詩学の分野について、何を研究するか。詩法、詩論もある。詩学は著作でもある。原題はギリシャ語 Peri poitiks 、アリストテレスの著作である。詩法は韻律などを明らかにする。詩論は詩についての評論でもある。詩を創作、批評する場合のよりどころとなる理論途もある。広く詩学をとれば悲劇、劇詩を抒情詩や叙事詩などより上位に位置づける西洋文学のジャンルの議論になる。散文、韻文に分ける日本文学では劇詩を最高の文学とする考え方はない。一方で、詩法に主眼を置いた死に作り方の分析から詩論に至る研究としてとらえれば、詩についての研究となる。詩を作る方法には修辞技巧の議論がある。詩の本質を論じればまさに文学研究となる。日本文学で詩を扱うのは漢詩を学んだ表現法とその影響、また近代になって翻訳による西洋詩の新体の影響である。 . . . 本文を読む
現代日本語「誤」百科 869 命が危険な場所 を、例題にしている。コラムはこの例題を、こう言ってもよさそうな気がする、と説明をする。そのような言い方には、水が綺麗な池 服装が清潔な人 を挙げている。この例題は、水が綺麗だ、とか、服装が清潔だ、とか言うことができるのに、命が危険だ とは言えないので、表現は不適切ではないかと解説している。この説明で、危険という語の意味内容として生命や身体を損害する可能性があるとして、命が損害をもたらすというふうに、あぶなく険しいというのを動作性でとらえている。この句は、命の場所、それはどんな場所であるか、危険な場所のように、修飾関係が働いている。命の危険な場所である。命が危険であるのは場所によっている。場所という名詞には、危険であるかどうかの場所としての性質属性を特定しているのである。命が危険なのは、繰り返すが場所なのである。ところがさきの例も同様に考えてみると、これは、水の池、それはどんな池か、綺麗な池のようになる。ことばの順序でいえば、池の水、どんな水か、池の、綺麗な水となっている。これは、綺麗な水の池である。池の水が綺麗であるのは水に因っている。 . . . 本文を読む
アベノミクスで日本はどうなるのと言いたくなる。日本語が云々ではないけれどと思ってはみたものの、政治家はうそをつくというのでわたしに政治に関心をもたないわけで、そうすると、うそ云々でやはり日本語はどうなるか、ということになるか。あるサイトで、独り断ずべからず、必ず衆と共に宜しく論ずべし 聖徳太子 というのがあって、その、皇族・政治家 とある肩書に驚きはしたけれど、昔から変わらないイロハである。この、政治家のことばを並べるサイトに、第一に必要なるものは大胆、第二に必要なるものも大胆、第三に必要なるものも大胆なり、キケロ とあって、ローマ政治家の語がある。それで連想したアベノミクスの大胆さは、歴代に変わり続ける日本の政治家の中でも嘘の大胆さでは、引けを取らない。前の、ドジョウ宰相、イライラ市民運動家上がりの元首相、クルーピーなどなど、思い出すだけで思い出せないような発言ばかりの政治家たちで、懸命にやっているような、それでいて言葉がどうにも見え透いていた。 . . . 本文を読む
留学生教育が日本語教育の視点となり、それを辿ることで日本語教育を知る。留学生を迎えるのは清国留学生の経緯がある。遡れば留学生の視点は留学僧にまで時代を上がることになるが、そこには日本語教育はない。したがって第2次大戦の戦後になってふたたび留学生の日本語教育が盛んになるとその契機は何にあるか。日本政府の留学生受け入れ政策にある。国語教育からに日本語教育に変わってあらたに留学生に日本語促成教育をしようとした。いまふうに言えば集中教育である。そこに、賠償留学生教育と赴日留学生教育がある。それは1960年のインドネシア留学生の来日であり、そして1979年から戦後における日本語教育の画期となる、中国での赴日予備学校は、まず5か年計画が実行された。中国との友好条約の発効によって1980年代に日本語教育が中国留学生に盛んになった。 . . . 本文を読む
語は最小の意味単位とするのがふつうであった。ふつうであったというのは、国語のとらえ方が、いわば言語としての見方をつくるようになってきたからで、もともと言語であるから、それは好いとして、国語では文における語としてのあつかいである。ところが語の構成を見て語基と接辞に分ける考え方が、その意味の最小単位を変えたので、さらに形式を見て自立と結合の構造が分析されるようになった。語素という用語で説明すると、すでに辞書などでその意味を書くようになっていることであるが、これは気を付けなければならない。単語を構成する、意味を持った最小の単位としているのであるから、この語素は、morphem に相当するようである。しかし説明によってはさらに、形態素を単位にするものがあるというので、論議を見極める必要がある。形態論では、さきの morphem を形態素とするのがふつうである。どうもこの語素は造語要素とだけ説明があるので、明らかでないところがある。 . . . 本文を読む
