思春期から青春期に、ストレスを強く受けていたと、いまにして思う。それは成長期にありがちな誰にも起こることであろう。その個人的事情が人によってあるわけであるから、それはまた個別のことでもある。わたしに言えば、家庭事情と言うことだが、引き上げた家族を養う家業のことであった。よく言うが、いうところの起業家であり社長でもあった父親が会社を3度めの正直で作ったとすれば、それはそれなりに、大変なことであった。裸一貫などとその働きようを表現するがまさにそうだったのであるから、当時に上海の租借地から子を4人引き連れて帰るのに持ち物は何もなかった、写真すら捨ててきたのであるから、戦後の混乱期には、昭和の20年代に社会情勢とともに波乱万丈があったことだろう。記憶にあるのは、西宮球場の外野スタンドの下にあった工場であるから、そのときの、事業拡大の様子から一転して、その経営をやりくりして、つねにあったのは、父にあったのは製造業の苦しみだった。 . . . 本文を読む
うがった見方をする というときに、うがったような見方をするな、とか、うがったようなことを言うな、とか、表現することから、この表現の正しい意味内容が、わからなくなってしまったのだろう。穿ったようなこととなれば、事実に対して真実はこうだろうというような、また、うがった見方がある、と言うのに対して、うがった見方もある、と添加する表現にしてしまうことによって、穿つの意味合いを変えてしまっている。しかし、穿ち話とか、穿ち者という語に加えて、穿ち顔と言う用法もあって、穿ち、穿つこと、そのものが、穿ったことをする、となるときに、気づかれない話をする、奇をてらうことをする、そして、知ったような顔をする、というふうに、穿つこと自体の捉え方に、経験を持つことがない。ところで、この語の本来は知れば知るほど、これを穿てば、>うがった見方を、物事を深く掘り下げ,本質を的確に捉える としてしまった、調査の項目は、とんでもない勘違いではないか。 . . . 本文を読む
閏月 29日は、閏日 うるう と、この文字による呼称になるのは、潤字に通じた読みからだそうだ。
leap year とは、閏がある年のこと、閏年でない年のことは平年 common year と呼ぶ。うるう うるおう というと、意味内容がずれるようでもある。それを、>”うるう”という読みは、閏と潤を混同して”うるおう”という読みがなまったものだという。 ウイキペディアより このように解説することから、その淵源は字を当てたときにあるわけだから、暦とともにあるということになる。そしてまた、>多くの太陽暦においては約4年に一度、余分な1日となる閏日が入れられる。多くの太陰太陽暦においては約3年に一度、1ヶ月を余分に入れてそれを閏月と称する。 と見えて、じゅんじつ、閏日と、じゅんげつ、閏月と、それぞれ暦によってある。さてそうなると、閏秒にまで及ぶことになって、>現在の1秒は原子の振動を元に定義されており、常に一定間隔で時刻が刻まれている。しかし地球の自転速度が一定ではないため、原子の振動に基づいた時刻の定義では、実際の昼夜とのずれが生じることになる。これを補正するため、ずれが0.9秒を超えないように余分な1秒となる閏秒が挿入される(定義上は1秒を削除することもあり得るが、実際に行われたことはない)。 . . . 本文を読む
いわば虚弱であった。痩せていた。10歳のころの蚊トンボのような、わが姿の写真があった。胃下垂によるものだろう。体質でもあったから。学校給食の食パンに苦しんだ。太ることなく身長ばかりが伸びた。12歳のころ、偏頭痛を気にし、冷えるため、さらに風邪をひいては扁桃腺を赤くはらした。扁桃腺肥大症は8歳のころから自覚する。痩せて、頭痛もちで、扁桃腺が弱いと来れば、絵に描いたように神経質ということになる。そのことは今でも変わらないから、周りは大きな迷惑だろう。体質の転換はいくつかのできごとをもって、それは軟式の庭球に興じたり、意地張りの頑固であったり、大きなきっかけは、小心者であるにもかかわらず、人前を恐れなくなって、気づけば人気者になったりもした。身体機能にはちょっとした異変が7歳のころにあったが、街医者は首をかしげただけで、横隔膜が作用するとかなど、診立てをした。腹腔内か、胸腔で音がして気になったのである、成長期のバランスで、ほどなく忘れてしまっていたが、そのあとに身長がぐんぐんと伸びてしまったので、バランスはますます崩していただろうに、生来の神経質と、行動の大胆さと、程よい勉学で克服した、とでもいえるだろうが、実は、思春期のまっただなか、17歳で病を起こすことになる。手術には至らぬようなことで、受験期の半年間を戦うことになる。5月に発病して、8月までの安静と休養、体力の消耗はその10月ぐらいまで続いていた。胃下垂気味と偏頭痛と、扁桃腺と、そこに加わった心臓の袋の合併症だった。それから、一病息災で生きてくることになる。 . . . 本文を読む
