「埼玉愛犬家連続殺人」2人の子供が明かす両親の意外な素顔 「私には甘い優しい父親で
2021年3月27日 11時0分
殺人者との結婚
遺体は風呂場で解体、骨は高温で粉に――埼玉県で平成5年、愛犬家ら4人が相次いで殺害された事件で、殺人や死体損壊遺棄などで死刑が確定した関根元・死刑囚が東京拘置所で死亡してから、4年が経った。
関根には事件当時2人の幼い子供がいたが、彼らが見た両親の姿、そして事件後の人生とは。
(以下は「新潮45」2016年2月号より再掲)
***
「自分では覚えてないんですけど、お袋が、お父さん欲しくない? って聞いたらしいんです。それで、自分が欲しいって答えて……」
和春(仮名)はそう言って、唇を噛んだ。母親の風間博子は、その時シングルマザーだった。
和春の一言がなければ、風間は、関根元と結婚しなかったかもしれない。
そうであれば、その後の不幸とは無縁。母親が、関根とともに死刑囚になってしまうこともなかったのでは……。
関根元・死刑囚
36歳の和春は、解体と露天商の仕事をしている。山男のような逞しい風貌の彼が、寂しそうに目を伏せる。幼き日の彼の言葉に、責任があるはずもないが。
関根は、戦後の日本で逮捕された中で、最大級の大量殺人者だ。こう書くと首を傾げられるかもしれない。
1993年に関根の起こした埼玉愛犬家連続殺人事件の犠牲者は、4人。確かに、もっと多く殺している殺人者は枚挙にいとまがない。
共犯者は「殺したのは30人以上と聞かされた」
だが、脅されて死体損壊遺棄のみを行ったという共犯者の中岡洋介(仮名)は関根から、それまでに殺したのは30人を超えると聞かされたと供述している。
中学卒なのに、京都大学を出たなどと、いつも嘘を吐き、ホラ元と呼ばれていた関根の言葉を、鵜呑みにはできない。
だが、「ボディを透明にする」と関根が自分で語っていた、被害者の遺体の解体方法。肉はサイコロステーキほどに細かく刻み、骨は高温で焼き粉にしてしまう。
最も雄弁な証拠となる遺体をほとんど消滅させてしまう周到なやり方は、とても殺人初心者のものとは思えない。
埼玉愛犬家連続殺人事件発覚の9年前の84年。
関根の関係していた3名が、行方不明になっている。
埼玉県警は関根を疑い大規模な捜査を行ったが、立件には至っていない。
この件で関根は、法的には無罪だ。
だが、まったく証拠を残さずに人の命を奪う殺人のエキスパートだったと疑うこともできる。
最初の殺人は10代の時だった、と関根は語っていたという。
逮捕された時、関根は53歳。
30年以上に亘って、発覚されず殺人を続けてきたことになる。
家にはライオン、虎、熊がいたことも
83年10月24日、関根と風間は結婚し、埼玉の熊谷で暮らす。
風間が26歳、関根は41歳であった。
関根のほうが風間姓になったが、後に離婚して関根に戻っている。
混乱を避けるために、関根は関根と書くことにする。
和春は4歳で、幼稚園児だった。物心ついた時から関根がいたので、ずっと実の父親だと思っていた。
関根は、ペットの繁殖と販売を行う会社アフリカケンネルの経営を行っており、妻となった風間も参画した。
家にも犬がいて、ライオンや虎、熊がいた時期もある。
ネコ科で体長が50~90cmほどもあるカラカルもいた。
小学生になると、犬を毎日散歩させること、家の中の拭き掃除をすることを、和春は関根に言いつけられた。
夕方は風呂の準備をしなければならなかった。
「犬の散歩は嫌いじゃなかったし、家のことをやるのも普通かなって思ってたんです。
でも、友達と遊びたくて、ついついさぼって出かけちゃうと、木刀で殴りつけられる。
寝坊したりして、掃除とか、やらないで行っちゃったりするじゃないですか。そうすると、学校までわざわざ迎えに来て連れ帰られて、やらされた」
「俺は、おまえの実の親父じゃねえ」
和春が6歳の時に、妹の希美(仮名)が誕生する。
妹が成長するにつれて、和春の疑問が募る。妹は小学生になっても、掃除などをさせられないからだ。
希美は現在、30歳。
