独創という語は使いにくい。独創性、独創的であれば、用いる場面は多そうだ。独創の技術、独創の成果、独創である、というふうに使って、日本人にあてはめて考えると、思い浮かぶことは何か。独自の新しい考え、思いつきで、ものごとをつくり出すこと、というのが、なかなかにない。すると、日本の独創はないかとなると、そうでもない。いわく、ノーベル賞が証明しうることは、その分野における日本人のひらめきである。ノーベル賞受賞者は物理学賞10人、化学賞7人、医学生理学賞3人、文学賞2人、平和賞1人の計23人になる。 . . . 本文を読む
合理は物事の理屈に合っていることと考えると、理屈は何かと考えてしまうし、ものごとの筋道であるとするので、理屈はまた、道理であるとすると、その理を言うのはなにを対象とするかとなる。そして合理性という語にはさらに、合理主義の意味内容を思わせることになる。 17世紀ないし18世紀、近代哲学の認識論の捉え方であるとの、説明がある。その主義には、理性、論理、合理性に依拠する態度とあるので、理性主義と言ったふうにもなって、さきの日本人の理屈が感覚、経験であることが多いので、日本社会の習慣、伝統に左右されて、はなはだ合理性がないようなことである。ブログの記事の中で、>「ルールだから守ろう」という怠けた説明が嫌い。「この理由だからルールなんだ」だと、より守りたくなる。出典:https://twitter.com/ というのがあって、その発信者は厚切りジェイソンの考え方を紹介し、日本社会の忍耐主義的なものを対比している。 . . . 本文を読む
経済を文字通り、経世済民にあるとすれば、それは政治である。>経世済民は、中国の古典に登場する語、文字通りには、「世を經(おさ)め、民を濟(すく)う」の意。 略して「經濟」(経済)とも とある。それを、 political economyを翻訳したのは、福澤諭吉だという。世のため人のため、社会、政治、そしていうところの経済を包含する。ウイキぺディアは、翻訳について、>「経済(学)」がエコノミーもしくはポリティカル・エコノミーの訳語として定着するには若干の問題があり、例えば西周は『百学連環』(1870年(明治3年)刊)で、エコノミーとポリティカル・エコノミーの区別を重視して前者に「家政」、後者については国家の「活計」を意味するものであり、津田の訳語「経済学」では活計の意味を尽くしていないとして「制産学」の訳語を与えている。このように個人(もしくは企業)の家計・会計と国家規模の経済運営を分けて考える立場はしばらく影響力を持ち、後者については「理財」の訳語が用いられることもあり(1881年刊『哲学字彙』では"economics"の訳語)明治初期の大学・専門学校の学科名としては「理財学」がしばしば用いられた。 と、解説がある。経済を近代の概念で使うようになったのは、経済学の捉えかたである。 . . . 本文を読む
日本人の文学は哲学であると考える。虚構を旨とする近代文学には哲学を求める前に文学であることが求められるが、文学をもって古来、言葉の論理を追求してきたの日本の文学であると結論する。それは文学とする作品の包含する分野、言い換えれば対象となる言語の記録が言葉との対話にあるものにおよぶからである。しかしそれは必ずしもメタ言語とならない事象でもある。どういうことか。文学は中国古典に学び、その言語を語る対象として一方で韻文を醸し、一方で、散文を作ってきたのであるから、哲学の手法の問答とその修辞の実践を日本語に実現し続けてきたのである。その日本語の拠るべき対話は注疏であった。学問はそこにあり、哲学問答を繰り返すことになる。言葉を発すれば感情を伝えるとする日本文学の特性は何よりも短詩型文学に現れて、謳うことが行われ続け、まさに哲学のアフォリズムの実践にも等しい、言葉の長短の世界である。そして日本語が言葉を駆使して西欧の古代哲学をとりいれ、翻訳の中に言葉の論理を再び構築することを行ってきて現代にいたっている。人文学は西洋と東洋とを折衷して哲学をもって、日本の学問となったのである。 . . . 本文を読む
まず、寄せられたコメントから。
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オレ のコメント:
2011年7月21日 4:14 PM
ひどいなーこの実験!!笑
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www のコメント:
2011年7月21日 6:59 PM
木を見て森が分かったようなきになっとるwww
こういうのを視野が狭いといいます