いまふうに言えば、気を置く と理解する言い方で、置く 置ける となる、対象の捉え方である。気と言うことである。気を置くのは、いわば、安気であるとなる、その状態を意味する。気を置く、つまり、気が置ける対象を、あなたに求めることである。気が置けるのだから、安心していることになる。その気が置けないわけであるから、本来には、気が置けない人であるというのは、、安心できない相手となる。ところが、気を置く というときに、相手に気遣うとの用法があって、さきとは意味が逆転する。気を置く、ほっとする、と言うのに対して、気を置く、遠慮する、となってしまうから、このどちらなのかという言い方には、気を置くことができない、となってしまう。そしてさらには、語の慣用で、気が置けないではなくて、気の置けない人 というふうに、意味のまとまりを作るようになっていて、その気を安気ではなくて、遠慮の気に使用することになる。 . . . 本文を読む
インフルエンザは10日前のことであった。発症を近くの医師の診断で確かにして3日の足止め、5日の休息をして、と言いたいところ、初期治療で高熱にはならず治った。この4-5日は体力回復と風邪症状のおさまるのを様子見をした。その間にも、仕事は休めないので、7日目には恢復をはかった。A型は流行期が過ぎてもB型があるとか、この流行は変形らしい。すなわちAのあとにBにまた罹患するらしく、その流行が3月にやってくるというのだから、これは油断ならない。しかし予防注射があっって、そのうえでこの様相だと、わたしとて例外にはならない。医師の指示による特効薬の吸入はあれよと言う間に症状を抑えてしまったかのようで、その後遺症があるだろうにと過ごしてきた。病気がそうであるのかどうか、ウイルスを取り込んでも追い出してしまえば、体力にも影響しないということだろうか。 . . . 本文を読む
漢字の読みにある。
割る を、さく と読む。
さく は、ものごとをわけることである。
愛はそのままである。
愛を愛情とすれば、それを断ち切る。
その思いがわかれば、この語を用いるようになるが、日常、社会生活においてはその場面がない。
経験するのは、出家といったことであるから、その現実にはない。
ただ、その宗教用語ですれば、愛には物欲を諭す愛があり、それは執着心ともなって恩愛断ち切りがたいものとする、その愛であるから、ものに対する思いを断ち切ることもあるわけである。
近代になってその用法が見えるようになるには、惜しんで分かつ、という意味用法になる状況が必要であった。
文例には、文献資料の範囲にある、寺田寅彦の文章に見える例が多い。 . . . 本文を読む
失笑についての解説はとらえやすくなった。笑ってはいけないところで、笑いをこらえていて、つい笑ってしまうことであるとする。ニコニコ大百科の説明である。失笑の失字の理解ができていないところを、解説ではわかりやすく言う。失笑を買う この慣用句が場面においてわかりにくくなって、失笑を買う方の行為だけが強調されるようなことになってしまっているようである。その行為に向けた笑いの捉え方の違いで、笑う側が笑いをこらえるだけになってしまったかのようである。 . . . 本文を読む
敗戦による引き揚げ家族である。岩波日本史辞典を引く解説では、>引揚者(ひきあげしゃ)とは、第二次世界大戦(太平洋戦争・大東亜戦争)の敗戦によって、台湾・朝鮮半島・南洋諸島などの外地や、日本から多数の入植者を送っていた満州(法律上は外国)、また内地ながらソ連侵攻によって実効支配権を失った南樺太などに移住(居住)していた日本人で、日本軍の敗北(降伏)に伴って日本本土に引き揚げすなわち帰国した海外在住日本人を指す ウイキペディアより と見える。この範疇に入るか、どれにも入らないようであるが、敗北に伴って日本本土に引き揚げてきた、帰国した海外在住日本人の家族ではあった。上海がその地であった。そのあとに、天津にもいたようだから、引き上げは天津から南下してのことかもしれない。もはや誰に聞くすべもなくなった。記憶の隅に放り込んでいればよいことなのである。しかし、出生地であった姉兄の記憶によるところ、中国本土からの日本上陸は九州であった。その身を寄せたところで、そこが工場宿舎であったようだし、日本窒素であったか、延岡の地である。宮崎県延岡市大字岡富甲の番地に大きな数字が記憶された。わずかして、ほどなく兵庫の西宮に引っ越しているから、延岡の滞在は出生地とだけ記録される。いまだにこの地名を出すことは、そのめぐりあわせを思わせられる、九州宮崎生まれである。 . . . 本文を読む
母がよく使っていた言葉だ。
と言っても、そういう人がいるとかいないとかで、話題に出たときに、ひと呼吸を置いて、感心したふうな使い方だった。
その発音も、奇特 であるよりも、きどく であったようだ。
母はどういう生き方をしたのだろうと、ふと思う。
父がまた、ああいう人であったので、・・・どういう人か。
父を語るのは難しい、そして、母である。
そうであったように、わたしもまたそうなる、そうなりそうである。
どうだか、世に無念をのこした、そういうものだと悟っていた。
母が言っていた、仁徳、陰徳、世のためになるように、と。
そこにキドクがある。 . . . 本文を読む