2人の息子も含めて家族全員が死刑囚となっている大牟田4人殺害事件を除けば、実の両親がともに死刑囚となっているのは、今の日本で彼女だけだ。
ずいぶん身構えて会いに行ったものだが、愛されて育ってきたと思わせる、穏やかな女性だ。
希美は確かに、自分は兄とは違う扱いを受けていたと思い起こす。
「私にも、やらなきゃいけない決まり事はあったんです。学校に行く時に電気を消す。ただボタンを押すだけ。やると1回100円お小遣いくれる。忘れても、『お前だめだね』って言われるだけでした」
和春が中学生の時、関根は告げた。
「俺は、おまえの実の親父じゃねえ」
ショックを受けた和春だが、ある疑問が氷解する。
大人の男性の背に掴まって、一緒にバイクに乗っている夢を何度も見ることがあった。
それは、銀行員だった実の父親との別れの場面だったのだ。
和春と希美への、関根の扱いの違いはさらに歴然としたものになってくる。
コンクリートの上で正座させられ
「私には甘い優しい父親でした。飼っていた九官鳥に『お父さん、バーカ』とか覚えさせても、怒らない。『うちの娘が』とかお客さんに話して笑ってる」
希美はそう顧みる。そんな様子を見る和春は辛かった。
「出かける時でも、妹は関根の頭をペシペシ叩きながらゲラゲラ笑ってて、関根もニコニコしてる。
だけど俺がなんか言おうもんなら、すげえ怒鳴ったり、蹴っ飛ばす。だから、怖くて何も言えない」
関根の和春への虐待は、激しさを増す。
「親の財布から金盗んで遊びに行っちゃったことがあるんです。そん時は、すっ裸にされて外に出されて、玄関先のコンクリートの上で正座させられて、膝の上にブロック3、4個載せられた。
ホースで水もかけられた。それは何度もやられましたね。
2階の部屋から引きずり出されて、階段を突き落とされたことも何度もある。
荒川大橋に連れて行かれて、飛び降りて死ねって言われたこともある」
「お母さんを殴らないで」と叫ぶ妹
関根は、風間にも暴力を振るっていた。
母親と一緒の部屋だった希美は、そこに関根が乱入してきたことを覚えている。
「部屋に入ってきた父が母をつき飛ばして、戸棚の中の通帳なんかを持って行ってしまったんです」
和春も、同様の場面を隣室で聞いた。
「自分が部屋で寝始めてる時、関根がお袋の部屋に行って、いきなり妹の泣き声が聞こえたと思ったら、関根の怒鳴り声がして、凄くお袋を殴ってた。
『お母さんを殴らないで』って妹が叫んでる。怖くてずっと布団にくるまってました」
風間の顔に痣ができていたり、頬が腫れているのを、二人は何度も見ている。
だが、彼を知る多くの人々が、関根は楽しい男だったと語っている。
「自分はアフリカに11年、アラスカに8年、シベリアに2年いた。青年期からの半生を炎熱、酷寒の地で過ごした」
「シマウマの血を体に塗りたくってライオンの群の中に突進したり、瞬く間に牛1頭を白骨化させる15万匹の凶暴なピラニアが群遊する沼に素足で入ったりして、英国BBC放送をして『ジャパニーズ・ターザン』と呼ばしめた」
そんな大ボラを吹く関根をおもしろがって、つきあう人々は多かった。
一方で、アラスカン・マラミュートを日本に広めた男として、犬の世界では成功者として認められてもいた。
連続殺人者の特徴
DV(ドメスティック・バイオレンス)の研究者らによれば、DV加害者は、暴力を振るう時以外は、親切で働き者、子供思いで礼儀正しく、ウイットに富んで話し上手である、という。
これは、ユーモアがあり、強面の風貌だが腰が低かった、という関根にも当てはまる。
結婚前の風間の目に、関根はそのように映ったのだろう。結婚する時の気持ちを、風間は控訴審公判で述べている。
「明るくて力強く、当時4歳の、自分の子供にも優しかったから、いい父親になってくれると思った」
一方で、殺人者の顔を隠し持っていたと思われる関根だが、海外の連続殺人者らを見ると、平穏に社会生活を送り、人間関係も良好、知的で愛嬌があったりもする。これも、関根の姿に近い。
妻に刺青を入れさせて…
