母が愛媛から出てきて来て2009,4,25に清荒神参道にのぼったときの一枚だ。
私は昔から母と話をしたり一緒に出かけるのも苦手だったので、こういうシーンはほとんどなかった。 私に似ていてせっかちで、じっとしていない性格だ。今日は食欲がないといいながら、けっこう油っぽいものをペロリと食べる。余り遠慮せずにストレートにしゃべるので、ドキリとすることもあるが、他人にはやや甘くて世話好きでもある。
子ども三人を女手ひとつで育てたのは、負けん気の強さかもしれない。私は子どもの頃からもそうだったが、特に兄がなくなってから母には「子どものためでなくて自分のために生きてほしい」と思っていた。
どんな環境でも、生きていくのは何らかの、腰の入ったエネルギーが必要だ・・そう思う。
私は昔から母と話をしたり一緒に出かけるのも苦手だったので、こういうシーンはほとんどなかった。 私に似ていてせっかちで、じっとしていない性格だ。今日は食欲がないといいながら、けっこう油っぽいものをペロリと食べる。余り遠慮せずにストレートにしゃべるので、ドキリとすることもあるが、他人にはやや甘くて世話好きでもある。
子ども三人を女手ひとつで育てたのは、負けん気の強さかもしれない。私は子どもの頃からもそうだったが、特に兄がなくなってから母には「子どものためでなくて自分のために生きてほしい」と思っていた。
どんな環境でも、生きていくのは何らかの、腰の入ったエネルギーが必要だ・・そう思う。
レースが始まるまでは、まずパドックを馬が周回して、それから騎手が乗って本馬場に向かう。そのときにスタート地点までウオーミングアップすることを言う?のだろうか。
素早く走らせたり、まるで我慢を覚えさすためにジワジワ歩かせたり、騎手の仕草も様々なようだ。この返し馬を見るのが好きになった。騎手がその馬をどう見ているのか、どういうレース展開にするのか、確認しているようでもある。
素早く走らせたり、まるで我慢を覚えさすためにジワジワ歩かせたり、騎手の仕草も様々なようだ。この返し馬を見るのが好きになった。騎手がその馬をどう見ているのか、どういうレース展開にするのか、確認しているようでもある。
以前はデジカメでなくて、一眼レフで機種はニコンのF3だった。ほとんど標準レンズの50ミリだけで済ませた。でもリバーサルフィルムと現像だったので、高かった。それでもコストがかかるからていねいに撮っていた気がする。
何事も時代の変遷で変わったが、どちらがいいかというとわからない・・
何事も時代の変遷で変わったが、どちらがいいかというとわからない・・
以前は毎年夏に、家族で中国の旅に出かけていった。諸々の事情で今はもう行けなくなったので、懐かしい思い出になってしまったのは残念だ・・
旅は一期一会である。
どの風景を見ても懐かしいのだが、やはり旅をするのが何よりも宝物である。
旅は一期一会である。
どの風景を見ても懐かしいのだが、やはり旅をするのが何よりも宝物である。
一度どこかで掲載した写真だが、これはかっての大淀に住んでいた頃のものである。村山聖が私の家に来て漫画の本を読んでいる。その奥の三段ボックスの上に日本人形がある。それは確か奨励会旅行で静岡あたりに行ったときに、何故か村山聖がお土産で買ってきてくれたのだ。
今思うと、全く女っ気がない師匠の私に、早くお嫁さんをの意味だったのか?そのときにきいても答えてくれなかった。
この人形は宝塚に引越したときに持ってきたのだが、阪神大震災のときになくしてしまったのが残念である。
村山聖が私の部屋に来るのは、別に用事もないときが多かったが、頭を洗いにくるのが目的だったかもしれない。関西将棋会館から一緒の方向に戻るとき、「寄っていくか?」「はい」そういう感じだった。あるいは次の一手の検討の依頼だった。
棋士になってからは、なるべく干渉しないようにしていたが、体調を崩して対局の不戦敗のときは、仕方なく?どう対応するかアドバイスした。そういうときは腹をくくって向き合った。
そうでないと頑として自分の意志を曲げないからだ。意志を曲げさすのなくて、そのときの最善策を一緒に考えて決めさせる・・そういう意図だった。
基本的に今でもそうだが、私は弟子といえども人に深く関わるのは苦手である。弟子と言えども、また年齢差があっても、対等の付き合いが好きなのだ・・できればみんな何とかやっていってほしい・・でもやはりきつく言わないと気づいてくれないこともあるのだが・・
自然の流れでどうなろうともしょうがないのが人と人とのからみである。師弟関係も、私に関していうと、将棋の世界の範囲での師匠と弟子と思っている。その分、できるだけ信頼して任せたいのが本音である。自分の力で切り開いて育っていってほしいのだ・・
村山聖との出会いは、いろいろ考えさせられて、自分の生き方にも大きな影響があったように思う。「村山君と関わってからはなあ、わしはなあ百勝は損したと思うで・・」冷やかしでそういうと、困ったような呆れたような表情で「はあ?」と返事があった。その間合いが村山聖流なのである。
今思うと、全く女っ気がない師匠の私に、早くお嫁さんをの意味だったのか?そのときにきいても答えてくれなかった。