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社会の語はいつから、どう使われたか。その初出を、近思録として日本国語大辞典は、解説の見出しの後に補注する。それによれば、その文献での年代は、1176年である。中国語の語義では、社shè というのは、土地の神を祭ったところという意味で、人びとの集りという意味の、会huì をつけて、村人たちが土地の神を祭ったところに集まる、といっている、のであるから、これは現代の意味での社会とは別のことである、世界大百科事典で説明がある。ちなみに近思録について、>中国語に関しては,宋代の儒学者程伊川(1033-1107)の遺著《二程全書》に〈郷民為社会〉とあるのが引用されるのが常である(この句は朱子と呂祖謙によって編さんされた《近思録》にも収録されている)。現代の中国語で用いる〈社会〉は,日本語からの逆輸入によるものである。 社会性を問うことは、それまでに、使われた、世間 で考えることになるか。辞書議には、福地桜痴、明治8年、1875年1月14日、東京日日新聞に、ソサイチーのルビ付きで使ったと説明している。 . . . 本文を読む
globalization グローバリゼーション その意味する、社会的、経済的に地球規模に拡大して様々な変化を引き起こす現象というのをとらえている。グローバル化と言ってきたのは、何であったか。デジタル大辞泉に、>国家などの境界を越えて広がり一体化していくこと。特に、経済活動やものの考え方などを世界的規模に広げること。グローバライゼーション。 とある。かつては、国際化 internationalization、多国籍化 multinationalizationなどと呼ばれていたというが、いずれも時代の変遷を意味する内容を持つ。日経新聞記事、コラム大機小機が適切に書いている。それは、グローバル化疲れであると、調整期をとらえる。 . . . 本文を読む
芸術は技芸である。その技芸は美を作り出す。芸術は美術となる。そして、その美とは何によるか。技が美しさであるのは、その修得に人間がかかわっているからである。すなわち、こころの現れである。想芸という語があり、その語の意味する内容は、かつて神、仏の絶対者へとつながる。それが芸術の始まりなのである。すると、洋の東西において創造された想芸の対象は異なることになる。文字の表す意味で、また芸の字を見ると、通行字体と旧字体の示すところと、その違いがあるが、旧字によると、草木をうえることである。芸術と技術を類義としてみると、近代の翻訳概念で、日本語の技術はドイツ語の、Kunst 技術的能力の意味内容を受けていることがわかる。また、日本語は、わざ こころ そして、こと としてとらえるので、いわば、人間業である。その対象を自然の景色、風物に求めて芸術性を高めてきている。言葉による花鳥風月の現れは、そのふさわしき伝統である。言葉が生み出した美のとらえ方は日本人の情緒にある。あらゆる美の造形に花鳥風月が見える。日本の伝統である。
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文化の語に接尾辞をつけると、わかりにくいタイトルになる。検索語にも、文化と、性とを前後してヒットする。文化のあり方を追及すると、そこには良いものとしての、また、悪いものとしての評価を二分することになるが、それもまた言ってみれば、その立場の主観となる。よいという評価と、そうでないものとは見方によって表裏一体なのである。文化性とすると何をとらえるか。これまでも接尾語にこのタイトルがあらわす議論を見ることができる。それで、ひとつのサイトを見つけて、そこに書かれているのは日本人の性格に関する記事である。それに目を停めた。まずは、こうである。日本人の評価のあるところとして並ぶのは次である。文化と日本人の性格と、その記述するところ、過剰にしたことがらを追っていくと、おのずと文化性が議論となる。過度に集団行動を好む、というトップ項目は、これがそうであるのは偶然な順序によるものかもしれないが、まさに、集団行動として取り上げられれるものであるが、その集団に働くのは、実はそれ以下に続く項目の内容を包含するものである。そのことに、まず私たちが気付かなければならない。いわば、集団と礼儀、集団と秩序、集団と綺麗好きなどといったふうに、どれもが集団行動また集団意識にかかわるのである。 . . . 本文を読む
日本人が勤勉であるとして、どのように説明または証明されるか。と、思って検索をして、勤勉革命の語があることを知った。勤勉性を、勤勉革命にとらえて説明がある。それはヨーロッパの産業革命にならべられるので、その説明の、>歴史人口学者の速水融により1976年に提唱され、産業革命(industrial revolution)に因んで勤勉革命(industrious revolution)と名付けられた とあるところ、さらにはその歴史的な展開には、>日本人の「国民性」とも言われる勤勉性は勤勉革命、つまり経済原理に則った江戸時代農民の行動によって培われたもの という解説である。勤勉性について産業革命、生産革命と対比して議論している。 . . . 本文を読む