関根に出会う前の風間は、東京都北区にある中央工学校で測量を学び、卒業すると熊谷市内の測量事務所に勤めた。
土地家屋調査士として独立しようとしていた父親を、いずれ手伝おうと考えてのことだ。76年に銀行員と結婚するが、夫の女性問題で82年に離婚している。
地道に暮らしてきた風間の目には、放埒で野性的な関根が、新鮮で魅力的に映ったということは想像に難くない。
結婚すると、風間は両肩に刺青を入れる。希美はそのことを思い起こす。
「母は父を慕ってました。父の写真を持ち歩いていたほどです。父に合わせて無理して煙草を吸うようになったり、刺青も入れていました」
和春は違った見方をする。
「慕って入れたんじゃなくて、逃げられないように、関根に無理矢理入れられた。そう、お袋から聞きました」
関根は風間以前に、2人の女性との結婚歴がある。
彼女たちにも関根は刺青を入れさせていた。関根自身も、背中にライオンの刺青を入れている。
関根との紐帯として入れた刺青が、しだいに風間にとって、枷鎖のような重みを持ってきたのかもしれない。
関根によるDVが目立つようになってからは、どんな家族だったのか。
「おうちで食卓を囲んだことっていうのが、ほぼない。記憶にあるのが1回くらい。外で食べる時は従業員さんも一緒で、話すのは仕事のことでした」
希美の言葉に、和春も同様に語る。
「ばあちゃん(風間の母親)が来て作ってくれる食事を食べるんで、家族一緒というのは、ほとんどなかったですね」
市内一等地にあった「犬舎」
DV被害者たちの体験談を読むと、別れるという結論にはなかなか至らないようだ。
「私が彼を怒らすようなことをしなければ」などと、言動に気をつけて暴力を回避しようと考えるケースが多い。
風間はアフリカケンネルを盛り上げることで、いい関係に持っていこうとしたようだ。
86年には、犬の飼育・繁殖を行っていた「万吉犬舎」に事務所と従業員寮をかねたログハウスを建設。
「万吉」は地名である。
翌87年には、熊谷の中心地に、ペットショップを開店した。
関根が万吉犬舎で仕事をし、風間がペットショップを切り盛りし、お互いの距離を保つこともできた。
ペットショップは3階建て。アラスカン・マラミュートとライオンの大きな写真が掲げられ、「犬猫狼」の文字があった。
目の前に八木橋デパートがあり、近辺には銀行も並ぶ。
そこは今、駐車場となっている。熊谷では一等地なのに、そこだけ歯が欠けたように建物がない。
そこから、国道407号線を荒川大橋を渡って南に2kmほど行った田畑に囲まれた地に、万吉犬舎があった。
屋根には「犬猫狼」「犬はアフリカケンネル」という二つの大看板があった。
犬舎は今も朽ち果てながら残っているが、窓などはほとんど破れ、建物の中は乱雑に散らかっている。
ログハウスの天井のシャンデリア風の照明器具はそのままだ。
命がけで離婚
事件が起きる前年の92年12月、アフリカケンネルに税務調査が行われる。
「離婚をして不動産名義を風間に移し、関根には県外へ出てもらい、別居したほうがいい」とのアドバイスを風間は弁護士から受ける。
それを胸に秘めていた風間だが、年が明けた1月16日、それまでを超える虐待が、和春に加えられた。
2階の階段の上から和春は、関根に突き飛ばされて階下の壁にぶつかる。
壁板が割れた。裸にして玄関先に座らせるいつもの虐待に加えて、関根は和春を木刀で叩き続けた。
必死で止めた風間は、このままでは、いつか息子は殺されてしまう、と思い、離婚を決意したという。
弁護士からのアドバイスを伝え、税金対策のために籍を抜こう、と風間は関根に提案した。
風間は控訴審第12回公判(2004年9月15日)で語っている。
「離婚を切り出すときは命がけでした」
「暴行を受けるかもしれない。しかし、ここで切り出さなければと思い、離婚届にハンを押してもらうことだけを考え、『別れてください。子供の親権は私にください』と言いました」
課税を逃れるための偽装離婚だと信じて、関根はそれを承諾する。93年1月25日、法的な離婚が成立した。
