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塾生レポート
歴史観2005年9月
日韓基本条約を再考する
内田善一郎/卒塾生
内田善一郎/卒塾生
平成17年の日韓友情年にあたって、戦後の日韓国交樹立交渉をたどり日韓基本条約を振り返り、東アジア外交の原点を再考する。
【はじめに】
平成14(2002)年9月の小泉総理大臣の訪朝とそれに伴う日朝平壌宣言から既に3年の月日が流れた。
近い将来の国交正常化を期した訪朝であったはずだが、表面上、大きな進展は見られていない。
一方、日本人拉致や核兵器開発、不審船問題などをはじめとする日本国民の生命と安全にかかわる様々な懸案について、北朝鮮側から適切な措置が講じられたとは言い難い。
このまま膠着するにせよ、何らかの大きな変化が生じるにせよ、国交樹立から40年を経た韓国といかなる外交交渉を我が国は進めてきたのかを精査し、それに準じた外交交渉を展開すべきであろう。
いかなる局面においても、妥協することなく、また苛烈をきわめることなく、外交史と国際法を踏まえる必要があろう。
また、近年、特に平成7年8月中旬の村山総理大臣の談話以降、近隣の一部の国々から幾度も要求される「痛切な反省と心からのお詫び」に関して、我が国が具体的にどんな取り組みをしてきたのかを精査する必要がある。
特に朝鮮戦争(1950~53)から日韓基本条約締結に至る韓国の歴史を分析し、現在、国交のある韓国に対して我が国が如何なる外交を展開してきたのかを再考することは、今後の日朝交渉のプランを練り直すヒントになるのではなかろうか。
1.韓国成立と李承晩
第2次世界大戦後の1948年8月15日、大韓民国は成立した。初代大統領は李承晩(1875~1965)である。
1919年の三・一騒擾事件の際に大韓民国臨時政府の大統領に就任している李承晩は日本統治時代、朝鮮独立運動に従事していたが、主たる活動場所は朝鮮半島ではなく米国で、帰国は1945年であった。
大韓民国成立を支持した米国の関与は朝鮮戦争の戦中、そして戦後も継続されたことは言うまでもない。朝鮮戦争後も国連軍の主力であった米軍の一部は在韓米軍として駐留を続け、現在に至っている。意外なことに軍の指揮系統についても当時のままで、米軍大将が任じられる在韓米軍司令官は、今なお朝鮮における国連軍の司令官であり、韓国軍に対して作戦統制権をも有している。
換言すれば、韓国軍は米軍の指揮下にあるとも言える。歴史上の観点に立てばこの構図は、軍事に限定した話ではあるが、まさに戦前の帝国陸海軍大将が朝鮮総督府の長官に任用されていたシステムに酷似している。
米国と韓国との軍事面での関係強化は冷戦の進展とともに強化されたことは言うまでも無く、朝鮮戦争休戦から3ヵ月後の1953年10月には米韓相互防衛条約が結ばれていた。
内容的には朝鮮戦争中の1951年9月に締結された日米安全保障条約と並んで米国の東アジア戦略の根幹を成すものであることは言うまでもない。
李承晩は東京帝国大学や京城帝国大学ではなく、ワシントン大学、プリンストン大学を卒業している。
青年期にどこの大学で勉強したのかは全く関係無いことかもしれないが、自国の軍隊の指揮権を委ねるほど米国に対して寛容な李大統領は我が国に対しても鷹揚な態度を示したか言えばそうではなかった。
特に日本海側の漁業従事者にとって過酷であったのは、1952年、突如として宣言された李承晩ラインである。
韓国の海岸線から200海里の内側を韓国の海洋主権に属する海域として一方的に設定し、1953年からはこの海域に入った我が国の漁船が次々と拿捕され、長期間にわたって抑留を強いられた。
こうした異常な緊張関係は1965年の日韓漁業協定締結まで10年以上にわたって続いた。
