へそ曲がりおじさんのひとり言

常識にとらわれるのが嫌い。
他人と同じ事が嫌い。
世の中、別な角度から見ると新しい物が見えるから。

小学生がメール中毒に

2008年05月16日 03時54分42秒 | Weblog
NHKの放送で「小学生のメール依存症」をテーマにした放送があった。
前にも書いているのだが、「依存症」と言う言葉には「違和感」を感じてならない。
「依存する」と言う言葉には、「当てにする」「寄りかかる」「頼りにする」と言った様な意味があるのだが、小学生に限らず「メールに熱中している人」の多くは、どう見ても「メールに縛られている・支配されている」と言ってよいだろう。
「縛られている・支配されている」と言う言葉を、別な表現をすれば「奴隷になっている」と言うことも出来るだろう。
麻薬中毒が薬物中毒に言い換えられ、更に「薬物依存症」に変わって感じるのは、「言葉の持つインパクトが薄くなった」と言うことで、「罪の意識も薄くなる」と言えるのではないだろうか?。
小学生・中学生・高校生に、何故に携帯電話を持たせなければいけないのであろうか?。
いろいろな理由があるのだろうが、果たして本当にそうなのであろうか?。
「有れば便利」「無いと何かの時に不便」などと、「有用性・利便性」が強調されているのだが、その裏に「大きな代償」が伴ってくる事も考えなくてはいけない。
最近の物価高で少しでも家計を助けようと、スーパーの特価品を買おうと何軒ものお店をはしごする人がいるが、よくよく考えると「ガソリン代のほうが高かった」と言うのと同じ事では無いだろうか?。
「片時も携帯を手放さない」と言う状態では、「落ち着いて何かをする」などと言う事は到底出来ないだろう。
学力が低下するのは「至極当り前の話」で、日本の「国際的地位の低下」は益々ひどくなるであろう。
かつて「テレビは人間を白雉化させる」と言われていたのだが、今度は「携帯が人間を無能化させる」のではないだろうか?。
携帯ばかりではない、テレビゲーム、インターネット、便利になった家電製品・自動車なども気を付けなくてはいけないだろう。
使う側がコントロールして使っていれば良いのだが、気を付けなくてはいけないのは「使っているつもりが、何時の間にか使われていた」と言うことである。
「使われていた」と言う事は、「奴隷になっていた」「中毒(依存症ではない)になっていた」と言うのと同じ事である。
どんなに苦い薬でも、オブラートに包んで飲めば苦味を感じないで飲む事が出来、「薬としての効き目」が薄れる事は無いのだが、言葉の場合はそうは行かない。
言葉の場合は、表現を和らげれば、「和らげた成りの効果」しか期待できないと思うのだが・・・・。
コメント (4)
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