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読書メモー国民党の敗北は腐敗が原因ではなかった
by 何清涟 • December 1, 2014 • 日文文章 • 0 Comments
何清漣
2014年11月22日
全文日本語概訳/Minya_J Takeuchi Jun
http://twishort.com/E7Xgc
ヒットするとは思われていなかった映画「北平(*北京)無戦事」(*「北京無血開城」。
北京の平和解放に尽力した国民党に潜入した中共党員の話らしい)が大ヒットしたのはまず、みんなが習近平の言った「自分が飯を食う鍋を壊す輩」論の元のセリフを劇中に発見したのと、蒋経国が陥った「泥沼の反腐敗との戦い」の中に現実の投影をみたからでしょう。
多くの人々が「胸がスッとした」と感想書いてますね。
しかし依然として気になる問題があります。
それは「中共の腐敗は今や遥かに国民党を超えているのに、いまだにしっかりしているのか?」です。
《腐敗は直接、国民党政権敗亡の原因になったわけではない》
私は以前にに書いた「”危機の共振”はまだ来ないのか?」
(http://xinqimeng.over-blog.com/article-109981500.html
2012/914)の中で、腐敗は政権を衰弱させるが、それは長い長い時を必要とする過程であって、政権崩壊の十分条件ではないと書きました。
歴史的経験からみれば中国の歴代王朝の衰亡は往々にして大危機が重なったからでした。
例えば統治集団の内部危機、経済危機(最終的には財政危機となって現れる)、そして外敵の侵入です。
「北平無戦事」はまさに国民党政府が直面した4大危機の嵐の様子をよく描いています。
作者は共産党のスパイで国民党側の経済学者だった冀朝鼎が宋子文に故意に間違った貨幣政策を献策したことは省いていますが、たぶん現政権に気を使ったのかもしれません。
私がここでいう「腐敗は政権崩壊の決定的要素ではない」ということの意味は、
中国人にとっては、これまでに植え付けられた「中国人の常識」とは違うからなかなか理解されないでしょうこの「中国人の常識」というのは実は共産党が学校教育を通じて小学校から大学まで、またメディアをつかって人々の『常識』になるように脳みそに注ぎ込まれてきたものなのです。
ひとつには共産党が反腐敗に使ってきた「腐敗は亡党亡国」という話や、蒋経国が上海の腐敗の大物退治に失敗した事件を格好の例とする「蒋介石の国民党政府が大陸で失敗した主要な理由は軍事・政治面での腐敗が原因」という話です。
しかし国民党時代の腐敗と現在の共産党の腐敗を比べてみたらすぐわかります。
20世紀の90年代中後期すでに中共の腐敗は遥かに国民党より深刻でした。
国民党の腐敗の最高点は抗日戦争勝利後にそれまでの大物金持ちから接収して「兄弟みんな大成功」したのがひとつ。
もうひとつは国共内戦の戦時物資の分配でした。
平時の腐敗は税金の取り立てや司法の分野でのもの。
土地が私有だったので国民政府の時期には現在のように政府が大量の土地を強制収容して住民を追い払うとかはありませんでした。
しかし中共は違います。
国家があらゆる資源を独占し、土地も国有(農村集団所有)で何から何まで資源、公共プロセス、政府投資、銀行資金の監督、司法、教育、医療など一切を手中に収めてしまっています。
高官の家族の腐敗強欲について国民党の時期のことを共産党の陳白達が「中国の四大家族」という本を書き著し、宣伝効果は極めて強く中国人はみんなそれを信じました。
しかし、いま中共の政治利益集団が民衆公共から奪った財物はたとえ40家族であってもかなわないほどで、「オフショア金融会社の秘密」やNYタイムズ、ブルムバーグの一連の調査報道の中身は陳の「中国の四大家族」の中身よりはるかに信用できます。(*参考;「中国のダーティマネーはどこへ?」 http://urx.nu/eqiz)
こうした事実から、私は国民党はなぜ負けて台湾に追い払われたのか、ということをあらためて考えさせられました。
