊勢自動車道、名阪、西名阪、阪神と眠りこけて帰りました
大阪梅田着20:00
ウサギ小屋着21:00
ふう~~ お疲れ様でした~
休憩が多くて15キロしか歩いてないんですね~
来月でやっと
熊野古道・伊勢路も伊勢神宮にゴール
頑張ろう
永昌寺の山門前で三人目の語り部さんに交代して
今日のゴール地、田丸城址を目指します 14:25
人家の庭先に真赤に熟した柘榴がひとつ
パックリと開いた口に赤いルビーがこぼれそう
多気町より玉城町へと入り
外城田川、西外城田、東外城田と地名が続きお城があったことを匂わせます
今までの山並みももう低くなり平野になってきました
民家の間を縫って歩きます
巡礼導観音の石柱碑だけが残り今はもう集落の拠り所
道を挟んだ向かいには石佛庵があります、金毘羅さんも祀られて
地元の人は親しみを込めて「金毘羅さん」と呼ぶ
たくさんのお地蔵様に旅の無事を祈願
集落を過ぎてなだらかな坂道を登って行くと左手には見事な柿畑が広がります
低く剪定された木の幹は太く古木の感すらあります
枝先にはたわわに実った次郎柿でしょうか
年に数回、柿の木に苔が生えるので高速洗浄器で落としているそうです
昔は手作業で削っていたそうです
ゆるやかに下り始めると道端に国宝・・・と書かれたお地蔵様が
土に埋もれしまった為に農民の夢枕に立ち助け出されたという民話が残され
接待地蔵として近くのお寺に祀られて暫くは国宝扱いを受けたが保存状態が悪く
国宝ではなくなったとか
田園地帯が広がり始めると前方に玉城町の街並みが見えてきます
今では石垣だけになった田丸城址も見えてきました
JR参宮線の踏切を越えて
玉城町の街にやって来ました
城下町だけあって道がコの字の如く突き当たっては右へ左へとなり縦横に交差しません
新宮からここまでやっと辿り着きました
しかしまだ伊勢までもう少し
街角にある道標はレプリカで本物は田丸城の敷地内に建てられた玉城中学校の校庭にあります
ここで大阪、玉造神社を起点とする伊勢本街道と初めて合流します
一昨年歩いてきました
懐かしく思い出しました
外城田川の流れを引き込んだ外堀を渡り田丸城へと登ります
右手には村山龍平記念館
朝日新聞の創始者ですね
旧田丸氏族だったんですね
城跡は公園になっており散策路もあります
参宮線を走っていたのでしょうか
Cですから客車用の機関車でしたか?
舗装された坂道を上がると
現存する唯一の建物
富士見門(長屋門)
野面積みの石垣が残る城跡を訪ねて見ることにしましょう
バスが駐車場に待機してくれてますので空身です
やってきました 16:55
天守閣跡、すっかり陽が傾きました
南北朝動乱の時、後醍醐天皇を吉野に迎えに伊勢に下った北畠親房が玉丸山に城を築き
南朝方の拠点としたことが始まりとされてましたっけ?
後に織田信長の次男信雄が城主となるも金奉行の放火により焼失
この時代に今の大河ドラマのヒロイン「江姫」もいとこに当たる信雄を伊勢参宮のおりに
訪ねたのであろうということです
以降、蒲生氏郷、藤堂氏、
そして紀州家臣の久野氏と主が変わり
明治2年廃城となり取り払われてしまいました
その後昭和3年に御料林(国有林)となっていたのを
城地の払い下げに際して、村山龍平氏が購入し公園として地域に提供されたとのことでした
城跡からの玉城中学校と町並み
先程の道標の本物
中学校の校庭にありました
石垣だけが残る本丸跡に季節を違えたか枝垂桜が咲いてました
静かに陽が沈んで行きます
茜色のひととき
いつまでも佇んでいたいけれど
帰りなんいざウサギ小屋へ
17:20 大阪へ向けてバスは帰ります
伊勢自動車道、名阪、西名阪、阪神と眠りこけて帰りました
大阪梅田着20:00
ウサギ小屋着21:00
ふう~~ お疲れ様でした~
休憩が多くて15キロしか歩いてないんですね~
来月でやっと
熊野古道・伊勢路も伊勢神宮にゴール
頑張ろう
「休憩が多くて15キロしか歩いてないんですね~」
頑張りますね、15キロ何とか歩けるだろうけど
余裕はありせん。スタミナにポチです。
当方は学習よりも旅人気分と道標・常夜燈チェックがメインになってます。
伊勢路は、奈良から伊勢街道を歩いて伊勢に到達してから熊野に向けて出発するつもりです。
だから当分先の話になりそう・・・・。
なのでここでしっかり勉強させていただきます~!!
多分一人だとただひたすらに歩いてしまうかも知れません
歴史の要所も見過ごしたり気になっても立ち寄らずにね
語り部さんの話が聞けて始めて歴史を紐解きます
でも、直ぐ忘れるのです(笑)
皆でわいわいとおしゃべりしながら歩くと以外に歩き切ってしまいますよ
お弁当のボリュウムが歩いていなければ残すほどのをペロリと平らげてますからスタミナは充分です(^^;
其々の興味の範囲での歩きが一番だと思います
ワタシも常に、昔の旅人はこんな山道を草鞋で雨の日は蓑傘だったんだろうか、なんて思いながら峠を越えたり川を渡っていますよ
伊勢から熊野への方が何かと歩き易いかも知れません
素敵な田園風景です。最後のお写真、癒されますわ♡ ぽち
おタケさんにとってはたいした距離じゃないかもしれませんが、
歩きなれない者にとって、15キロは相当な距離です(><)
こんばんは~~
空が真っ赤よりぼわ~~んと茜色が一番ほっとしますよね~
かく言うワタシも3年前までは10キロの道のりにも根を上げてたんですけどね(^^;
歩き出して心身ともに強くなったようです
タダ~~一つマイナスは食欲に負けてメタボに拍車がかかった~(笑)
来年は東海道五十三次 お江戸日本橋まで行きますか?
これで古道は全て歩くのかな