李承晩ラインが破棄されるまで李大統領が政権を維持していたかといえば、そうではなかった。
1960年の大統領選挙の際に、李承晩は四選を果たすが、これを不服とする反政府運動が韓国全土で発生した。警官隊とデモ隊は激しく衝突し、200名以上の死者、6000名以上の負傷者を数える大暴動に発展。
一生を通じて米国に心を寄せ続けた李承晩はハワイに亡命、副大統領の李起鵬は家族とともに自殺、という結末で終結する一連の惨劇は韓国では四・一九革命と称されている。
李承晩は韓国に戻ることはなく、李承晩ラインが廃止される1965年、客死する。
1960年の4月革命後、憲法は改正され、議院内閣制が導入され、韓国は民主化の道をたどるかのように見えたが、1961年5月には軍部によるクーデターが起こり、頓挫。
米国第35代大統領(1961~63)のケネディ(1917~63)はこの軍事政権をあっさりと承認した。
軍事政権は1962年、大統領権限を強化する新憲法を公布し、1963年10月、大統領選挙を実施。ここで選出されるのが、朴正熙(1917~79)である。
2.朴正熙政権の誕生
李承晩のハワイ亡命後の3年間に、3人の大統領が交代するという激しい変化に見舞われた韓国は朴正熙の大統領就任により一応の安定期を迎える。
この間、様々な問題が生ずるにせよ、自身の側近によって殺害される1979年まで続く20年近い長期政権であったことにより、朴政権が韓国の一時代を画したことは確かである。
韓国南東部、慶尚北道出身の朴正熙は戦前、満洲軍官学校、陸軍士官学校を卒業している。
こうした経験を持つ朴正熙が外交の懸案としたことは、北朝鮮に対する国防、そして日本との国交樹立であった。
北京やモスクワを後ろ盾とする北朝鮮の地政学的脅威についての認識は韓国一般国民とは異なる陸士由来のものであろう。
また対日意識については、米国偏重の李承晩と比べてより現実的なものであったと推察される。
1961年5月の軍部によるクーデター時、朴正熙は現役の少将であり、中心的な役割を演じている。
クーデターの動機は様々に考えられるが、朴をはじめ戦前の帝国陸軍の地政学教育の影響を受けた韓国軍将校たちは本心において北朝鮮に対する特有の危機感を秘めていたと考えるのは不自然でない。
1960年の4月革命は学生が主導した側面もあり、これらの学生たちは朝鮮戦争休戦会談が行われた板門店で南北学生会談を開催することを決定していた。
こうした空疎な南北対話進行の試みを阻止しなくては共産勢力の伸張を許してしまうと考えた朴はクーデターを実行した。
クーデター成功を見た朴は1963年10月の大統領選挙にあたっては軍人から退役している。
3.日韓国交樹立
敗戦から約20年を経た1965年6月22日、朴政権下の韓国と日韓基本条約が締結され、同年12月18日にソウルで批准書が交換され発効した。
1910年8月調印の韓国併合条約を無効とし、日本と韓国との間に国交が樹立された。
共産勢力の拡大阻止に注力する朴大統領への配慮もあり、北朝鮮に関しては国家として承認せず、韓国政府を朝鮮半島における唯一の合法政府として認めることが盛り込まれた。
かつての旅券には渡航先として「北朝鮮以外の国々と地域に有効」と明確に記されていたのはこの条約を根拠とするものである。
米国に促されるかたちで朝鮮戦争時の1951年から、日韓の国交関係を議定するための外交交渉は試みられていた。
冷戦下、米国は東アジアの共産勢力の脅威に対して日韓が共同して対処することを望んでいたからである。
しかし日韓間の交渉は困難を極めたことは想像に難くない。
いわゆる「賠償」や、李承晩ラインに象徴される漁業権、在日韓国・朝鮮人の法的地位、さらには20世紀前半の朝鮮半島をめぐる歴史認識などの懸案で交渉は再三、紛糾を繰り返した。
近年もそれらの問題は提起されている。
そして「痛切な反省と心からのお詫び」が近隣諸国に表明されている。