この人形は宝塚に引越したときに持ってきたのだが、阪神大震災のときになくしてしまったのが残念である。
村山聖が私の部屋に来るのは、別に用事もないときが多かったが、頭を洗いにくるのが目的だったかもしれない。関西将棋会館から一緒の方向に戻るとき、「寄っていくか?」「はい」そういう感じだった。あるいは次の一手の検討の依頼だった。
棋士になってからは、なるべく干渉しないようにしていたが、体調を崩して対局の不戦敗のときは、仕方なく?どう対応するかアドバイスした。そういうときは腹をくくって向き合った。
そうでないと頑として自分の意志を曲げないからだ。意志を曲げさすのなくて、そのときの最善策を一緒に考えて決めさせる・・そういう意図だった。
基本的に今でもそうだが、私は弟子といえども人に深く関わるのは苦手である。弟子と言えども、また年齢差があっても、対等の付き合いが好きなのだ・・できればみんな何とかやっていってほしい・・でもやはりきつく言わないと気づいてくれないこともあるのだが・・
自然の流れでどうなろうともしょうがないのが人と人とのからみである。師弟関係も、私に関していうと、将棋の世界の範囲での師匠と弟子と思っている。その分、できるだけ信頼して任せたいのが本音である。自分の力で切り開いて育っていってほしいのだ・・
村山聖との出会いは、いろいろ考えさせられて、自分の生き方にも大きな影響があったように思う。「村山君と関わってからはなあ、わしはなあ百勝は損したと思うで・・」冷やかしでそういうと、困ったような呆れたような表情で「はあ?」と返事があった。その間合いが村山聖流なのである。
村山聖を撮った写真は割と少ない。このときのものは仕事からみだったので?枚数が多い。同じカットが多いのだが、村山聖は表情と雰囲気が微妙に異なる幅があるので、被写体としての魅力も満載だった。ちょうど今の金太郎?のように、毎日でも撮ってみたいものがあった・・
弟子というだけでなくて、弟子というよりも、その存在に(手を焼きながらも)ひきつけられるものがあったように思う。
人間同士なので、きっと長生きしていると、師匠の私がカッカしたり、呆れたりすることもあっただろうが(逆ももちろんである)将棋が弱くなった村山聖の姿を見たかった・・これは私の本音である。カッコ悪い姿をさらすのも人間的なのでいいのだ・・
意地悪なようだが、例えば一緒にトランプすると生意気だったし、一緒に麻雀を囲むと私が目の敵にされた?それでふたりとも負けて帰るので、「あのなあ、どちらか勝った方がええやろう」と諭すのだが、頑として譲らず共倒れのパターンばかりだった。
こういうところも不可解?だった。
村山聖への私の対抗策はひとつで「あのなあ、偉そうな口をきくのは、谷川さんや羽生さんに勝ってからにしいよ」「ウッ」とうなって、このときだけは師匠の勝ちに終る。
弟子というだけでなくて、弟子というよりも、その存在に(手を焼きながらも)ひきつけられるものがあったように思う。
人間同士なので、きっと長生きしていると、師匠の私がカッカしたり、呆れたりすることもあっただろうが(逆ももちろんである)将棋が弱くなった村山聖の姿を見たかった・・これは私の本音である。カッコ悪い姿をさらすのも人間的なのでいいのだ・・
意地悪なようだが、例えば一緒にトランプすると生意気だったし、一緒に麻雀を囲むと私が目の敵にされた?それでふたりとも負けて帰るので、「あのなあ、どちらか勝った方がええやろう」と諭すのだが、頑として譲らず共倒れのパターンばかりだった。
こういうところも不可解?だった。
村山聖への私の対抗策はひとつで「あのなあ、偉そうな口をきくのは、谷川さんや羽生さんに勝ってからにしいよ」「ウッ」とうなって、このときだけは師匠の勝ちに終る。
昨日は(4月19日火曜)帰省した。天気は晴れから曇り、小雨と不安定だったが、久しぶりだった。家の前でセルフの記念撮影をした。ちょうど姉が帰った後だったが、こうやって帰省できるのは幸せなことである・・
気が重くなる話しが多くて、あまりいい話はないが・・こうやって元気にいてくれる母に感謝である。
気が重くなる話しが多くて、あまりいい話はないが・・こうやって元気にいてくれる母に感謝である。
2010年4月19日、昨年のちょうど今頃の写真である。チビが元気だった・・
今日もだったが「チビ、チビ」金太郎が庭に向かって名前を呼ぶ。「チビはもういないよ」と言っても金太郎はわからないのだった・・
今年の春はさみしい季節になった。
今日もだったが「チビ、チビ」金太郎が庭に向かって名前を呼ぶ。「チビはもういないよ」と言っても金太郎はわからないのだった・・
今年の春はさみしい季節になった。
GⅡマイラズーカップはシルポート(小牧騎手)の逃げが強烈で押し切った。有力馬が牽制しあっている間の逃げ切りである?123万馬券を演出したが、シルポート自身はもともと強い馬だ。
一度は100万馬券を取ってみたいなあ?
一度は100万馬券を取ってみたいなあ?
園田競馬の8Rの4番ビバクラシック(松浦政騎手)が一番人気で勝った。芦毛の馬だ。私は芦毛の馬が好きで、それはなんとなくきれいでない?姿がいいのだ。
我が家の金太郎もヨウムだが、芦毛の雰囲気がするのだ。
我が家の金太郎もヨウムだが、芦毛の雰囲気がするのだ。