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おさ

2019-10-13 | 日本語教育史

古代の言語接触を考えるに、おさ、通事、そして帰化のことがある。帰化という呼称を渡来とする議論もあるようであるが、帰化人となることに、言語のことが想定できる。>『日本書紀』の用法において、「帰化」「来帰」「投下」「化来」はいずれもオノヅカラモウク、マウクと読み、概念に違いはない  という解説がある。>「帰化」という語句の本来の意味は、「君主の徳に教化・感化されて、そのもとに服して従うこと」(後漢書童恢伝)  以上は、ウイキペディアより



ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説
渡来人
とらいじん
古代に中国や朝鮮半島から日本に渡来した人々,およびその子孫。縄文時代ないし弥生時代にはすでに大陸から日本へ渡来した人々がいたことがうかがわれる。また,平安時代以降も大陸から日本に渡ってきた人々はいたが,歴史上特に重要な意味をもつのは 4世紀末から 7世紀後半に移住した渡来人である。渡来人は五経博士による儒教や易,医学,暦などの学問,須恵器の製法や機織りなどの技術,文化を日本に伝えた。大和朝廷では優遇され,官人として登用された者も少なくなかった。弘仁6(815)年に編まれた『新撰姓氏録』に記載される 1182の氏のうち 326が諸蕃(しょばん。→蕃別),すなわち渡来人系氏族であり,全体の 3割ほどを占める。諸藩の出身地ごとの内訳は,漢が 163,百済が 104,高麗(高句麗)が 41,新羅が 9,任那が 9となっている。大和国の高市郡(たけちのこおり)が『日本書紀』に今来郡(いまきのこおり)とあるのは渡来人を多く住まわせた地だったことに由来し,摂津国の百済郡(くだらのこおり)や武蔵国の高麗郡(こまのこおり。→日高市)などの地名も渡来人にちなむ。渡来人の呼称のもととなったのは『古事記』などにみられる「渡来」「参渡来」の語である。かつては『日本書紀』にある「帰化」という語から「帰化人」と呼ばれたが,大和朝廷において「帰化」の語が「君主の徳を慕って帰服した」という意で用いられており,国家の成立以前に移住した人々や強制的に連れてこられた人々まで含めて「帰化」と一括するのは妥当でないなどの批判から,今日では主として渡来人と呼ばれる。


日本国語大辞典より

おさ[をさ] 【訳語・通事】
解説・用例
〔名〕
外国語を通訳すること。また、その人。通訳。通事(つうじ)。

*日本書紀〔720〕推古一五年七月(岩崎本訓)「大礼小野臣妹子を大唐(もろこし)に遣はす。鞍作福利を以て通事(ヲサ)と為」

語誌
(1)「観智院本名義抄」で「訳 ヲサ」のサに複点があるが、書陵部本には単点があり、観智院本の方は誤点ではないかと疑われる。
(2)遣隋使、遣唐使派遣時代の通訳は「をさ」と呼んで、「訳語」「通事」と表記したが、室町時代になり新たに遣明使が遣わされるようになると、「通事」を音読した「つうじ」の呼称が用いられるようになった。中世の節用集類にも、「ツウジ」は見られるが、「をさ」は見えない。


世界大百科事典
訳語
おさ

古代の通訳。通事とも書く。〈ヲサ〉は古代朝鮮語であろう。大化前代に中国大陸や朝鮮半島諸国との通訳を職掌として世襲する渡来人系氏が生まれ,のちに姓(かばね)としての日佐(おさ)を帯びた。しかし,時代の変化により,これらの氏と異なる訳語・通事が任命され,遣隋使小野妹子には通事鞍作福利(くらつくりのふくり)が随行し,701年(大宝1)任命の遣唐使の大通事には垂水広人(たるみのひろひと)がみえる。また722年(養老6)には,蝦夷・隼人の征討に訳語がみえている。730年(天平2)に粟田馬養(うまかい)ら5人に弟子を取って訳語を養成させ,761年(天平宝字5)には新羅征討を企図して,美濃・武蔵国の少年たちに新羅語を学ばせた。《延喜式》には大宰府に大唐通事,新羅訳語がみえ,813年(弘仁4)に対馬にも新羅訳語が置かれた。また来朝する渤海使の対応にも訳語が任命され,新羅使・渤海使側の通訳も通事・訳語と呼んだ。
[野村 忠夫]


日本大百科全書(ニッポニカ)
訳語
おさ

古代の官職名、氏(うじ)の一つ。通訳の意で、通事(つうじ)とも書く。また曰佐(おさ)とも書き、その語源は百済など朝鮮諸国の氏姓に由来する古代朝鮮語と考えられる。当初は遣隋使小野妹子(おののいもこ)の通事鞍作福利(くらつくりのふくり)のように、渡来系氏族が登用されたが、次第に留学経験者などで会話に堪能な者が登用されるようになった。初見は『日本書紀』雄略7年是歳条。『延喜式』には遣唐使の訳語・新羅訳語・奄美訳語、遣渤海(ぼっかい)使、遣新羅使の訳語や大・小通事が見える。官職名から氏名に転じた例もあり、曰佐氏は山城国相楽(さがらか)郡、大和国添上(そうのかみ)郡、近江国野洲郡など畿内とその周辺に分布した(『新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)』など)。
[森 公章]


ウイキペディアより

訳語 おさ とは、古代日本における通訳のこと。通事とも表記された。

古墳時代後期にヤマト王権と中国大陸・朝鮮半島との国家的な交流の増加とともに帰化人の中から通訳の事を行う一族(氏)が登場した。

だが、世代を重ねるにつれて言語の変化もあって世襲の氏による訳語の価値が減じ、代わって留学経験者などが訳語の役目を務めるようになった。また、大学寮においても音道が設けられていたが、9世紀前半には世襲や大学寮による育成は形骸化[1]し、そのため来日外国人から教授を受けたり、当人を訳語に抜擢する方法が採用された。

『延喜式』には遣唐使・遣新羅使・遣渤海使などに訳語・通事が置かれたことが知られる他、新羅訳語・奄美訳語などの官職が存在したことが知られている。新羅訳語・奄美訳語については、漂着時に備えて新羅や奄美の言葉を話せる者を同行させたとする見方と、新羅・奄美出身の訳語とする見方がある。

当時の東アジアでは漢字および漢文が広く用いられていたことから遣唐使なども文書を読むことや筆談に関しては支障がなかったとみられているが、会話に関しては訳語なくして円滑なコミュニケーションを取ることは困難であった。また、唐国内では遣唐使などの外国使節は役人以外の唐の人々と会話をすることは禁じられていた(『唐律疏議」巻8衛禁・越度縁辺関塞条疏議所引「唐主客式」)が、現実には船が漂着した時や必要文物の調達などのためには現地住民との会話が必要となるため、訳語の存在が必要であった。また、留学生においても同様であり、最澄は同行していた弟子の義真が訳語としての能力を有していたおかげで業を為し得たことが知られている(『扶桑略記』延暦21年9月2日条)。

なお、『唐六典』によれば、唐の鴻臚寺には定員20名の訳語が設けられていたと記されているが、その多くが新羅などの近隣もしくは使者の来訪が多い国の訳語であったとみられ、日本語の訳語はほとんどいなかったとみられている


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