日韓関係に改善の兆しがなかなか見えてこない。
安倍-朴槿恵両首脳によって成し遂げられた「最終的かつ不可逆的な解決を確認した」慰安婦合意も、文在寅政権の誕生で、事実上ご破算になってしまった。
法的に解決済みであるはずの元徴用工への賠償も、韓国の司法当局が日本企業にその義務を認める判決を下すなど、日本には受け入れがたい決断が次々と出てくる。
なぜ韓国はそれほど反日的な態度を強めるようになったのか。
田原総一朗氏が、元在大韓民国特命全権大使である武藤正敏氏に聞いた。(構成:阿部 崇、撮影[田原氏、武藤氏]:NOJYO<高木俊幸写真事務所>)
「国母」の気持ちで国民に接してきた朴槿恵前大統領
田原 僕が韓国のことで不思議に思っているのは、前大統領の朴槿恵さんのことなんです。
彼女が大統領の時、韓国では連日、大統領の辞任を求めて100万人のデモが繰り返されましたよね。
僕から見ると、朴槿恵さんはそんな悪いことをしていなかったように思うんだけど、なぜ韓国では、あんなに多くの国民が連日デモに繰り出すことになったんですか。
武藤 いろんな要素があると思いますが、問題が大きくなった背景の一つには彼女の意識が国民とかなり乖離してしまったことがあったのではないでしょうか。
朴槿恵さんは22歳の時に、母・陸英修が暗殺されてからは、父である朴正煕大統領のファーストレディの役割を果たしていたわけですが、その父も5年後に暗殺されてしまう。
その時の彼女の第一声は「38度線は大丈夫ですか」だったそうです。
暗殺という惨劇に肉親が襲われ、とんでもない厄災が自分の身に降りかかるかもしれないときに、真っ先に国の安全保障を心配した。そういう人なんですね。
つまり朴槿恵さんは常に「国母」の気持ちで国民に接してきたのだと思います。
「私が頑張らなくちゃ」という気持ちと、「自分がこの国のことを一番よく考えているんだ」という強い自負を持っていた。
それがいつしか「だから私の言うことを聞きなさい」という考えになり、他人の言うことに耳を貸さなくなってしまった。もともと、人付き合いがあまり上手ではないという面も持っていらっしゃったと思います。
田原 ソウル在住の経験豊富な日本人記者は「朴槿恵さんは人と話をするのが苦手。おそらく対人恐怖症だろう」と言っていました。ただ、そんな朴槿恵さんにも、唯一、気兼ねなく話ができる女性がいた。
武藤 ええ、崔順実(チェ・スンシル)です。
田原 非常に仲良くなった彼女のために財団を作ってあげたり、彼女の娘をいい大学に入れてやったりして、それが後に追及されることになった。
ただね、そんなこと日本の政治家だってやっていることなんじゃないですか? 韓国で朴槿恵さんがあんなに憎まれた理由がよく分からない。
武藤 宗教家の娘である崔順実は、胡散臭い雰囲気がありました。そして致命的だったのは、崔順実の娘を不正に大学に入学させたことでしょう。名門の梨花女子大学です。韓国では、どの大学を卒業するかで就職先も決まってしまう。つまり、将来が決まっちゃいますから。
田原 そうか。韓国は超学歴社会で、いい会社に就職するなら特定の名門大学を出てなきゃダメなんですよね。
武藤 そうです。だからみんな一生懸命勉強するわけですが、その受験をすっ飛ばして簡単に名門大学に入学しちゃうのは心情的になかなか許せないのでしょうね。
また朴槿恵さんは、財閥系の企業などから資金を出させて、崔順実と娘が関わるスポーツ財団を作ってやったこともありました。この財団から朴槿恵さんにお金が流れたわけではありませんが、崔順実の懐にはずいぶん入っていた。
他にもいろいろありますが、まあ韓国の国民が怒る理由もそれなりにあったと思います。
ただ私たちが注意しなくてはならないのは、ローソクデモを主導したのは左翼系の労働組合だったということです。民主労組や全教組という非常に過激な組織です。
韓国内でいまなお一定の支持を集める新左翼
田原 彼らは朴槿恵さんのどこが気に入らないんですか。とにかく保守はダメ、ということなんですか?
