暑さを柔らげるような風鈴の音色が、伊万里の秘窯の里に響いてくる。途中から韓国の団体のおばちゃんツアーがやってきて、ワイワイガヤガヤで記念写真を撮っていた。欧米の観光客もいて、焼き物の里は国際色豊かである。国内の観光客が、むしろ少なくて、これはあちこち旅をしていても感じることだ。暮らしにゆとりが消え、遊びの精神が薄くなり、地方では過疎化して、活力がない街が増えているのだろうか?
唐津市肥前町、大浦の棚田で、「日本の棚田百選」に選ばれている。狭く険しい地形の中を、段々畑のように水田を作るのは大変な労力だろう。歩いて上り下りするだけでも、くたびれるのだ。
棚田は四季折々や朝晩の風景に映えて、美しい。
棚田は四季折々や朝晩の風景に映えて、美しい。
にあんちゃんの里は、当時の面影はほとんど残っていないが、このあたりを散策の途中で、偶然の出会いで、妻が85歳のおばあさんから話を聞くことができたのだ。にあんちゃんの兄弟が住んでいたあたりを教えもらって歩いていると、何だか涙が出そうになった。
昔栄えた炭鉱の面影はすでに消えてしまった。時間の流れは哀しい。
昔栄えた炭鉱の面影はすでに消えてしまった。時間の流れは哀しい。
これは上海で泊まったホテルからの眺望で、(ちなみに仕事で行ったせいか、来賓待遇の広い部屋でもったいなかった)手前は建設中の空港からの高速道路の敷地である。オールド上海の面影は、確実に減ってきているようだ。このときからすでに10年以上経っている。
「森さん、やっぱり中国を旅するのがいちばんじゃねえ」旅の仙人、水津さんの言葉を思い出したが、上海は遠くになりにけり・・かもしれない。高層ビルは苦手です。
「森さん、やっぱり中国を旅するのがいちばんじゃねえ」旅の仙人、水津さんの言葉を思い出したが、上海は遠くになりにけり・・かもしれない。高層ビルは苦手です。
上海で、タクシーとバイクの接触事故みたいだった。中国はコネ社会なので、こういった場合でも、親族に偉いさんがいる方がほぼ勝ちみたいである。お互いに言い争うだけでなく、ヤジ馬を味方につけるかどうかも大きい。大きな声の割りに、どこか間延びしたような雰囲気もある。
さてこの事故の決着は?知らぬが仏ですね。
さてこの事故の決着は?知らぬが仏ですね。
今日の夕方、家の近くの駐車場からの風景。虹がうっすらとだが大きな円を描いていた。空は雲も多くて、虹もはっきりとはしない。今日は朝から雨だったが、夕方には上がり、雲の奥には太陽の光も差してきた。
少し茶色がかっているのは、黄砂の影響だろうか。
少し茶色がかっているのは、黄砂の影響だろうか。
「アイルランドから女性ザッチャーがやってきた」守屋良介
★ヨーロッパ式萱葺き屋根の家ができるまで
著者の守屋さんとは10年以上前に、京都の棋王戦の会場でお会いしてから知り合った記憶があります。それからほぼ毎年、京都でお会いしていたのですが、結婚された後、数年前に八ヶ岳の麓「大泉村」で家を建てられ、喫茶店を開かれたことは知っていた。(正確には土日は八ヶ岳、平日は東京ですごされているそうだ)
実は守屋さんは私やルンルンのブログにもコメントされていたのだが、私は気づかなかった。そしてこの本の紹介をしながら、ハタと気づいたのだった。そうか!そうだったのか!あのHNだったのか・・納得です。
とってもユニークで素敵な本です。どうぞご覧下さい。
★ヨーロッパ式萱葺き屋根の家ができるまで
著者の守屋さんとは10年以上前に、京都の棋王戦の会場でお会いしてから知り合った記憶があります。それからほぼ毎年、京都でお会いしていたのですが、結婚された後、数年前に八ヶ岳の麓「大泉村」で家を建てられ、喫茶店を開かれたことは知っていた。(正確には土日は八ヶ岳、平日は東京ですごされているそうだ)
実は守屋さんは私やルンルンのブログにもコメントされていたのだが、私は気づかなかった。そしてこの本の紹介をしながら、ハタと気づいたのだった。そうか!そうだったのか!あのHNだったのか・・納得です。
とってもユニークで素敵な本です。どうぞご覧下さい。
銀閣寺は金閣寺とともに相国寺の山外塔頭のひとつで、正式には「東山慈照寺」トウザンジショウジというそうだ。
世界文化遺産の観音殿(国宝)は、足利8代将軍義政が祖父の義満が建てた金閣寺にならって、文明14年(1482)に山荘の東山殿を建立したのがはじまり。
「あれれ、木造で、銀ではないなあ」「昔は銀で華やかやったのかなあ」修学旅行生の呟きが聞えてくる。派手な金閣寺に比べて、渋い建築だ。
世界文化遺産の観音殿(国宝)は、足利8代将軍義政が祖父の義満が建てた金閣寺にならって、文明14年(1482)に山荘の東山殿を建立したのがはじまり。