幸いも、一部の学者がこのことに対して大変熱心に研究しています。
《国民党と共産党の比較;弱い専制と強固な専制》
北京大学の歴史系教授の王奇文は数年前に「弱い独裁性政党の歴史的命運」と題する一文をものし、政党の社会的基礎、組織構造と組織管理方法を深く検討しました。以下はその概要を書きだしてみました。
《国民党は自らの社会的基礎を持たなかった》
1927年以後、国民党が全国的政権を掌握しソビエトロシアを模倣して一党専制を実行しました。
しかし国民党には実際は専制の社会的条件が備わっていませんでした。
政権を握った当時(1928年)国民党の普通党員は27万余人、それが1937年になってやっと52万余人でした。
1929年、南京政府が制圧していたのは国土の8%と人口の2割にしか過ぎませんでした。
抗日戦争前夜ではやっと国土の25%と人口の66%でしたが、その管制力は非常に弱いものでした。
「党の力不足のために南京政府は都市の上層部に限定的な接触しかできなかったし、県以下の農村の基本社会は自治状態のままだった」と。これが共産党が辺境地区で生存できた原因です。
また、「大量に北洋旧官僚をその各級のシステムに組み入れたため、北洋官僚界の旧習が新政権でもずっと続いてきた」。
これにたいして「中共が全国を掌握したときには600万人以上の党員を擁し、そのうちの331万人が専従党員(1952年).
1958年には党員は1300万人以上で、専従が792万人、2013年までに中共の党員は8668.6万人で18歳以上人口の8%でこれが中共の広範な社会的基礎となっています。
《国民党政府の軍隊に対するコントロール力は中共より弱かった》
国民党政権を支える力は党員と党機関ではなく軍人と武力でした。
党と政府と軍の三者の中で党の力はもっとも脆弱でした。
抗日戦争時も戦後の「共産党掃滅」時期も真っ先に崩れたのは往々にして党で、次に政府、最後が軍隊でした。
ある地方に進駐するのも一番先が軍隊で、次が政府、最後にやっと党幹部でした。
共産党はこれに対して党の力量は往々にして軍政の前衛であり、ある地区を占拠するとまず真っ先に党の組織がやってきて、そのあとで軍・政の力がやってきました。
またある地区から撤退するにも軍・政が引いてのちにも党の組織は依然として踏みとどまって戦闘を継続したのでした。
ですから国民党政権時には「国民党は完全に軍の従属物」で派閥が乱立し地方軍閥は一地方の軍事、政治、経済を独占し、国民党政府中央とはますます離れた存在になりました。
共産党はその点、在野であろうと権力を掌握していようと、すべて党が政治的な革新的役割を果たしており、党の軍に対する絶対的な指導、つまり「党が銃口を指揮する」原則を堅持していました。
1927年に毛沢東が「三湾改変」で軍隊の中に必ず共産党小組を作るという方法で軍権をしっかり党の手中に収めたのでした。
《国民党の対社会的浸透力ははるかに中共に劣った》
「国民党は執政以後も既存の社会機構と接触しなかった。
国民党は政治的に合格した党員を選抜して各級の政治と社会機構の中に派遣して新しい立脚点をつくることをしなかった」
「また党員を陶冶して社会の模範となるようにして社会の様々な模範とし民衆の信用と擁護を勝ち得るような努力もせず、資質をしっかり分別もしないで旧社会の勢力から党員をかき集め国民党に加入させた」「そうした連中は国民党のバッチをつけてはいても、要するにただこれまでの既得権を保つだけが目的だった」。
「これに対して中共の組織は極めて厳密だった。1949年中共政権成立後は中共は農村と都市の中に浸透し最後には農村では人民公社制度を通じて、都市では道路事務処と居住委員会制度を通じてそうした基礎組織の中に党の支部を建設し、全社会の隅から隅までコントロールした。
十数年前からは中共は私企業の中にも 党支部を建設し、企業に対してもコントロールできるようになった」。
中共はかくていかなる僻地の隅々でも目が行き届き、かっての毛沢東時代の井崗山や陕西にいたころのように各地に革命根拠地をもとめなければならないなどということは起こり得ないのです。