武藤 そうです。保守はダメなんです。
日本では、学生を中心とした新左翼運動が活発だった時期がありましたが、どんどん過激化し、1972年には連合赤軍があさま山荘事件を起こします。その頃から学生運動も国民の支持を失い、どんどん衰退していきました。
韓国は違いました。というのも大統領に朴正煕、全斗煥、盧泰愚といった軍人出身の人たちが就いてきた。そこに対抗する民主化勢力として左翼運動が、一定の国民的支持を集めてきたのです。
田原 今も国民に支持されているんですか。
武藤 まだ少しあります。
田原 彼らはなぜ軍人出身者に反発してきたんですか。
武藤 例えば朴正煕さんは、結構弾圧もしています。それから彼は、日韓国交正常化を強引に進めた人物と捉えられています。
田原 1965年に佐藤栄作さんとの間でやったものですね。
武藤 ええ。実態を言えば、アメリカのケネディ大統領から尻を叩かれてようやく本格化した国交正常化交渉でした。
すでにベトナム戦争の泥沼に突っ込んでいたアメリカは、もう韓国を面倒見る力がなくなってきたので、「早く日本と話を付けて、日本に協力してもらえ」ということで、遅々として進展しなった正常化交渉が加速化したのです。
この時の交渉では、徴用工の問題について、日本から「個人補償しましょうか」と言っています。ところが、韓国政府は「ダメだ、その資金は元徴用工個人にではなく韓国政府によこせ」と要求しました。
そのお金を使って国の経済発展、インフラ開発をしようとしたのです。そのときに手本にしたのが、日本の明治維新ですよ。つまり富国強兵、殖産興業ですよ。
北朝鮮と対峙するためにも、まず国力、経済力を付けようと考えた。その時の絶好の手本が日本の明治維新です。例えば、浦項総合製鉄(現ポスコ)なんかも日本の八幡製鉄の焼き直しと言ってもいい。
それからこの時にインフラ開発にも熱心に取り組みました。ダムを作り、ソウルに地下鉄を作り、そしてソウル—釜山間の高速道路を作った。日本が歩んできた道を、日本からもらったカネでなぞったのです。
田原 その後の韓国は目覚ましい経済発展を見せましたよね。しかし1970年代の日本ではまだ韓国の経済力は正しく評価されていなかった。当時は「世界で最も素晴らしい国は北朝鮮で、韓国は地球の地獄だ」と、朝日新聞も読売新聞も書いていました。
ところがそのころ僕は、野村證券の重役で、後に社長になる田淵節也さんに会ったら「田原さん、いま韓国は景気がいいんだ。よくなっているぞ、元気だぞ」って言うんですよ。「嘘だろう。独裁政治でどうしようもないじゃないか」と言ったら「嘘と思うなら行ってみろ」と。
それで、1976年に韓国に行ってみたんですよ。そうしたら本当に景気がいいんですね。浦項も行きましたよ。帰国してすぐ『文藝春秋』に、「通貨マフィア戦争2 韓国――黒い癒着からの離陸(テイクオフ)」っていう記事を書いた。そうしたら、文藝春秋に抗議殺到ですよ。それだけじゃなく、僕に対する糾弾集会があちこちで開かれた。僕はそういうの嫌いじゃないから、全部出ていって話し合いましたけどね。
で、一年半後には、僕が書いたことが明白になった。韓国の景気がさらに良くなって、日本も認めざるを得なくなったんです。
武藤 当時の韓国は、日本から得た資本を元手に輸出をどんどん伸ばしている頃ですね。
製品を作るにしても、部品・素材は日本から輸入。それをノックダウン方式で最終製品にして輸出していた。この方式で、ほんの1~2年のうちに輸出がボンボン伸びていました。それが好景気を作り出していたわけですね。
浦項総合製鉄を作るプロジェクトは、元軍人の朴泰俊さんが、当時の朴正煕大統領から「とにかく製鉄所を作れ」と命じられて始まりました。
朴泰俊さんは、世銀に行ったりアジア開発銀行に行ったりして協力を頼んだのですが、みな「韓国にはまだそんなものは必要ない」と断られてしまった。
最後に、新日鉄の社長・稲山嘉寛さんのところに頼みに来た。稲山さんは「日本は韓国を併合したんだから、韓国が希望することなら何でも協力すべきだ」ということで非常に尽力されました。
小渕-金大中の組み合わせだから可能だった日韓の蜜月
田原 稲山さんは何度も取材しました。中国が宝山鋼鉄を作る時にも、稲山さんが全面協力したんですよね。
武藤 ええ。日本と韓国にはそういう関係があったわけです。ですから私は、韓国の要人に会うと、稲山さんの例を出して言うのです。
「戦後の日本の韓国に対する協力をよく考えてほしい。