毎回、様々な注文がつけられるが最終的にそれらの対象諸国が要求するのは「賠償」である。それぞれの国によって事情、締結した条約は異なり、それぞれ精査が必要であるのだが、少なくとも韓国との間では、この1965年の日韓基本条約ならびに付属の経済協力協定で決着していることは是非とも確認しておくべきであろう。
日韓国交樹立交渉において、例えば李承晩ラインによる日本漁船の拿捕がはじまった1953年10月の日韓会談では、日本側の久保田貫一郎代表は賠償拒否を主張した。
賠償拒否の論拠の一つとして、朝鮮半島の日本領有時、内地と比べても充分過ぎるほどの公共投資を朝鮮半島各地で行ったことを挙げている。
二・二六事件(1936年)に決起した多くの青年将校の出身地である東北地方への財政支出を後回しにしてまで、韓国内に大規模な農地を造成し、鉄道、港湾、道路などの公共インフラの整備した実績を久保田代表は韓国側に伝えている。
また国際法上の賠償拒否の論拠として、賠償は敗戦国が戦勝国に対してなすものであって、連合国に属していなかった韓国に賠償請求権は無いという考えも有力であった。
サンフランシスコ平和条約締結(1951年)直後、吉田内閣の大蔵大臣であった池田勇人(1899~1965)は「韓国は平和条約の調印国ではない、従って平和条約による韓国への賠償は無い」と国会で答弁しているが、こうした考えは対韓交渉の原則とされた。
上記の二つの論拠をベースに日韓国交樹立交渉は進められ、1951年の予備会談から14年の歳月を経て1965年6月、日韓基本条約および付属の経済協力協定は調印された。
この付属の経済協力協定によって、いわゆる「賠償」についての問題について両国は合意に達した。
協定の名前にもあるとおり、賠償ではなく、経済協力の名目で日本から韓国に対して総額約8億米ドルもの経済援助が取り決められた。
40年前の当時、我が国の外貨準備高は乏しく、外貨の持ち出しが厳しく制限され、1米ドルが固定レートの360円で、1973年のオイルショック以前の物価水準を考えると極めて莫大な経済協力ではあったが、日韓間の納得が行く交渉の成果として、この条約と協定は両国で締結から半年のうちに批准された。
この莫大な経済援助に見合う取り決めとして、韓国は、国家としても、個人としても賠償請求権を放棄することを明確に約束した。
経済協力協定の第2条第1項の条文に、「両締約国は、両締約国およびその国民の財産、権利、および利益ならびに両締約国およびその国民の間の請求権に関する問題が、1951年9月8日にサンフランシスコ市で署名された日本国との平和条約第4条(a)に規定されたものをも含めて、完全かつ最終的に解決されたこととなることを確認する。」とあり、ここにはっきりと国家と個人ともども韓国はいわゆる「賠償」に関する問題を今後、一切、持ち出さないことが謳われている。
日韓基本条約締結から40年目にあたる平成17年は日韓友情年とされた。そんな折に小泉内閣総理大臣が靖国神社を参拝すると、韓国の一部の国民は反発し、さらには「賠償」を求めている、といった報道がされる。
報道の真偽については別の問題として、報道の仕方によっては、反日感情に付随する「賠償」について未解決であるかのような印象を与えかねない。
平成7年8月の村山総理大臣の談話以降、慰安婦、強制労働などの事案に付随して、決着済みの「賠償」問題が報道されることが多くなったが、国際法上、1965年に解決されていることを両国ともに失念してはならないだろう。
日韓基本条約と付属の経済協力協定は、韓国では朴正熙大統領を支持する与党の賛成多数で批准されている。
朴大統領は批准の当日、談話を発表している。好戦的な「中共の使嗾」(中国共産党のそそのかし)を受けて、いつ再侵してくるかもしれない「北傀」(北朝鮮)と対峙している状況で、日本と協力関係を結ぶことは当然の行為である、という内容であるが、この朴大統領の談話から、条約締結にあたって当時の韓国政府がいかなる意図を有していたのかは明らかである。