《国民党は党脱退にも放任政策をとった》
王奇文はさらに「国民党の政府部門と国有経済部門を担当した公職者が必ずしも国民党員ではなかったし、党をやめても懲罰を課す制度はなかったと言及しています。
「1947年9月、国民党6節4中全会が南京で開催され、席上、蒋介石は3青年団を国民党に合併し、国民党の全党員、団員は再登録する決議をして、その腹積りでは合併後、総党員は1000万人を超すとおもっていた。
しかし1948年11月、党員、団員で再登録したものはわずかに132万人だった。
つまり、この合併の過程で9割が国民党を脱党したのだった」「この時同時に国民党中央は1947年から県級の党務経費支払いをやめてしまった」
「県以下級の幹部たちは自分で生きていけということになり、こうした状況のもとで各県の党には一人か二人が残るだけとなり、また全く誰「この情景は国民党が軍事的な大潰走の前にすでに崩壊していたという事実を表している」。中共党員は除籍されたり脱退を勧告された者以外、自ら脱党した者は「反逆行為」とみなされ攻撃され、時には肉体的な抹殺まで含まれていました。
中共政権発足後、歴史的汚点としての事件がたくさんあり、何度も政治運動の粛清の対象になったのですが、文革時期には1936年、北方の責任者だった劉少奇が中共総書記の張聞天の許可を得て幹部の力を温存するため61人の国民党に逮捕された幹部が自首して保釈手続きをとった”偽装転向”ですらも、「61人の反逆者集団事件」とされ、6000人以上が巻き添えになったのでした。
現段階で中共に面従腹背の人々は少なくありませんが利益関係のしがらみによって中共党員は「自分から党と縁を切る」ことはできず、自分から党を辞める人は大変すくないのです。
以上の論述は中共政権というこの強力な専制政権の組織機構、方式、結束力などから その攻撃能力は国民党の弱い専制政権の比ではないことを明らかにしています。現在、「組織化なし、中心化なし」というネット革命で中共政権と戦う人々にとって、この一文で少しばかり歴史的経験を提供いたします。(続く)
続編は、国民党と共産党の異なった社会コントロールのやり方について比較してみます。
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本書は横浜栄光学園での講義を元にして書かれた本である。
加藤陽子という人と人に対する批判
加藤陽子ご本人が第一回の講義で「文学部の先生」と紹介されていたので、文学部なのだろう。
戦間期(第一次世界大戦と第二次世界大戦の間の時期。結構面白い時代)の専門だという。
本書に対する批判
歴史的な事実は動かしがたい。
その解釈の部分で意見が割れてくる。どのように解釈しているかを、私なりに解釈した内容は別途記す。
主に、加藤陽子と本書を批判しているのは、ネット上などのいわゆる「ネット右翼」的な傾向が強い人々である。
人間性までも含めて批判しているのは少々たちが悪い。
こういうことを書くと、「左」と書かれてしまう。
今、純粋に「左」なんて人はきわめて少なくなっていて、特に四五歳以下だと、ほとんどが保守層のなかの左よりか、右よりか、という範囲に存在している。
私の場合、三浦綾子氏よりは左にいるのだろう。その程度の目安にしかならない。
何が書きたかったかというと、要するに右だの左だのという論議自体がほとんど無効だということ、そして加藤さんも読み手の立ち位置によって、右に見えたり、左に見えたりするのだということである。
もしも団塊の世代くらいの年齢で、本当に左翼的な思想を持っていれば、戦争について語るだけで「右」に見えるだろう。
もっとも、共産党ですら革命の意義が曖昧になった昨今、左の思想がどんな形であるのか、よくわからなくなっているが。
逆に加藤陽子と本書について、枝葉末節な部分も含めて揚げ足を取っている人間に興味が行ってしまう。
このような批判をする人間を見ていると、ほほえましくなることがある。なんとなく、お気に入りのおもちゃやアイドルをけなされてヒステリックに反論しているように見えるからだ。
東大の学生に言われるのだそうだが、加藤陽子は松岡洋右に甘いのだそうだ。