植民地時代の記憶から、稲山さんは、たとえリスクがあろうと韓国に協力しなければならないと信じて、韓国に手を差し伸べてきた。日本はそれ以外にも、韓国と定期閣僚会議を開いて、韓国政府に多額の経済協力を提供してきた。
日本が韓国を併合したという歴史があるので、そのことについて感謝してくれという気持ちはさらさらない。
しかし、いまの韓国では、『日本は反省も謝罪もしていない』という世論が大勢を占めている。
これは両国の関係にとって望ましい姿ではない。
だけど、日本が戦後、韓国にどれだけの協力をしたのかを知れば、韓国の人々が持っている『日本が反省も謝罪もしていない』という気持ちは消えるんじゃないだろうか。
そうすれば、日韓はもっと素直な気持ちで付き合えるようになるんじゃないか。日韓関係を良好な状態にすることにメリットがあると思うんだったら、あなた方もぜひ日本がしてきたことを国民に伝えてくれ」
2012年に自分が大使を離任する時には、あちらの国務総理や外相にも挨拶にいきましたが、「これが最後の機会だ」と思ったので、特に強調して訴えたんですが、みな例外なく、嫌そうな顔をするばかりでした。
田原 日韓関係がいい時期もありましたよね。例えば小渕恵三さんが総理の時に、「日韓は仲良くしなきゃだめだ」ということで、アプローチした。韓国でも金大中大統領が、「過去のことはここで終えて、新しい日韓関係作ろう」と言った。
あれで日韓関係はぐっと良くなると思いました。
武藤 あの時にそれができたということは、金大中氏が「日本が民主国家になった」と認めたということなんですよ
。それ以外の韓国の大統領は、日本が民主国家になったと認めていないんです。まだ「大国主義だ、右傾化だ」とか言っているわけです。
田原 金大中さんは、大統領になる前に、日本で韓国のKCIAに捕まって殺されかけましたね。
武藤 当時の朴正煕大統領を脅かす存在になっていた金大中氏は、日本滞在中に都内のホテルで拉致され、神戸港から船に乗せられ、韓国に向かっていた。
この時、殺されていても不思議ではなかったはずです。
金大中氏が言うには、簀巻きにされて海に放り出されそうになった時に、ヘリコプターが飛んで来て、船の上空を旋回した。これが威嚇になったので、拉致の実行犯は自分を放り出すのを止めてくれたと。
このとき飛んできたのは自衛隊機だったとか海上保安庁のヘリだったとか言われています。
日本に感謝していた金大中氏
田原 実は、アメリカのヘリだったという説もありますね。
武藤 そうですね。私も日本のヘリではないんじゃないかと見ています。
私は外務省の北東アジア課長をしていたので過去の資料にも目を通していますが、金大中拉致事件で自衛隊や海上保安庁のヘリが出動したという記録を見た記憶はないです。
田原 僕はある筋から、「あれはアメリカだった」と聞いたことがあります。
武藤 ただ金大中氏は、この一件で日本に非常に感謝してくれていたのは事実です。彼は日本を嫌いじゃなかった。
大統領になる前の彼は、ソウルの日本大使館に勤務していた私に対して「もし自分が大統領になったら、日本の文化を韓国の国内市場に開放する」と言っていました。
そんなことを口にするのは当時の韓国では絶対にタブーでした。ただ外交官である私なら、本音を言ってもあちこちで吹聴されることはないだろうということで打ち明けてくれたのだと思っていました。
その後、彼に「ソウルにある日本商工会に来てスピーチをしてくれないか」と頼んだところ、快く来てくれたんですよ。そこでも彼は、「大統領になったら日本文化を開放する」って言ったんですね。
これには驚きました。そんなことを多くの人がいる場で言ったら、あちこちに知れ渡る可能性がある。そうすれば彼の立場だって危うくなる。
ところが彼は全然平気な顔をしているんです。そして、大統領になった後、それを実際にやってのけたわけです。ものすごい勇気と信念を持った人でした。
彼は、日韓関係の緊密化を自分の手でやるんだという信念を持っていた。そのときの相手が小渕総理でしょう。2人のケミストリーがぴったり合ったのでしょうね。
その後、金大中氏の次の大統領となった盧武鉉氏も、最初は日韓関係をうまくやりたいと思っていました。ただ、やっぱり当時の小泉総理の靖国参拝や、さまざまな日本の政治家の言動を見ているうちに次第に日本に反感を強めていった。それで日本に厳しい言動をするようになっていきました。
田原 盧武鉉さんお次の李明博さんには、彼がまだソウルの市長の時に会ったことがあります。彼もその時には、「日韓はこれから仲良くして、上手くやっていかなければ」と言っていました。