日本との友好関係を基礎に国内を安定させ、北朝鮮の脅威に備える意図。そして経済協力によって得られた資金によって工業化を推進するという意図である。
その後、「開発独裁の時代」などと揶揄されつつも朴正熙政権は1979年まで安定的に推移し、韓国が顕著な経済発展を成し遂げたことを考えると、朴大統領による1965年の日韓基本条約締結という政治的判断の正当性を認めざるを得ないだろう。
4.近代法治国家としての責務
日韓友情年の平成17年1月、日韓国交樹立交渉の関連文書が公開された。あしかけ14年の交渉において、「賠償」問題で甚だしく紛糾したことは想像に難くない。
最終的に条約では、国家としても国民個人としても「賠償」を請求することを放棄することが確認されたが、今般、公開された文書で、交渉の最終過程で日本側が個人補償を提案していたものの韓国側が拒否したことが明らかとなった。
日本から韓国政府が一括して莫大な経済協力を受け取ったことは上述のとおりである。
個人補償案を韓国政府が拒絶したという事実が明らかになった以上、国家として韓国は莫大な経済協力を受け取っておきながら、日本は何も償ってはいないという反日世論が韓国側から喚起されるとしたら、充分、注意を払わなくてはならない。
韓国の一般国民の言い分として、日韓基本条約は朴政権によるもので個人補償を要求したくなる感情もあるかもしれないが、近代法治国家として承認されたいのであれば、合法性を有するかつての大統領を辱める行動は慎むべきであろう。
過去四半世紀の韓国歴代大統領は退任後、逮捕され、痛罵を浴びせられることがあまりにも多かった。
その際に目立ったことは在任中の過去の所行を糾弾するための法律を制定し、過去に遡って裁いたことである。
一つの近代法治国家としての敬意を払いつつ、国内問題には内政不干渉の立場からこれ以上、言及するつもりはないが、他国との条約については、たとえ今日の歴史観で「開発独裁政権」と揶揄される朴政権が締結した条約であっても、国際法上の手続きを踏まない限り、これを蔑ろにするような言動は厳に慎むべきであろう。
これは我が国においても適合する。国交を樹立していない国との交渉に没頭するあまり、かつて締結した条約を蔑ろにするようなことはあってはならない。
また、たとえ執拗に「痛切な反省と心からのお詫び」の表明を迫られたとしても、過去に締結した条約の理念を逸脱するようなその場凌ぎの言動をとってはならない。
特にお詫びを述べたがる人々に対して申し上げることかもしれないが、もし、憲法に関して頑なに護憲の立場を貫く気概を有しているとしたら、条約に関しても遵守する姿勢を堅持するのが自然であろう。
近隣外交については、昨今、前向きな対話、未来志向ということばがよく聞かれるが、何のために先人たちが外交交渉を重ねたのかを忘れることがあってはならない。
北朝鮮との交渉は今後も困難を極めるであろう。
しかし、拙速であってはならないし、14年かけて我が国の立場と韓国の立場を折り合わせた日韓基本条約の合理性を失念してはなるまい。
とりわけ時あたかも、韓国の現政権は民族の同一性を重視する政策をとっているのだから。(了)
参考文献
『韓国の悲劇』 小室直樹 1985年 光文社
『海峡をへだてて―日韓条約20年を検証する―』 海峡をへだてて刊行委員会編 1985年 現代書館
『日韓関係の再構築とアジア』 金竜瑞 1995年 九州大学出版会
『検証日韓会談』 高崎宗司 1996年 岩波新書
『日韓関係史研究―1965年体制から2002年体制へ―』 池明観 1999年 新教出版社
『日韓「歴史問題」の真実』 西岡力 2005年 PHP研究所