始めてのニュースに接した時「何と言う清々しさだろう」と思いました。
現在の日中関係を思う時、文化の粋を惜しみなく注ぎ 又優秀だと認められれば
唐にとどまって高官にまで栄進させる懐の深さがありました。
井真成は帰国直前に死亡しますが「墓誌」が出土して誰であろうかと・・・難破船
では何も残らず、そのような留学生も数知れなかったはずです。
計らずも千数百年を経て当時の歴史が再現されたわけです。真実は一つ 歴史を
書き換えるとよく言いますが、以前のものが偽りであったことになることも。
真成の墓誌は 縦40・3cm 横39・2cm で黒曜石に楷書で書かれていました。
「尚衣奉御を追贈された井公の墓誌の文 序と并せる
公は姓は井 通称は真成。国は日本といい、才は生まれながらに優れていた。
それで命を受けて遠国へ派遣され、中国に馬を走らせて訪れた。中国の礼儀教養
を身につけ、中国の風俗に同化した。正装して朝廷に立ったなら、並ぶものは
なかったに違いない。だから誰が予想しただろう、よく勉学し、まだそれを成し
遂げないのに、思いもかけず突然死ぬとは。開源二十二年(734)正月❑日に官舎
で亡くなった。年齢は三十六だった。皇帝(玄宗)はこれを痛み、しきたりに
則って栄誉を称え、詔勅によって尚衣奉御の官職を贈り、葬儀は官でとり行わせ
た。其の年二月四日に万年縣の滻河の東の原に葬った。礼に基ずいてである。
ああ、夜明けに柩をのせた素木の車を引いてゆき、葬列は赤いのぼりを立てて
哀悼の意を表した。真成は、遠い国にいることをなげきながら、夕暮れに倒れ、
人気のない郊外におもむいて、墓で悲しんでいる。
その言葉にいうには、「死ぬ事は天の常道だが、哀しいのは遠方である事だ。
身体はもう異国に埋められたが、魂は故郷に帰ることを願っている」と。
(原文・読み下し・現代語訳はすべて、展覧会ゲストキュレーターの東野治之・
奈良大学教授による)
写真:入場券