武藤 彼のお兄さんは、李相得(イ・サンドゥク)さんという、議員連盟の韓国側の会長だった人なんです。そのお兄さんは、韓国の企業に、「これから世界で資源開発やインフラ開発するんだったら日本企業と協力しろ」と説いていた人なんです。日本企業と協力せずに資源開発をしている韓国に対して「なぜ日本と協力しないんだ」と詰め寄るくらいの人でした。もちろんそれは、李明博大統領の意を体するものだと思います。そうしたことで、李明博さんが大統領になった当初の日韓関係もすごくよかったんですよ。
田原 ところが彼は竹島に行きましたね。
武藤 私が韓国に大使として赴任した2010年8月というのは、李明博大統領の時期で、ちょうど日本が韓国を併合して100周年目にあたる月で、反日運動が活発化する恐れがある時だったんです。日本を発つ前には、「なぜこんなタイミングなんだ。こんな面倒事が起きそうなんだから、前任者が対処して、落ち着いてからの交代にしてくれればいいのに」と思っていた。だから、ソウルの空港に着いたら、現地の記者に質問攻めにさせるだろうと思って、あれこれ準備して向かったんですよ。案の定、空港に着いたら、結構な数の人が待っていたんですね。
ところが私が近づいていっても誰もこちらに寄ってこようとしない。実は彼らは訪韓する日本のアイドルグループの「追っかけ」だったんです。私は全く相手にされませんでした。
ただ、その時に思いました。「これで100周年は大丈夫だな」と。李明博さんの「日韓関係を良好にしていこう」という意欲の一端が、この場面から伺えたんです。
ところが、この100周年の直後、日本の歴史教科書で竹島問題の扱いが強化されたわけです。
竹島問題でミスしたからこそ「竹島上陸」を断行
田原 李明博さんとしては、仲良くやっていこうと思っていたのに、急にバッサリやられた感じになったわけ?
武藤 実はその2年前の2008年、洞爺湖サミットで李明博さんは大統領として日本を初訪問しました。その時に福田総理と会って、「これから教科書を改訂して、竹島問題の扱いが大きくなりますよ」と伝えられているんです。私が漏れ聞いたところによると、福田総理のその話に李明博さんは「絶対にダメ」という言い方ではなく、「ちょっと待ってください」という感じの曖昧な反応だったそうなんです。
その後、日本の教科書で竹島問題が大きく扱われることになると、李明博さんは国内でずいぶん反発食らったんです。だから彼の胸の中で、「竹島の問題で自分は失敗した」っていう気持ちがあったはずなんです。
田原 李明博さんの時代には、韓国の裁判所が「慰安婦問題の解決に向けて日本政府と交渉しないという韓国政府の行政不作為は憲法違反だ」という判決もありましたね。
武藤 あれには李明博さんも困っちゃったはずです。
田原 要は、「韓国政府は怠けている」と裁判所から言われちゃったわけですよね
武藤 そうです。それで李明博大統領は、2011年12月、京都で野田佳彦総理との首脳会談が行われたときに、野田総理に対して「慰安婦に対して優しい言葉をかけてくれ」ということをしきりに要求してきたのですが、野田総理はそれをはね付けた。
田原 へぇ、なんで野田さんは断ったんだろう?
武藤 野田さんは政治信条的には意外に「右寄り」ですから。
田原 そうですか。
武藤 この時、野田総理は李明博氏に対して「知恵を絞っていきたい」という言い方をした。これで李明博さんは怒ってしまったんです。「俺が『慰安婦に優しい言葉をかけてくれ』とあんなに頼んだに、なんだ」と。この一件に加えて、「自分は竹島の問題でミスしてしまった」という負い目もあったものから、翌年の8月、終戦記念日の直前、大統領として初めて竹島に上陸するという行動に出たわけです。
田原 李明博さん側から見れば、そういう前段階があったんですね。
© Japan Business Press Co., Ltd. 提供 『殺されても聞く 日本を震撼させた核心的質問30 』(田原総一朗著、朝日文庫)武藤 あの時、お兄さんの李相得さんが李明博さんのそばにいたら止めてくれたと思いますが、当時、お兄さんはあっせん収賄の疑いで逮捕されていたんですね。
実はあの時、「李明博大統領が竹島に行く」という噂が事前に流れていたんです。そこで私は「大統領が竹島に行ったら日韓関係が大変なことになる。絶対に止めさせてくれ」と、韓国の外務大臣とか青瓦台の首席秘書官にしつこく伝えていたんですよ。
そうしたらある日、「明日行く」という話が伝わってきた。竹島上陸には同行記者団がいるので、その記者団募集の筋から漏れてきたんです。