源氏物語には系図が添えられる。
物語を読むに、わかりよいからである。
源氏物語系図として、物語だけの系図研究が行われた。
そこには、ふつうには作中人物の関係がみてとれる。
系図は各家系を皇族、大臣、殿上人、受領と並べ、略歴を簡単につける。
ふるいもので、十一世紀以来、まとめられてきたようで、十三世紀には整った。
登場人物がそれぞれの巻によっては呼称が違うこともあるように、物語の展開によって人物を追う時に、至極、便利である。
近代の長編小説によくつけられている登場人物解説のようなものだ。
源氏物語は叙述の時間と空間の展開に加えて人間心理の描写にすぐれている。
語りの文体にはそれなりに分析が加えられるところだが、歌語りの文章に、会話のうち心話の文が息づく。
そこにところどころに、顔を出すかのような草紙地と言われる文がある。
この巧みな語り口は人物関係を際立たせる。 . . . 本文を読む
日本語研究史は1980年代以降に日本語教育とかかわりをもって展開した。日本語学と言う広まりである。現代に始まったことではない。日本語教育を歴史的に見ていくと、そこには日本語を学習するための日本語そのものについての分析が行われたり、日本語を記録しようとする研究があるのを知る。たとえば17世紀にポルトガル宣教師たちにより日葡辞書が編纂された。その成果は、日本語の文法記述としてロドリゲスが著わした日本語大文典とともに日本語研究には大きな業績である。これはまた日本語の歴史を知る上での貴重な資料でもある。日本語教育の歴史は、日本語教育史となったときに、日本語研究史、日本語史とあわせて、日本語についての見方をわたしたちに与えてくれる。 . . . 本文を読む
近代詩は詩の翻訳から始まっている。新体詩抄は外山正一、矢田部良吉、井上哲次郎らの詩集であるが、明治15年、1882年に刊行された。シェークスピア、テニソンなどの訳詩からなる。漢詩、和歌に対する、新体詩の始まりとされる。詩の韻律には日本文学の伝統である音数律があるが、一方で修辞技巧はやはり音韻律を工夫する。詩のメーター、リズム、イントネーションによる。リズムとメーターは日本語ではどちらも韻律と訳される。メーターは韻文の確立されたパターンである。西洋詩の伝統では、メーターは特徴となる韻脚と、行あたりの脚数によって分類されるのが通例と解説される。弱強五歩格は1行につき5つの韻脚から成り、支配的な韻脚はアイアンブ、弱強格/短長格である。それに対し、リズムは詩行から実際に結果として得られた音のことになるようである。詩行のメーターはアイアンブ、強弱格であるといったように記述されうるが、言語がどこで休止または加速を引き起こすか、いかにメーターが言語の他の要素と相互作用するかといったリズムの完全な記述にはこれといった規定はない。韻律論はまたより特定的に、メーターを示すために詩行を解析することを指す場合もある。 . . . 本文を読む
秋桜
2013-09-29 | 日記
秋の桜と書いて、コスモス なんと、秋桜 あきざくら で、メキシコ原産のキク科コスモス属の花、コスモス Cosmos の和名とあるではないか。日本には明治時代に渡来し、秋に咲き花弁の形が桜に似ているところから名づけられたとかで、これをコスモスと読ませるようになったのは、1977年、昭和52年の山口百恵の、秋桜(コスモス) 作詞、作曲がさだまさしのヒット作となってからのことである、とあって、あらたに知ったようなことだ。 >うす紅の秋桜が秋の日の 何気ない陽溜りに揺れている 比頃涙もろくなった母が 庭先でひとつ咳をする 日本の歌百選に選ばれている。小春日和と謳っている。小春はもともと陰暦10月の別名で小六月ともいい陰暦10月、太陽暦では11月頃になるので、9月の末の今からすれば、まだ少し先だ。秋櫻子と言えば俳句作者である。 >コスモスを離れし蝶に谿深し . . . 本文を読む
語の構成は語構成論として文法論になる。国語語彙論は1950年代以降に論じられるようになり、語論とは分ける。しかし文法論の国語に対して言語の考え方が日本語学として1980年代から盛んになる。そのため、語を言語記号として説明し、形態としてとらえようとする。言語記号はソシュール学説による。形態はブルームフィールドの文法論による。したがって、語彙論を行うには語としての定義から出発するとよい。語は意味の最小単位である。言語記号は概念と聴覚映像を説明し、その後にウルマンによって音声、形式と、意味、概念の結びつきを意味の三角形とするようになった。語と言えば音声に意味が表裏一体となるコインのようにたとえることができる。形態は形式として語の音による形式を自立と結合の部分に分ける。接辞を考えればわかりよい。形態論の文法において語よりも、ひくいレベルの単位に語基をおき、語となるときの複合を説明する。 . . . 本文を読む