「左」で松岡洋右に甘い人っているんだろうか。あまり調べてないからわからないが、印象としては居ない気がする。
一般的なことを書けば、七〇年代に学生運動がぐっと下火になった後、運動を最後に担当していた連中というのは、みななぜかお金が大好きになる。
その辺りを皮肉ったのが桑田佳祐の「真夜中のダンディー」だ。だから、八〇年代くらいからは左自体も激減したのである。
本書の特徴と言いたいこと
結論は言っていない
実は加藤陽子は、「時代の空気」について、どのようなものだったかを栄光学園の中高生に紹介するという作業をしているのであって、具体的に、端的に、どこで日本が判断や決断を誤ったかを示してはいない。
それは読者の方(要するに中高生)に判断してほしいというスタンスを取っている。様々な新しい研究を、研究者と共に紹介していく。
たとえば、植民地経営のプロをそろえたリットン調査団というのが、満州国についての正当性を中国側の要請を受けて調べたことに触れる。
その結果如何によって、満州国の支配権限がどちらにあるかが決まる。
本書では、そのレポートについて、両成敗という形を取っているとした。
華北地方の経済的な権益は日本政府に、そして満州国の正当性は認めず、それは蒋介石率いる国民政府側にあるとした。
要するに、(ここからが私の解釈で本書ではそこまではっきり書いていない)連盟に加盟している国々は、一般的に、「最終的にほしいのは中国北部の経済的な権益」なのだから、そこを認めてあげることで日本政府のメンツを立て、「領土の帰属に関しては中国側にある」ということで中国のメンツを立てるという内容になっているとした。
結局は欧米が当時の日本の状態について無知であったのだろう。
軍事主義が社会のなかでも突出しすぎていて、領土が減るということが死活問題であるように見えるということを読み違えていた。上記した最終的な国益がおかしな形になっていたのだろう。
政党を始めとする、いわゆる一般的な政治団体の力が急速になくなっていて、軍部が突出した状態(東アジアで発生しやすい政治形態で、中国・北朝鮮が今もそう)に対して無知であったことも読み違えた原因だろう。
青い字の部分が実際にははっきりと書かれていない。そこをどう解釈するかは、読者次第である。ちなみに、盛大にミスリードしているネット右翼の人がいた。リンクを張るかは迷ってしまう。別に喧嘩したいわけではない。(やめとこ)
どの時点で間違ったか
これも色々な意見がある。
一つに限定するのは難しい。
読んでいて、ミスをした要因の大きなものに、「中国軍への評価」があるように思う。つまり、あの当時の中国軍は強かったのである。この点を理解していなかったように思う。
この本の一番良いと思うところは、その時代の空気を伝えているところだ。
日本人は中国との戦争を「弱い者いじめ」だと考えた。
だから米国との開戦という話を聞いてほっとしたらしい。一般の人の感覚だ。これを聞いて意見は色々あるだろう。
ただ、わかるのは中国を弱いとみていたということだ。
この当時の中国の戦略を説明するのに、加藤さんはふたりの人物を紹介する。一人は、胡適、もう一人は汪兆銘である。
二人の覚悟がすさまじい。
胡適は中国の未来を切り開くために、「外国の軍隊を利用する」ことを考える。その悲痛な覚悟が「日本切腹 中国介錯」という言葉に込められる。
中国は絶大な犠牲を決心しなければならない。この絶大な犠牲の限界を考えるにあたり、次の三つを覚悟しなければならない。
第一に、中国沿岸の港湾や長江の下流地域がすべて占領される。そのためには、敵国は海軍を大動員しなければならない。
第二に、河北、山東、チャハル、綏遠、山西、河南といった諸省は陥落し、占領される。そのためには、敵国は陸軍を大動員しなければならない。
第三に、長江が封鎖され、財政が破綻し、天津、上海も占領される。そのためには、日本は欧米と直接に衝突しなければいけない。
我々はこのような困難な状況下におかれても、一切顧みないで苦戦を堅持していれば、二、三年以内に次の結果は期待できるだろう。
