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感性

2017-09-30 | 日本・日本人
感性と感受性と表現すれば異なるところがある。辞書義などは意味内容同じとする。感性は積極、感受性は受身であるという、受字に表される。感性を英語に sensitivityとするが、感性 emotion、知性と対照される感情的な あるいは、 feeling gut、本能的な反応となる。さきの sensitivity、sensibility に感受性のニュアンスがあるので、この感受性は、感性とは同じか。なかには、感性に最も近い単語は、heartstrings 心の琴線 と、とらえる方もいる。また、感性を、kansei とすることが行われているようである。知性と感性であれば、哲学の議論であり、感性と感受性となれば、感覚を扱うことにもなるので、その解釈には心理学がある。美に対する感性と、自然に対する感性と、それは日本的なものを研ぎ澄ました写生、花鳥風月の風景、写実という感性が現れて、日本における価値観となる。 . . . 本文を読む

諧謔

2017-09-29 | 日本・日本人
面白い気のきいた冗談、しゃれ、ユーモア とあって、joke  jest、これは笑いものになる。おどけておかしみのある言葉、こっけいみのある気のきいた言葉、機知や滑稽、と、どの辞書義を見ても、そのほどが、よくわからない語である。漢語表現の諧謔を、諧謔精神と知るのは文学上のことであった。漢字好みの夏目漱石の作品に、作者が意図して諧謔を見せる。また短詩型の文学、俳諧にその文学理念があることも学んだ。それを英語表現による、ユーモアと解釈するのは、 humour、Humor、フモーアという概念が翻訳されてからのことであろう。滑稽本というジャンルがあるわけだから、日本文学の本質には、笑い、笑われ、笑われる者の気取りがあるのかもしれないと考える。諧謔は、人を和ませるものだからである、となる。そう言ってみて、おかしみのこと、有情滑稽と捉えられることもある、というふうに、日本語では、小咄、駄洒落、言葉遊びと、そのこと盛んなこと、日常のうちにある。 . . . 本文を読む

人心と動乱

2017-09-29 | 木瓜日記
動乱は、ただごとではない。ただごとと比するならば、歴史上にある動乱を思えば、そこには武力が伴う。いままで、世の動乱を経験したかと言えば、それが学生運動によるもの、条約闘争、基地問題など、振りかえって、地域的な武力の手前までの、ただごとならざることはあった。いずれも政治問題である。思想の闘いはここかしこ行われていたようにも見える戦後70年である。動乱期を見るとは、どういったことを見るこちになるか。それは世の中の動揺にある。例文には時代を学ぶ。そのgoo辞書には、教えてgooがあって、回答を載せる。それを見ると、動乱は歴史の経緯で政変、社会暴動、世の中の転換である。動乱そのものを詳細に研究することは人心の動揺を見ることである、と、わたしに思うが、果たしてその視点で見るならば、戦争とひとしく、見えざる動きに庶民の欲求が高まることなどは、現れるだろうか。 . . . 本文を読む

メディアの つみ

2017-09-28 | 木瓜日記
罪とは、なにか、法に触れることである。それは刑罰としてある。道徳に触れる罪がある。それは信義による。そして、罪の行為に、よくない結果をもたらすものがある。そのよくないという判断は誰がするか、宗教上の教義に照らす。罪を、罪業、罪悪とする。ざい である。選挙が始まって、街頭インタビューを報道する。解散の大義は、その意味あるかなきかを、マイクに向かって録音するが、そこには編集があるだろうから、マスコミがまずこの選挙についての世論誘導を始めることが見えてくる。法律上に内閣総理大臣の権限で、解散権の行使である。そして首相は国難を突破する選挙としtえ、現在に政治を審判するとする。それが明確になされている以上、何のことかわからないとの大衆民衆の声を拾い集めることは、それはまた、2017の変にかよう。法を犯すわけでも、道に外れることでも、また特定の教義に従うわけでもないメディアの報道が罪に見えてくるのは、大衆扇動において、日本の海、空そして陸を見ないのである、みせないから、その罪による結果は、いつの世にも繰り返される。 . . . 本文を読む

政治の動乱

2017-09-28 | 思い遥かに
大げさに言えば政治の動乱である。野党の第1党をして結党する、というのではない、名を捨て実を取る、などの言いようで。解党の動きを見せる。民進党が、その代表者の発言が、わからない。すでに希望の党という選挙仕立ての党名が、というふうに思わざるを得ない、急ごしらえの政党がふわりふわり、とできあがって、かつ消えるような、そこに民進党が、自らを合流すると言い、それを受ける希望の党の代表は、合流ではない、立候補公認をするかどうかの選択をしていくとか、これまた選挙にだけ向けた工作である。いままでの野党の話し合いはどうなったのかと、党首が交代したとたんの出来事である。労働者の党に国民を代表する顔がない。選挙を控えた政治の動乱はどう展開していくのか、都民ファーストで東京都民が示した意思に、同様の看板をかけ替える希望の党となると、何とも、都民はなめられたもの、これでこのたびの衆議院選挙の行く末によって、国民のめくらましになれば、国民が政治をなめたことになる、という、日本の暗雲である。2017政治に変をみて、日本への外圧があることを否めない。 . . . 本文を読む