「あれれ、木造で、銀ではないなあ」「昔は銀で華やかやったのかなあ」修学旅行生の呟きが聞えてくる。派手な金閣寺に比べて、渋い建築だ。
京都、哲学の道を久し振りに歩いたが、けっこう距離があった。昔はもっと短い距離だったように思った。店も少なかったし、私は冬によく来たので、人はほとんど通っていなかった。寒々とした中を、少し暗い気持ちで、とぼとぼと歩いたのだった。明日という日は決して明るくなかった。
運命というのは、過ぎてみればそうだったのかと納得するしかないが、苦しい真っただ中にあると、藁をもすがる日々である。今は雑いような枯淡に近い境地で、何がどうであれ、迷いはあっても今更悩むものはない。自分を貫くしかないのである。
運命というのは、過ぎてみればそうだったのかと納得するしかないが、苦しい真っただ中にあると、藁をもすがる日々である。今は雑いような枯淡に近い境地で、何がどうであれ、迷いはあっても今更悩むものはない。自分を貫くしかないのである。
平成11年に、上海へ将棋の視察に行ったときの写真で、恒豊中学校での将棋の授業時間の風景だ。教室の前に大盤があるが、升目に釘が打ってあって、そこに駒を挟んであるので動かすのは大変だった。
中国の上海でこういった光景をみるのは不思議な気もした。あれから8年余り経つので、上海の将棋事情も変わったかもしれない。
日本で中国将棋の授業があるかと想像すればわかるが、まずあり得ないだろうなあ・・
中国の上海でこういった光景をみるのは不思議な気もした。あれから8年余り経つので、上海の将棋事情も変わったかもしれない。
日本で中国将棋の授業があるかと想像すればわかるが、まずあり得ないだろうなあ・・
先日行った村山君の住んでいた前田アパートの、隣の家の玄関にいた猫だ。ここは昔はレンタルビデオ屋さんのときもあって、私も借りに来ていた。当時は深夜にビデオを3,4本みるのもザラで、目が痛くて見れなくなるまで徹夜していたのだ。
不規則な生活というよりも、時間を持て余していたようだ。ビデオ屋さんのビデオの場所も、どこに何があるか全部覚えたくらい通ったのだ。
ものじしないし、接近もしない、冷静な猫かと思いきや、ニャオーと中に向かって甘えた声を出していた。
不規則な生活というよりも、時間を持て余していたようだ。ビデオ屋さんのビデオの場所も、どこに何があるか全部覚えたくらい通ったのだ。
ものじしないし、接近もしない、冷静な猫かと思いきや、ニャオーと中に向かって甘えた声を出していた。
パイナップルを見上げる源さん?これは、やらせの写真である。私はナタデココが大好きだが、妻は嫌いだそうだ。食べ物の好みは逆が多くて、補え合える意味もある。パンやケーキの好みもそうで、全く合わない。お互いに手出しするものが違うので、食に関しての戦いは起こらないのだ。
このパイナップルはおいしくて、珍しく妻と好みが一致した。
このパイナップルはおいしくて、珍しく妻と好みが一致した。
大阪の街が最もあたたかくて活気のあった時代、昭和初期の下町情緒を再現。
大阪スカイビルの地下にある、滝見小路の風景だ。三丁目の夕日の映画のセットのようだが、昔懐かしい匂いがする。
暗い事件が多くて、新聞やテレビのニュースを見るのがイヤになる。どれも目を覆いたくなる陰鬱さがある。人と人の絆の薄さを感じてしまう。自分を見失っていることすら、自分で気づきにくい時代である。自分がまともだという確たる証がないのかもしれない・・
大阪スカイビルの地下にある、滝見小路の風景だ。三丁目の夕日の映画のセットのようだが、昔懐かしい匂いがする。
暗い事件が多くて、新聞やテレビのニュースを見るのがイヤになる。どれも目を覆いたくなる陰鬱さがある。人と人の絆の薄さを感じてしまう。自分を見失っていることすら、自分で気づきにくい時代である。自分がまともだという確たる証がないのかもしれない・・
シンフォニーホール前の公園である。スクスクと伸びたこの樹が植えられたときに、私は大淀に住んでいた。村山聖も近いところに住んでいて、この公園を通って関西将棋会館に向かったものだ。今でも覚えている。この公園を歩いているときだった。「森先生、お話があります」「何や」「弟子を全員、辞めさせて下さい」村山君以外に、誰も棋士になれそうにないときだった。弟弟子のだらしなさが歯がゆかったのだろう。本気だった。
村山聖は物事を先々に読んでいたのだろうか。将来、私の困る姿が目に浮かんでいたのだだろうか・・
「村山君も含めてか?」そう言うと「ウッ!それは・・」やさしい弟子だった。
村山聖は物事を先々に読んでいたのだろうか。将来、私の困る姿が目に浮かんでいたのだだろうか・・
「村山君も含めてか?」そう言うと「ウッ!それは・・」やさしい弟子だった。