[中略]満州に駐在した日本軍が西方や南方に移動しなければならなくなり、ソ連はつけ込む機会が来たと判断する。
世界中の人が中国に同情する。
英米および香港、フィリピンが切迫した脅威を感じ、極東における居留民と利益を守ろうと、英米は軍艦を派遣せざるをえなくなる。太平洋の海戦がそれによって迫ってくる。
(「世界化する戦争と中国の「国際的解決」戦略)
引用の引用で申し訳ないが、本書にあった胡適の作戦なのだそうだ。
これを蒋介石や汪兆銘の前でぶつ。
じゃっかん、他国に頼りすぎであり、情勢が許さなければ、英米もうまい具合に作戦通りに動かない可能性がある。
その辺りを本気で考えているところが、なんとも若くて良い。他人に絶望していない(わしゃ老人かい)。
汪兆銘は開戦後に南京に日本の傀儡政権を作った人物。
つまり、胡適が米ソを選んだとすれば、汪兆銘は日本を選んだ人物だ。
胡適の「日本切腹 中国介錯論」に対して、「そんなことをしていれば、中国はソ連化する」と論破する。その後、中国はソ連化するのである。
そのような優秀な人物が現れ、しかも援蒋ルートから中国に物資の補給のある状態になるということをどれも察知できなかった。
日本のその新城の根底には中国に対する侮りがあるからである。
日本らしいといえば日本らしい。
スポーツにしたって、相手が強いときには大金星をあげたりするのであるが、自分たちが余裕で勝てると思ったときには案外負ける。なんとなく、日本人って極端なんですよね。
サッカーにしても、ラグビーにしても、明らかに相手より弱いときには善戦する。
日本人は皆が侮っているときが一番怖い。
そんなことを考えた。
自分の思想にかかわらず、一度読んでみると良いと思う。書いたが、時代の空気はよく出ていると感じた。
『五色の虹 満州建国大学卒業生たちの戦後』知の力を信じるということ
日中戦争当時、傀儡国家・満州国の最高学府として設立された国策大学が「満州建国大学」である。
満州国の将来の指導者たる人材の育成と、満州国の建国理念である「五族協和」の実践の場として、日本人・中国人・朝鮮人・モンゴル人・ロシア人といった様々な民族から選抜された若者たちが6年間寝起きを共にしながら切磋琢磨する。
すべて官費で賄われ授業料も免除という条件の良さもあり志願者が殺到、2万人の中から選ばれた150人が入学を許されるという狭き門で、まさに彼らはスーパーエリートだった。
満州建国大学は「五族協和実践の成果」を国際社会に発信するための広告塔でもあった。
国際化をうたいながら在校生はほとんど日本人だった各地の帝国大学とは違い、日本人は定員の半分に制限され、残りは各民族に割り当てられる。
カリキュラムも日本語や中国語の他、英語・ドイツ語・ロシア語・モンゴル語等々自由に学ぶことが出来、禁書扱いになっているような書物も図書館で自由に読むことが出来た。
なにより驚くべきことに、学生たちにはある特権が与えられていたという。
「言論の自由」である。
学内では民族に関わらずすべての学生に等しく「言論の自由」が認められており、公然と日本政府の政策を批判することも許されていたというのだ。
“その特権は彼らのなかに独自の文化を生み出した。塾内では毎晩のように言論の自由が保障された「座談会」が開催され、朝鮮人学生や中国人学生たちとの議論のなかで、日本政府に対する激しい非難が連日のように日本人学生へと向けられたのだ
”
同世代の若者同士が一定期間、対等な立場で生活を送れば、民族の間に優劣の差などないことは誰もが簡単に見抜けてしまう。彼らは、日本は優越民族の国であるという選民思想に踊らされていた当時の大多数の日本人のなかで、政府が掲げる理想がいかに矛盾に満ちたものであるのかを身をもって知り抜いていた、極めて希有な日本人でもあった
”
「五族協和も建国大学も、侵略戦争をごまかす道具ではないのか。」
徹底的に議論する。様々な言語が飛び交う。時にはつかみ合いにもなる。
徐々にお互いが何を考えているのか、何を背負っているのかわかってくる。互いの痛みがわかってくる。
“互いの痛みがわかるようになると、人間は大きく変わっていくのです
”