家を出た関根は2月からは、前年に知り合ったばかりの、前出の中岡の家に住み始める。
中岡はブルドッグを飼いブリーダーを目指しており、勉強になるからと関根の運転手などを引き受けていた。
群馬県片品村の中岡の家は、国鉄(現JR)から買った貨車2台をT字型に置き改造したもの。
地元では「ポッポハウス」と呼ばれた。今は何もない原っぱに、コンクリートブロックだけが残っている。
次々に殺害し、遺体を解体
最初の殺人が起きたのは、93年4月20日。
この時、関根が51歳、風間が36歳、中岡が37歳である。
犬の売買で関根とトラブルのあった、山上治男さん(仮名)が殺された。39歳だった。
続いて7月21日には、暴力団幹部の高城康伸さん(仮名)が殺される。51歳だった。
高城さんは山上さん殺害に気づいて関根を強請っていたのだった。
同時に高城さんといつも一緒にいる付き人の小宮山亮さん(仮名)も殺害される。21歳だった。
8月26日に殺されたのは、54歳の田中泰代さん(仮名)。
関根は田中さんに、法外な値段で犬を売りつけた上、偽の投資話で金を巻き上げている。
いずれの遺体も、ポッポハウスに運ばれ、風呂場で解体された。
刻まれた肉片は、近くの渓流に流される。
高温で燃やされて粉になった骨は、山林に捨てられた。
関根とのトラブルを、山上さんの妻は知っていて、埼玉県警行田警察署に伝えている。
万吉犬舎やポッポハウスを捜査当局は監視していたが、それをかいくぐっての犯行である。
関根の殺人者としてのエキスパートぶりがうかがえる。
逮捕されたとき、娘は…
遺体がほぼ消滅していることもあり、捜査は難航する。
事件の翌年の秋になって、中岡の妻が勤務先の建設会社から、5千万円を横領している事実を、捜査当局はつかむ。
痴話喧嘩のもつれから発生した事件で、被害者の処罰感情も弱いものであったが、中岡への揺さぶりに使えると考え、捜査当局は妻を逮捕する。
中岡は、任意の取り調べに応じた。
自分は死体を見せつけられた恐怖から、死体の運搬と解体後の遺棄を手伝っただけだ、と供述。
殺人は、関根元と風間博子によるもの、と語った。
中岡の案内で、片品の山林から、多数の骨片、焼けた腕時計ロレックスサブマリーナが発見される。
時計は山上さんのものであることが、製造番号から確認された。
95年1月5日、関根と風間が逮捕される。小学3年生になっていた希美は、ペットショップで風間と一緒にいた。
「その前から、警察とかマスコミは来てたんで、その日も普通に来たという感じでした。
私、逮捕というのが分からなくて、ただ連れてかれちゃうって思った。
警察の人は『すぐ帰ってくるから』って言うし、お母さんも『大丈夫だから』って言うけど、何が何だか分からなくて……。
お祖母ちゃん(風間の母親)が迎えに来てくれて、夜ニュースを見ても最初は意味が分からなかった。もう一度ニュースで見た時に泣きました」
知らされなかった両親の逮捕
和春は、成田空港から離陸する飛行機の中にいた。
中学を卒業した後、前年の10月からアメリカのカリフォルニア州デイビスの学校に留学していた。
正月を実家で過ごし、再び渡米するところだった。
「後から聞いたんですけど、お袋は逮捕されるのが分かってたらしい。
それで逮捕の時間を、自分が飛行機に乗った後にしてくれって頼んだらしいんです。
張り付いてた警察の人に言ったのか、どうやったのかは分からないですけど。
自分が戻ってこられないように、そうしたって聞きました。
実際、逮捕の時間は、自分が乗った飛行機が飛び立ってすぐなんですよ。
確かに、その前にニュース聞いちゃったら、飛行機乗らないで戻って来ちゃったでしょうからね」
一方、関根は前年に江南町(現在は熊谷市に合併)に新築した自宅兼犬舎で、一人でいるところを逮捕された。
前年5月より、ここで関根と風間は同居を再開していた。
同じ1月5日、中岡の妻が保釈されている。中岡は、1月8日に逮捕された。
2人の子供が事件後に受けた差別
和春は、3カ月ほどでアメリカから戻ってきて、一旦は親のいなくなった自宅に身を落ち着けた。
