文章技術で守らなければならないものに、表記法である。誰がまもるか、まもるべき規則はあるか。書き手がまもり、編集者が統一する。それはマニュアルとして、文書校正のためにある。しかし正書法という規則が日本語ではない。本来あるものか、必要でないものか、近代になって出版技術が進んで、いまはワードプロセッサーが文書編集を行うようになったので、機械を作動させるための規則が表記法に出来上がっている。それで、緩やかではあるが、機械にとっては動くか動かないかの重要なシステムであるから、こうしてタイプ打ちにするときに、わたしたちは共通した標準的な書き方をするようになった、と、あくまでも、そのように行われているというものである。機械を使う人間の規則に対する行為は、すべてが是とされるものではないから、このわたしのブログを見ても、その表記には書き手の自由意思が、時として、現れている。したがって、ここに書いている文章は、だれにとっても読みにくいことこの上ない代物であろう。
さて、表記にかかわる規則は、仮名使い、漢字使用、送り仮名をはじめとして、カタカナ語、ローマ字と、文字種に合わせてまもるべきことがらは多い。その中で、漢字かな交じりについては漢字制限から常用漢字の範囲、目安に至るまで、字体とともに取り決められている。これが実は日本語の正書法としてあるもので、この規則を外すと、日本語は見た目に異なったものとなる。具体的には、古典語、近代になっての漢字多様の文章にみる、旧仮名や旧漢字と呼ばれるものが、現代語に顔を出していて混在すると、読みにくいだけでなく、文意の解読に困難を持つかもしれない。一目瞭然であるから、それがなくなった、現代の当用の、通行文章が表記法の表れである。それに加えた句読法が句読点をもって規則化したので、それをまもらなければならない。しかし、その句読のひとつをもってして、共通の解釈、理解がなくなってきている。鍵の多様と句点の乱れである。句点が分かりよいものであったのだが、コピーライタの日本語遣いがインパクトを狙って、文点を編み出したり、劇画コミックの吹き出しに、ちょっとした用法の逸脱があって、その影響にはないが、タイプ打ちの気軽さから若者語に工夫が見えて、句読点の用法がさまざまである。
さて、表記にかかわる規則は、仮名使い、漢字使用、送り仮名をはじめとして、カタカナ語、ローマ字と、文字種に合わせてまもるべきことがらは多い。その中で、漢字かな交じりについては漢字制限から常用漢字の範囲、目安に至るまで、字体とともに取り決められている。これが実は日本語の正書法としてあるもので、この規則を外すと、日本語は見た目に異なったものとなる。具体的には、古典語、近代になっての漢字多様の文章にみる、旧仮名や旧漢字と呼ばれるものが、現代語に顔を出していて混在すると、読みにくいだけでなく、文意の解読に困難を持つかもしれない。一目瞭然であるから、それがなくなった、現代の当用の、通行文章が表記法の表れである。それに加えた句読法が句読点をもって規則化したので、それをまもらなければならない。しかし、その句読のひとつをもってして、共通の解釈、理解がなくなってきている。鍵の多様と句点の乱れである。句点が分かりよいものであったのだが、コピーライタの日本語遣いがインパクトを狙って、文点を編み出したり、劇画コミックの吹き出しに、ちょっとした用法の逸脱があって、その影響にはないが、タイプ打ちの気軽さから若者語に工夫が見えて、句読点の用法がさまざまである。