こうして学生たちは出自を越えて絆を結んだ。傀儡国家の広告塔という大学設立の思惑を越えて、それぞれの理想を実現しようと必死に学び始めるのである。
だが、日本の敗戦ですべては幻と消えた。
わずか8年しか存在しなかった満州建国大学に関する書類はことごとく焼かれ、卒業生たちは口を閉ざした。
“日本人学生の多くは敗戦直後のソ連の不法行為によってシベリアに送られ、帰国後も傀儡国家の最高学府出身者というレッテルにより、高い学力と語学力を有しながらも多くの学生が相応の職種に就くことができなかった
”
中国人やロシア人、モンゴル人の学生たちの多くは戦後、「日本の帝国主義への協力者」とみなされ、自国の政府によって逮捕されたり、拷問を受けたり、自己批判を強要されたりした。ある学生は殺され、ある学生は自殺し、ある学生は極北の僻地に隔離されて、馬や牛と同じような環境で何十年間も強制労働を強いられた
”
多くの卒業生たちが記録を残すことを好まなかったのは、文字として記録されたものが証拠となって異民族の学生やその家族に弾圧が及ばないかということを極度に恐れたからだという。
が、いつかまた、顔をあわせて自由に言論を戦わせることの出来る日がきたときのためにと、戦地や抑留先から戻ったかれらは互いに連絡先を探り合い、密かに同窓会名簿を編み続けていた。
国交が断絶しているときでも様々なルートをつかって学友の行方をたどってはひとりひとりの連絡先を記録し続けていたのである。建国大学出身者、約1400人。だが安否がわからないものも多い。
五族協和という偽善のスローガンを、そのまま実践しようとして歴史の中で消えていったかつての若者たちは、どんな思いで学び、どんな戦後を生きたのか。
日本、中国、モンゴル、韓国、台湾、カザフスタンと、各地に散らばる卒業生たちを訪ねる著者の旅が始まる。
存命の卒業生も、取材当時ですでに85を過ぎた高齢である。
まさにひとりひとりとの一期一会の機会が積み重ねられていく。
たがいの祖国が交戦状態にある、あるいは植民地をして支配する側とされる側に分かれているなかで、かれらはほんとうに対等な関係を築けていたのだろうか。
それぞれ故郷をはなれて人工国家の満州で学ぶことを決めたのはどんな思いがあったからなのか。何をもとめていたのか…。
国民党軍の捕虜となり、国共内戦の最前線で戦わされた日本人学生。
抗日運動に身を投じ獄につながれた中国人学生。
ソ連に送還され収容所おくりになった白系ロシア人の学生。
戦後70年を生き抜いて、今日ようやく語られるそれぞれの人生はとても重い。
が、それぞれが様々な道のりをたどっていても、かれらに共通しているのは「知の力」を信じていることだ。
満州建国大学がどんな理想を掲げようが矛盾をはらんでいることを彼らは当然感じていた。
それでもなお、だからこそ、かれらは真剣に悩み答えを求めて議論し続けた。
国家とは、民族とは、故郷とは何か。自分の使命とは何か。その答えにたどりつこうと悩みもがいたことで身に付いた知の力が、理不尽に耐えなくてはならないときにも心の支えとなったのである。
そして、政治体制にかかわらず、権力というものが知の力を恐れるのもまた共通している。
とくに「野にある知」を権力がいかに疎んじるか。
「まつろわぬものたちの知」をいかに恐れるか、いかに粗末にあつかうか。取材が重ねられるなかで浮かび上がってくるのだ。
“衝突を恐れるな。知ることは傷つくことだ。傷つくことは知ることだ
”
“歴史を学ぶということは、悲しみについて学ぶことである
”
“いつの日か、私たちが再び会える日が来たときに、恥ずかしい思いをしたくないと思ったんです。
”
“だから、私も頑張ろうと思ったんです
”
建国大学同窓会は事実確認などの原稿の裏取り作業にも多大な協力を惜しみなく注いでくれたそうである。
いまだ満州建国大学の記録が身の危険につながりかねない環境に生きている同窓生もいることに配慮し、同窓会の幹部たちと何度も話し合って本書は完成した。
無念をいだいたままこの世を去った同窓生たちの声なき声にも思いを馳せ、学ぶということの意義にも謙虚な気持ちにさせられる作品だった。