風間が最も信頼していた元従業員と一緒に、残された犬たちの面倒を見るためだった。
「知り合いのつてを辿りながら、ディスカウントショップで働いたり、鳶とか型枠大工とかいろいろやりましたね。
親のこと言われて嫌んなったり、遊びのほうに走って辞めちゃったこともあります。
大叔母さん(風間の叔母)のところに世話になったり、入った寮を仕事辞めて出て、友達のところにやっかいになったり、住むところも転々としてましたね」
親の事件のことを知っても、変わらずつきあってくれる友人がいるので、熊谷から遠くには離れたくなかったという。
希美は風間の母親と一緒に、東京郊外の風間の妹の家に身を寄せた。
「高校生の時、おつきあいを始めた方に、母の話をしたことがあります。
すると、『人間は一度罪を犯したら、立ち直れないんだ』って言われた。
私も事件のことをよく知っているわけでもなく、だから、その人が信じてくれるわけもないんだけど、受け容れてはもらえないんだなあって感じました。
だからもうそれからは、仲のいい友達にも話せませんでした。
高校を卒業して、福祉系の専門学校に進んだんです。
この人なら分かってくれるかもしれないって人がいて、母のことを話しました。
その人は自分の父親に話して、母が主犯格だ、って言われたらしくて、違うよっていくら説明しても分かってもらえなかった。やっぱり隠さなきゃいけないって、強く思いました」
希美はたまたま、中岡の手記が載った週刊誌を目にしたこともあった。
そこには、風間が演歌を口ずさみながら遺体を切り刻んでいた、と書かれていた。
これだから、周りの誰も事件のことを教えてくれないのだ、と心を閉ざした。
01年、浦和地裁で関根と風間に、殺人と死体損壊遺棄で死刑判決が下った。
05年には、東京高裁で控訴棄却となり死刑判決が踏襲された。
「人も殺してないのに、何で死刑判決出んの?」
専門学校を卒業して、介護の道に進んだ希美は、事件のことを自ら調べ始めた。
「博子さんは無実だと思います」
「人も殺してないのに、何で死刑判決出んの?」
公判記録をたぐっていて、証人として出廷した中岡が、そう発言しているのに出くわした。
中岡の供述により、風間博子は殺人罪で起訴されたのだが、その本人が後の裁判では否定しているのだ。
希美の心の扉が開いた。
風間が演歌を歌いながら遺体を解体したというのも、事実ではないと中岡は法廷で明かしていた。
風間自身は、逮捕から一貫して、殺人については否認してきた。だが、全面無罪を主張しているわけではない。
食い違う証言
2件目の事件のあった7月21日、「今夜、高城んちに行ってるから、10時頃迎えに来てくれ」と関根に言われ、風間はクレフを運転して現場に行き犯行時に居合わせてしまったという。
その恐怖から関根に命じられるまま、2人の遺体を載せた車を運転。死体解体の一部も手伝ってしまった。これが死体損壊遺棄にあたることは、風間自身も認めている。
7月21日は、数十万人で賑わう熊谷のうちわ祭りの最中であった。
事件のあった93年、中学3年生の和春は、屋台でたこ焼きを焼くバイトをしていた。
「友達の親が露天商をやっていて、中学2年の時は売るのを手伝っただけ。
中学3年の時、お客さんに出すたこ焼きを初めて焼いたんです。
うちわ祭りは、7月の20、21、22って毎年決まっていて、初日は、お店は出せない。初めて自分で作らせてもらって持って帰ったんで、21日と分かるんです」
午後10時頃、高城さんの家に出かける前の風間と一緒に和春は、持ち帰ったたこ焼きを食べていた。
一方で、関根や中岡が供述し判決も認めたのは、風間も含めた3人でカリーナバンで、高城宅に行ったという内容だ。
「3人で一緒に行ったっていうなら、お袋と自分で、たこ焼き食べるのはできないから、それはないと思うんですよね。自分、すぐに寝ちゃったんで、その後何してたかは分かんないですけど」
和春は裁判にも出廷して証言した。事件から7年が経っていた。その後離婚に至るが、その時は結婚していた。