語彙論

2017-09-27 | 語彙論
語彙論を話す。語と語彙の違い、単語と語集合の議論となる。語は単語になると、ひとつの形態を見る。語と形態のレベルがあるのは文法論であるから、語論に対して、形態論があるわけではない。語論似合ったのは語構成論である。語の単位を文法的に見るか、意味的に見るか、それは形式と内容の対応である。意味記述は語について行われてきているから、その意味の変遷をとらえると、語の論として歴史を見る、つまり、語誌になる。この語誌も語史というふうに表記する場合があって、語史における語彙のとらえ方で、語彙史と呼ぶ研究領域が先行した。語は形式に音声を基準とするので、文字に基準をおき漢字を語の議論にする、つまりは言葉の論議である、日本語の漢字表記、仮名表記の語のとらえ方をふつうにしてきている。 . . . 本文を読む

さわり

2017-09-27 | まさごと
文化庁国語調査、平成27年度国語に関する世論調査の結果について報告、調査目的は、文化庁が平成7年度から毎年実施のもの、1年前のリマインダーである。平成27年度国語に関する世論調査は、このブログで25日に、存亡のとき に、ついて書いた。慣用表現、誤用おけなる存亡の危機、につての使い方、またいつものように、正しい意味はどれか、さわり などの項目があった。コミュニケーションにおける日本語を、国語としなくなってしまうと、このような表現も問い方が変わってくるのかと考えてしまう。国語調査で日本語調査をするという、国語の伝統的なとらえ方を共時的に切り取ってしまうようで、調査者に国語を見ようとしない、その意図があると、結果は正しい語の用法、意味の説明にはならない。存亡の秋、危機については危急存亡の熟語の連想があるし、曲のさわり とするところ、耳障り、目障りのような連想を持たせる質問のしかたである。 . . . 本文を読む

人間

2017-09-27 | 日本・日本人
せけん  じんかん  むげん 世間  人間  無間  である。世間は世の中となった。さらには社会、世界である。人間は人類となった。さらに人々である。無間は地獄であった。さらさら、日本で描かれた地獄には悪人が落ちる。これは日本思想である。すべてに現実である、地獄に落ちるものも悪人正機となった。>悪人正機は、浄土真宗の教義の中で重要な意味を持つ思想で、「“悪人”こそが阿弥陀仏の本願による救済の主正の根機である」という意味である。 阿弥陀仏が救済したい対象は、衆生である。すべての衆生は、末法濁世を生きる煩悩具足の凡夫たる「悪人」である。 ウィキペディアより ここに仏教が作り出した差別に、日本仏教が現世においての救済を行った。神の前に、仏の前に、人間はひとしく人間であるという発想は、日本人のものとなった。神から人になり、人から仏になる、この人が人である所以をわたしたちは持つのである。 . . . 本文を読む

日本語教育に

2017-09-26 | 日本語教育の歴史
日本語教育史、日本語の教育の歴史、日本語教育の歴史、この二つでは、だいぶ異なる。言語を見るか、教育を見るか、言語史と教育史と、その違いようである。実はここには、言語研究の歴史があって、日本語研究史となることがらがある。日本語教育の歴史を見ることは、もう一方で日本語研究の歴史とかかわるからである。そうすると日本語の歴史が記述されることとなり、教育の歴史に言語の歴史をどうかかわる、かかわらせるかが、日本教育史の見方になる。とらえどころのない話となるので、それでは教育の側面から見ていくと、これも広く議論をすれば、学習のこと、教師のこと、そして教材のことと、その視点があって、それぞれのところで教育史を知ることになる。ここに、日本語教育理論を考え合わせると、その理論があるわけではないので、日本語教授理論として、日本語教授論、日本語教授学、日本語教授法と、まずは、始めることになる。 . . . 本文を読む

柔軟

2017-09-26 | 日本・日本人
柔軟なのは、よいことであるとの、価値を持つことが、日本人の庶民感覚にはある。適応力に、flexible であること、曲げやすい、しなやかな、すなおな、御しやすい、言いなりになって、融通のきく、適応性のある、弾力的な という、もろもろの意味内容を見て、柔軟には、 pliable であるのは、しなやかな、柔順な、言いなりになる、融通のきく、すぐ影響される、順応性に富む となると、ときに、言いなりになるようであるから、柔軟にある、それを能力と見る捉え方である。 一つの立場や考え方にこだわらず、その場に応じた処置、判断のできるさま、などの解釈には、本来の柔らかさにあるものではなくて、広く受け入れる心である。一方で、柔軟に頑固を対比する、あるいは強靭性を意思の表れと見るなら、身のこなしのありようは、簡単なことにはならない。技術で見れば、柔軟剤があり、仏教で見れば、柔軟すなわち、にゅうなん があって、日本人の本性にある、柔和である。柔軟の庶民感覚とは、ええじゃないか、ええじゃないか、と踊り叫ぶものである . . . 本文を読む