『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』を読む その2
▼きのうに続いて加藤陽子氏の『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』の読みどころを紹介しておきたい。
▼本書は、近代日本史、現代日本史を知りたいと思う人にとって、優れた先行業績のエッセンスの索引にもなっている。「日清戦争」「日露戦争」「第一次世界大戦」「満州事変と日中戦争」「太平洋戦争」と、知りたいところから読み始めてもOKだし、それぞれの歴史研究の参考すべき成果にたくさん触れているから、簡単な研究入門にもなっている。
また、本書は「日本を中心とした天動説」(12頁)を徹底的に相対化する講義にもなっている。
それにしても、日本の近代史は、つくづく戦争の歴史だ。
▼さて、きょうも「鳥の目」と「虫の目」の切り口で、一つずつ面白い箇所に触れておこう。
まず「鳥の目」。それは「憲法」の話である。
▼加藤氏は、リンカーンがなぜ、南北戦争の悲惨な犠牲の後、あの有名な「人民の、人民による、人民のための」という演説をしなければならなかったのか、という秀逸な問いを立てる。そしてこどもたちに25文字くらいで答えを書くように課題を出す。
模範解答例は「戦没者を追悼し、新たな国家目標を設定するため」。これは、問いと答えだけを見ても、何も面白くない。ここでは省略した、模範解答例に至る問答がとても面白かった。
▼加藤氏は、このリンカーンの「人民の、人民による、人民のための」が日本国憲法の前文に正確に反映されていることに触れる。
と同時に、「歴史は数だ」という言葉から、戦争が、次の時代の社会を変える方程式のようなものを見出す。
〈戦争を革命に転化させてしまったレーニンという政治家が述べた「歴史は数だ」との断言は、戦争の犠牲者の数が圧倒的になった際、その数のインパクトが、戦後社会を決定的に変えてしまうことがあることを教えていると思います。
帝政ロシアが倒れたのも、第一次世界大戦の東部戦線を担ったロシア側の戦死傷者の多さを考えなくては理解不能でしょう。
そうなりますと、日本国憲法を考える場合も、太平洋戦争における日本側の犠牲者の数の多さ、日本社会が負った傷の深さを考慮に入れることが絶対に必要です。
もちろん、こうした日本側の犠牲者の数の裏面には、日本の侵略を受けた多くのアジアの国々における犠牲者数があるわけですが。
日本国憲法といえば、GHQがつくったものだ、押し付け憲法だとの議論がすぐに出てきますが、そういうことはむしろ本筋ではない。
ここで見ておくべき構造は、リンカーンのゲティスバーグでの演説と同じです。
巨大な数の人が死んだ後には、国家には新たな社会契約、すなわち広い意味での憲法が必要となるという真理です。
憲法といえば、大日本帝国憲法のような「不磨(ふま)の大典(たいてん)」といったイメージが日本の場合は強いかもしれませんが、ゲティスバーグの演説も日本国憲法も、大きくいえば、新しい社会契約、つまり国家を成り立たせる基本的な秩序や考え方という部分を、広い意味で憲法というのです。
ゲティスバーグ演説の“people”の部分も、日本国憲法の「権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する」にも、こうした強い理念を打ちださなければならなかった、深い深い理由が背景にある。
太平洋戦争における日本の犠牲者の数は、厚生省(当時)の推計によれば軍人・軍属・民間人を合わせて約310万人に達しました。〉(42-44頁)
このくだりを、加藤氏は一言で要約している。いわく、
「膨大な戦死者が出たとき国家は新たな“憲法”を必要とする」
とても明快な方程式だ。加藤氏が指摘した
「巨大な数の人が死んだ後には、国家には新たな社会契約、すなわち広い意味での憲法が必要となる」
という厳粛な真理の前では、たしかに「押し付け憲法」論は本筋ではない。負けた国の憲法が新しくなるのは必然だった。
