冬将軍きょうも猛威...大雪続く 積雪1メートル超も相次ぐ
強い寒気の影響で、列島各地は8日に続き、今シーズン一番の冷え込みとなった。
東北では、積雪が1メートルを超えるところが相次ぐなど、各地で大雪に見舞われている。
8日から東北の日本海側は大雪が続いていて、青森県の酸ヶ湯では9日朝、今シーズン最大の積雪量、120cmを観測した。
一方、岐阜・白川村では、あたり一面が真っ白になり、世界遺産となっている合掌造りの屋根にも雪化粧が見られた。
10日も日本海側を中心に大雪となり、10日夕方までに予想される降雪量は、東北で40cmなどとなっている。
そして北海道では、浦河町で強い冷え込みの日に発生する「けあらし」が見られ、最低気温が氷点下23.1度となった陸別町では、毛が凍ってしまった牛たちの姿があった。
北海道は全地点で、最高気温が氷点下となるなど、全国的に厳しい寒さになった。
この寒さは10日も続き、予想最高気温は北海道・札幌市で氷点下2度、宮城・仙台市で5度、東京都心で10度などとなっている。
全国で今季一の寒さ続出!
2018年12月09日15:58
紀平Vでロシア時代に風穴、浜田コーチ歓喜「ついに」 22年北京五輪へ日露時代へ
「フィギュアスケート・GPファイナル」(8日、バンクーバー)
女子フリーが行われ、SP1位の紀平梨花(16)=関大KFSC=が、フリー1位の150・61点をマーク。トータルでは今季ベストの233・12点で初優勝を果たした。GPシリーズ参戦初年度でファイナルを制したのは、日本勢では05年の浅田真央以来の快挙となった。SP2位の平昌五輪金メダリスト、アリーナ・ザギトワ(16)=ロシア=はフリー2位の148・60点、合計226・53点で、2位に終わった。
日本女子としては、13年の浅田真央以来5年ぶりとなる優勝。14年はトゥクタミシェワ、15、16年はメドベージェワ、昨年はザギトワとロシア勢の優勝が続いていた。平昌五輪もザギトワ、メドベージェワのワンツー。紀平、そして15、16年2位の宮原を指導する浜田コーチは常々「強いロシアを倒したい」と話していただけに、「はい。ついに!って感じですけど」と、笑顔で喜びに浸った。
今大会はシニア女子は日本が3人、ロシアが3人の日露決戦。ジュニア女子はロシア勢が5人となっており、今後も、22年北京五輪に向けて、日本対ロシアの構図が続いていくと見られる。紀平は「ザギトワ選手もあまりいい点数じゃなかったと思うし、これからもっといい演技をしてくると思う。そんな中でどんな緊張感の中でもSP、フリーと演技をそろえることが大事になる」と、今後の戦いを見据えた。
雅子さま誕生日 美智子さまが贈った7カラットのルビーの指輪の意味とは?
皇太子妃・雅子さまが9日、55歳の誕生日を迎えた。誕生日の日にあたって宮内庁が発表した文書では「この先の日々に思いを馳せますと、私がどれ程のお役に立てますのか心許ない気持ちも致します」としながらも、「国民の幸せのために力を尽くしていくことができますよう、研鑽を積みながら努めてまいりたい」と、新天皇即位と皇后としての役割を果たすという覚悟をにじませた。
来年5月、今上天皇は「上皇」になり、民間出身の皇太子妃として「ミッチー・ブーム」を巻き起こし、圧倒的な人気を誇った美智子さまは日本で初めての「上皇后」として新たなステージを迎える。50年以上も美智子さまの取材を続け、「心にとどめておきたい 美智子さまの生き方38」(朝日新聞出版)の著書がある皇室ジャーナリスト・渡邉みどりさんに、退位後の活動などについて聞いた。
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――美智子さまに代わり、雅子さまが皇后になるまであと5カ月と迫りました。これまで美智子さまは雅子さまに対してどのように接してこられたのでしょうか。
美智子さまの雅子さまに対する心遣いは、いたるところに感じます。例えば、皇太子殿下との婚約が正式に決まった平成5(1993)年2月には、天皇皇后両陛下と秋篠宮ご夫妻、紀宮さま、小和田夫妻、雅子さまの2人の妹がテーブルを囲んだ夕食会。両陛下のはからいで実現したものですが、天皇家と一般人が夕食会を開くことは異例でした。
その席で、美智子さまは7カラットのルビーの指輪を雅子さまに贈っています。これは歴代皇后からの伝来の品で、直接受け取った雅子さまはその場で左手の薬指に付けて帰宅されました。
皇族や華族以外の"民間"から皇室へ嫁ぎ、結婚前にはプレッシャーからお痩せになったことや、流産という悲しい経験をされたという共通点もあります。美智子さまは66歳の誕生日の文書で、「流産は、たとえ何人の子どもがあったとしても悲しいものであり、初めての解任でそれを味わった東宮妃の気持ちには外からは計り知れぬものがあったと思います。体を大切にし、明るく日々を過ごしてほしい」と綴り、温かなご配慮を感じました。
――適応障害の療養は15年に及び、快復傾向にあると言われていますが、体調を心配する声もあります。