「結婚する時、彼女の家のほうから、親と縁を切ってくれって言われたんですよ。
どこでどうバレて、子供がいじめられるか分かんないからって。分かりました、って、婿になって、向こうの姓を名乗りました。
裁判の証人も、向こうの親からは止めてくれって言われたんですけど、一回だけでいいから出させてくれって頭を下げて行ったんです」
だが、身内ということもあり、和春の証言は判決では退けられた。
関根から持ち掛けられた「取引」
希美は成人式を迎えた時、叔母から「何があっても、お父さんがいたから、あなたがいるんだよ」と言われ、手紙を書いた。
関根からの手紙には、「お母さんを帰してあげる」という言葉もあった。
「でも、逞しかったあの父が、変わり果てていたらどうしようって心配で、何回か手紙のやりとりをしただけで、会いには行けずじまいでした。
数年後に母に面会に行った時に、父にお金を差し入れたんです。
でも後日、東京拘置所の差し入れ係から連絡があって、受け取り拒否ということで戻ってきました」
実はこれに先立つ01年9月、関根は風間に対して、100万円くれれば本当のことを話す、と持ちかけていた。
「自分は被害者と金銭的解決を考えていたが、返す金など無い、と言って風間が殺害を言い出した」と、関根は取り調べ時に供述していた。
これが裁判で、風間が殺人に関与しているという、大きな根拠の一つとされていた。
関根から風間への手紙には、食料品や日用品に要する事細かな金額が記載されていた。
拘置所では支給される以外のものを、自費で購入することができる。手紙には、こんな言葉も添えられていた。
「終生一度の初めてで最後の懇願。餞別か香典の代わりとして考えて下さい」
「懇願」には「とりひき」と振り仮名があった。そして、こう続く。
「関根は片道を前に行くだけです。親御殿や娘と再会出来ますよう一命をかけ申し上げる一心です」
だが、金と引き替えの証言では裁判で信用されないと判断し、風間は話には応じなかった。
希美からの差し入れを受け取って、求めていた金額とのあまりの落差に、関根は「これが答えか!?」と激怒、受け取りを拒否したのかもしれない。
「悪魔に魂を売った女三人」
09年、最高裁で上告棄却され、関根と風間への死刑判決は確定した。
風間は再審請求を行っていたが、昨年12月11日、最高裁で棄却され、新たな再審請求を行っている。
「お父さんから本当のことを聞きたい」
そんな思いから、希美は昨年、再び関根に手紙を書いた。
確定死刑囚に手紙を出せるのは、親族と拘置所が認めた知人だけだ。
関根は東京拘置所の係官から、「娘の名前を言ってみろ」と言われたという。
本当に娘からの手紙か、確証がない。
関根は、娘がすでに結婚しているかどうか知りようがなく、苗字が変わっているかどうかも分からなかった。
戸籍謄本など、親子であることを証明する書類を希美が提出。文通が始まった。
「最愛の娘を待ち焦がれてます、早く会いに来てください、みたいな手紙が最初は来たんです。
でも、面会に行く勇気が湧かずにいると、すねて怒りの手紙に変わる。
母や叔母さん、おばあさんを罵倒するような内容になるんです」
そこには、「悪魔に魂を売った女三人」などと書かれていたという。
関根は、事件のことは答えてくれないが、犬の飼育のことは答えてくれる。
どこかから、真実を知る糸口を見つけたいと希美は願っている。
希美と和春にとって、事件はまだ終わっていないのだ。
註)風間博子の母親は2016年に、妹(希美の叔母)は2020年に逝去した。風間の第2次再審請求は今年の1月14日最高裁で棄却され、第3次の再審請求が現在行われている。
深笛義也(ふかぶえ・よしなり)
ノンフィクションライター
1959年東京都生まれ。週刊新潮に「黒い報告書」を70本以上書いてきた他、ノンフィクションも多数執筆。著書に『エロか?革命か?それが問題だ!』『女性死刑囚』『労働貴族』などがある。2017年、本記事をもとにした書き下ろし『罠』(サイゾー)を刊行した。
2021年3月27日 掲載