この議論は、少し頁を進めると、同じ真理が別の言葉で言い換えられている。読者は、18世紀にルソーが唱えた
「戦争とは相手国の憲法を書きかえるもの」
という衝撃の真理にたどり着く。ぜひ本文をたどってほしいところだ。
▼もう一つの切り口、「虫の目」について。
あるこどもが加藤氏に、「たくさんの戦死者が出ているのに、その被害が日本全国に伝わらなかったのはどうしてですか」という素晴らしい質問をする。その答え。
前線の兵士は、月に一回くらいはハガキを出すことができた。
〈それがあるときからぷつりとこなくなる。
たとえばニューギニアには第18軍が送られますが、10万人いた兵隊のうち9万人が飢えで死にます。
故郷では、だんだんと、おかしい、お父さんから手紙がこない、隣の村の誰々さんの家もそういっていたなどと話が伝わってゆく。
このように、ごくごく限られた地域では、近所の人々の話から、故郷から出立した軍団が壊滅的な打撃をこうむったことは想像できるはずですね。
ところが、ここからが問題なのです。
ある地域に限っては、たとえば、新潟県や宮城県などの新聞には第18軍関係の戦死者の名前と人数は出る。地域にとってお葬式は大事ですから。
でも、日本のそれ以外の地域には情報が伝わらない。
これは検閲制度の専門家・中園裕(なかぞのひろし)先生が明らかにしたのですが、地方紙の地方版に載った戦死者の情報全体を合計することはできないようになっていた。
だからそれこそ自動車で走り回って、すべての県の新聞の地方版の一カ月単位の戦死者数を合わせれば、全国規模のその年の戦死者数の合計がわかるはずです。
しかしそういうことをやれた人はいないでしょう。
警察につかまってしまう。
全国紙を読んでいただけでは「特攻に行きました」という飛行士の顔写真は載っていても、ニューギニアで、ある地方の師団が9割戦死しているというのはわからないのです。
国民全体が敗戦を悟らないように、情報を集積できないようなかたちで戦争を続けていた。それが1944年の情況でした。〉(455-456頁)
▼読んでいて暗い気持ちになった。じつに合理的な計算を、軍という官僚組織は、行なっていたわけだ。
しかし、きのうの繰り返しになるが、〈日本という国は、こうして死んでいった兵士の家族に、彼がどこでいつ死んだのか教えることができなかった国でした〉。
▼この、戦死者数が合計できないからくりの直後に、加藤氏は株価の話をもってくる。じつに面白い。
〈しかし、国民もさるもの、民の部分では、なんらかの情報が流れていたと感じさせるのは「株価」の話ですね。
--え、株価って、戦時中に株式市場が開いていたんですか?
そう、ギョッとするでしょう。開いていたんですね。これも吉田裕さんの本に書かれているエピソードなのですが、45年2月から、軍需工業関連ではないもの、これは当時の言葉で民需といったのですが、民需関連株が上がります。
具体的には、布を機械で織る紡績関連の株などが上がりだしたというのですね。
戦時中では上がるはずはなかった。こうした株に値がつきだす。
つまり、そのような株の買い手が増えてくるということです。
船舶もどんどん撃沈されて、43年あたりからは民間の船などはもう目も当てられない惨状になる。
船舶を建造する鋼材も走らせる燃料もない。発動機もない。
それなのに船舶関連の株が上がってくる。
これはなにか、戦時から平時に世のなかが変化するのではないか、そのような見通しを確かに立てた人間がいて、株価が上がっていったのではないかと考えられます。〉(457-458頁)
▼すごい話だ。この株価の話を読んで、思い出した話がある。宮本常一の本に書いてあった、戦争中の話だ。株の話ではないけれども。それはまた今度。
『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』は、〈過去を正確に描くことでより良き未来の創造に加担するという、歴史家の本分〉(484頁)に則り、忠実に研究を続けている人が、未来のこどものために残した、渾身(こんしん)の歴史書だ。
「日本」の今を知る手がかりとして、読まない手はない。強くオススメする。
(2019年2月3日)