もともと雅子さまはとても活発な方です。婚約内定前の平成元年(1989年)9月に、私はイギリスで「皇太子妃有力候補」とされていた大和田雅子さんを取材したことがありますが、テレビカメラを前に「私はお妃問題には一切関係ございません。外務省員として仕事をしていくつもりです」とハッキリと話す姿は、こびを感じさせずとても魅力的でした。病気療養もありましたが、立場が変われば、徐々に公務も増えていくのではないでしょうか。東京オリンピックや大阪万博など能力を発揮できる場も多くあると思います。
しかも、美智子さまというお手本が身近にあるのは幸せなことです。美智子さまの場合は民間出身で初めて皇太子妃になり、すべてご進行などで学んできましたから。
雅子さまが2人で福島県を訪問されたとき、街を歩くときはパンツスタイルで、慰霊碑を訪れる際にはスカートにヒールの靴、ハンドバックに手袋を持つという正装にさっと着替えていました。天皇皇后両陛下の公務を見てきたことで、きちんとご公務をこなされているなと感じました。
――今後は天皇家、上皇家、皇嗣家の3つができますが、史上初の「上皇后」という称号になる美智子さまはどんな活動をされていくのでしょうか。
今後の暮らしぶりや活動については何も発表されていませんが、美智子さまはこれまでも若い皇族方への経験の継承を大事にされてきたので、今後もそれを続けられるのではと想像しています。
今上天皇がお手本にされてきた6代前の光格天皇は、徳川幕府の土台がゆらいできた時代に、血筋の遠い閑院宮家から9歳で即位しました。黒船の襲来や天明の飢饉などに見舞われながら、天皇として30年、上皇として30年という長きに渡って在位し、特に天明の飢饉に見舞われた際には御製(天皇が詠む和歌)によって幕府を動かし、国民を救ったと記録されています。
若くして即位した光格天皇がこれほど立派な天皇になった背景には、2代前の女帝・後桜町天皇の存在がありました。後桜町院に学問を勧められた光格天皇は、六国史や日本三代実録、日本文徳天皇実録など歴史の本を熱心に勉強し、10代の終わりには立派な天皇に成長したと言われています。私にはその姿が美智子さまに重なって見えるのです。
戦後60年の年、満州の開拓団員らが築いた那須の千振開拓地を訪れる際、美智子さまは、ちょうど那須御用邸に来ていた当時中学生の眞子さまを誘いました。眞子さまの母方の祖母は、満州からの引き上げを経験しており、藤原ていさんの「流れる星は生きている」をもらい読んでいたことを知っていたからだったそうですが、「眞子がやや緊張して耳を傾けていた様子が、今も目に残っています」と美智子さまはその年の誕生日に振り返っています。
新天皇の即位後は、一時、葉山御用邸に仮住まいし、東宮御所を改修してお住まいになるそうです。この東宮御所は、両陛下が結婚した翌1960年に建てられ、33年間暮らし、子育てに励んだ思い出の場所。美智子さまが詠む和歌には「窓」という言葉がよく出てきますが、東宮御所にある西向きの窓を眺めながら、いろいろな思いを馳せたことがわかります。思い出の場所に戻られ、今後の皇室のためにやるべきことを考え、"継承"を続けられるのではと思います。
――渡邉さんは美智子さまと同じ歳で、最初に美智子さまの存在を知ったのは学生時代だったと聞きました。
私が早稲田大学の学生だったころ、昭和30(1955)年に読売新聞が募集した懸賞論文「はたちのねがい」に応募したんです。三次選考で落選したのですが、そこで2位入賞したのが聖心女子大学の正田美智子さんでした。「虫食いのリンゴではない」というタイトルで、戦後の混乱期に育った自分たちの世代の生き方を語った内容でしたが、後の報道で賞金2千円を寄付されたと知りました。すごい方だと思いましたね。
それから3年後の昭和33(1958)年に、史上初の民間出身の皇太子妃として発表されたのが正田美智子さん、あのすごい方だったわけです。日本中がミッチー・ブームに熱狂する中、私は日本テレビに入社し、ご成婚パレードの中継に携わりました。以来、50年以上、美智子さまを取材しています。
――その子育てや家族像も社会に大きな影響を与えてきましたね。
人気を痛感した取材がありました。昭和35(1960)年2月23日に浩宮(皇太子)を出産したわずか7カ月後の9月には、日米修好通商条約100周年の記念セレモニーのため2週間余りアメリカでの公務が予定されていました。できる限り自分たちの手で子育てをすると決め、東宮御所にキッチンを作り、乳人制度を取りやめて自ら母乳で育ててきた美智子さまは、このときまでに綿密なスケジュールを立てて、離乳を済ませました。アイゼンハワー大統領主催の晩餐会にティアラとローブ・デコルテ姿で堂々と振る舞う25歳の美智子さまは、戦後日本の希望の星でもありました。
その海外公務の2、3日前に東京都北多摩地区にできた「ひばりが丘団地」への視察を取材したときです。皇太子・皇太子妃の2人がベランダに出られると、外はものすごい人出で超満員。「きゃーー!」という大きな歓声が上がり、もう誰が誰だかわからない状態でした。その多くが女性だったのです。
平成の天皇・皇后両陛下は国民と皇室をぐっと近づけました。慰霊の旅や東日本大震災など被災地訪問を続け、祈る皇室から動く皇室になりました。今上天皇の最大の功績は、美智子さまとご結婚されたことではないかと思うのです。