昨日関西将棋会館に行った時の写真で、心象風景のようだが、何だか暗いなあ‥。格言とか心に響く言葉もあるが、私は概して短調の感性があるようで明るくはない。みんなで楽しくと言われると尻込みして隅っこに行く。協調性や健全、明朗とは縁のない生き方だが、どうも自分で思っているほど暗くはないらしい。どこか間が抜けているせいもあるのだろうなあ?
正論は世の中を窮屈にしてしまう傾向がある。いわゆる逃げ道をなくすのはよくない‥でも逆に責任の追及は見逃してはいけない。このあたりのけじめがなんだかおかしいのが今の世相のように思える‥
そういう自分はずっこける大局観で、さいなまれる人生のようだ。この写真が今の心象風景なのだと納得する。
正論は世の中を窮屈にしてしまう傾向がある。いわゆる逃げ道をなくすのはよくない‥でも逆に責任の追及は見逃してはいけない。このあたりのけじめがなんだかおかしいのが今の世相のように思える‥
そういう自分はずっこける大局観で、さいなまれる人生のようだ。この写真が今の心象風景なのだと納得する。
今年はザクロの実が少なくて、二個のみだった。ザクロはいっぱい小さな朱い花を咲かすのだが、ほとんどが散ってしまうので実がなるのは少ない。それでも数年前は何十個となっていたのでそれが当たり前と思っていた。
ザクロの樹の下の地は以前ニワトリを飼っていて(ハッチとポッチ)その鶏糞がいい土だったので鉢植えのザクロがこれほど実ったのだろうと思う。
このザクロは鮮やかではないがしぶい色彩になった。合理的で簡明で洗練されたスマートなものがうける時代になって、へそ曲がりで意固地な私は無力で無言の無駄で無益な抵抗をしたくなる‥それを無為徒労というのかな?
ザクロの樹の下の地は以前ニワトリを飼っていて(ハッチとポッチ)その鶏糞がいい土だったので鉢植えのザクロがこれほど実ったのだろうと思う。
このザクロは鮮やかではないがしぶい色彩になった。合理的で簡明で洗練されたスマートなものがうける時代になって、へそ曲がりで意固地な私は無力で無言の無駄で無益な抵抗をしたくなる‥それを無為徒労というのかな?
2007年8月3日宝塚花火大会の後で記念撮影をした一枚である。6年前の写真だが私はあまり変わっていない‥弟子たちはどうだろう・・将棋で奮闘している弟子もいる‥別の道を歩んでいる弟子もいる。それぞれの人生でしっかり生きることが大切だと思う。
人生の選択は自ら選ぶように見えて、実は目に見えない運命の流れに乗っている風にも思える・・どの道を歩んでも、常に自分に甘んじることなくしっかり現実と向き合ってほしい。自戒の言葉でもある。
人生の選択は自ら選ぶように見えて、実は目に見えない運命の流れに乗っている風にも思える・・どの道を歩んでも、常に自分に甘んじることなくしっかり現実と向き合ってほしい。自戒の言葉でもある。
子ども教室を始めたのは20年前である。同じマンションの人に頼まれて開いたのだ。当時は内弟子の山崎八段も手伝っていた。子ども好きのようで熱心に教えていたのを覚えている。初めは私は逃げ腰で、ほとんど弟子に任せていた。子どもは苦手だったのである。
子どもに将棋を教えるのに月謝をもらうことにクレームをつけられたこともあるが、当時から私は習い事のひとつのジャンルであればいいなあと思っていた。それ以上でもそれ以下でもない位置づけがいいと今も思っている。
そう言っている間に、飯を食うどころか、霞も食えない俗仙人にならないように‥しないといけないなあ。
子どもに将棋を教えるのに月謝をもらうことにクレームをつけられたこともあるが、当時から私は習い事のひとつのジャンルであればいいなあと思っていた。それ以上でもそれ以下でもない位置づけがいいと今も思っている。
そう言っている間に、飯を食うどころか、霞も食えない俗仙人にならないように‥しないといけないなあ。
園田金曜ナイターの日の競馬場にて、白い鳩が居た。ついついしっかり餌をたべているか‥気になる。鳩も好かれたり嫌がられたりしながら、たくましく生き抜くよりない。平和とか幸せとかは抽象的でいて、現実の中ではとってもリアルなことだと思う。
清荒神のベガホールに行く。シャンソン教室の発表会があった。普段はめったに入らないが、たまにはいいものだ・・たっぷり聞かせてもらった。年配の女性が多かったが迫力満点だった。私は情感豊かに思いっきり声を出すのは苦手である‥ボソボソではシャンソンは歌えないなあ‥